CRUCIFY (ねが)  誰もが愛されたいと希うこの時代に。すべてを捨てて “愛そう"と尽くす人間はいないのか。いや、こう言って みよう…。これを読んでいるすべての人間に。私は、他 の誰でもない、あなたを選ぼう。あなたの全人格を見つ めて、他の人間に見られない、あなた固有の特徴を、美 ・・ 点も汚点も引っくるめて、あなただけを選んで、愛しぬ こう、と。しかしこれを読んでいるのは、私から見て不 特定多数である。つまりこの点において一人の人間をと ことん愛しぬこう、という極めて個人的な(そしてこれ のみが本当に喜ばれる)愛情は、『博愛』という云わば 「誰でもいい」愛情に、堕してしまう。博愛に堕ちずに、 個人的にすべての人間を愛することは不可能なのか。そ れが可能ならば、人類の数だけ私を分裂させて、愛する だけの存在にもなりたいと思うのに。(後略)   ―――T. K「彼といたって、幸せでなんかないだろう。 F「あなたに何がわかるの。 K「ちがうか。 F「……。そうよ、でも! K「あいつは年下の詩人とつきあいはじめたらしい。男  だ。 F「………! K「なぜ彼と一緒にいるんだ。あいつは迷惑をかけるば  かりだろう。 F「――――  「愛情って、そんなものじゃないかもしれない。私は ・・・・  母のこともそんなに好きじゃなかった。でも私を必要  ・・・・・  としている。…そんなものよ。 K「でも自分の幸せだって考えるべきじゃないのか。 F「ちがう。あなたはわかってない。たしかにそうかも  しれないわね。でも私はそんな種類の女じゃないの。 (モノ)  わかる? 愛情は取り替えが利く商品じゃないのよ! 〈F〉  私が今の彼に出会ったのは、大学時代のことだ。わざ わざ「今の」とことわったのには、理由がある。彼とは 小中学生のころに同じ学校へ通っていたからだ。 T「実行に移せる(そうしてきた、実績のある)、君が  うらやましい。私は、云うだけで、行なえない人間だ  から…。 F「そんなことないわよ。それに、言行が一致しなくて  も、優れた業績を残した著述家はたくさんいるわ。  『著述家は、行為でなくその著作で判断されるべきだ』  って、あなたは言ってたじゃない。 T「…自分にそれを適用する程、厚顔じゃないさ。 F(ほんとう? あなたの書くすべては、自分の甘えを  認めたい一心で…そのあらわれに見えるわ。そんなと  ころが好きなんだけれど) 〈F〉  そのころのことを、少し話そう。私は、早熟な少女だ った。彼は、殻を抜けきっていないようにみえた。それ がすべてだ。…が、何がしかの通い合いはあった。  ことわっておくが、親しく話したとか、そんなことは ただの一度もない。ときに同じクラスになり、必要なと きに二三当然の言葉を交わしたまでのことだ。私は悲劇 の少女でありその悲劇を扱えるものとして冷静にみてい た。彼はそんな私に惹かれていたのかもしれない。そう 思える節が二、三ある。…だが私は興味がなかったし、 そんなことより切実な当面の問題があった。彼は幼く… 幼いながらいまの孤高の片鱗をみせ、また宇宙科学分野 への鋭い見識をもちあわせていたけれども、当時の私に は児戯の類にしか思えなかった。だが他の大勢よりは関 心をもちうる人間のひとりではあったかもしれない。た だその分意識して避けるような言動があっただろうか? 彼は、私に近づくと張りつめた空気が漂うようだった、 と云っている。……  「論」というとがった方向性までゆきつかず、ほのめ かしにとどまることができるから、「小説」という形態 は好きだ。有機的な関係性の総合として意見を言うこと ができる。…この特性のゆえに部分的な言葉を引っぱり だしてきてあれこれ論ずるのはやめてもらいたい。   ―――T.  『男女の思惑はくいちがい、複雑なかけひきは純愛から 離れる。同性愛の中にこそ、愛情の純粋な形があると思 うんだよ』  ――Tははじめこんなことを云っていた。観念的なお 坊っちゃん……そう思っていたけれども、あんな言辞を 弄するのは愛情の照れかくしな面もあったらしい。しか しあれで本心ではあったようだ。……  現実の同性愛の世界は、けしてそんな純粋なものでな いこと。それが決定的な打撃になったとは思えないが、 幻滅の素振りは露骨にみせた。君と、Tは異性愛に回帰 していってしまうのだろうか――?   ―――K. 〈F〉  高校へ入学する前に、私は事情により都内へ移転して しまったので、彼のその後の消息は知らなかった。彼に とっては重要な時期だったらしい。そのころに、決定的 な今へつながる変貌を遂げる契機となる事件が…しかし それは今は措こう。  私の事情というのは、父の死、正しくは蒸発だがある 種の死と等価であることには間違いない。それで、親子 二人して母方の親戚へ頼りに行かざるを得なくなったの だ。親戚と云っても姉の嫁ぎ先つまり外戚で、こちらは 随分と肩身の狭い思いをした。なんでも代々山の手に居 を構える元士族の家系とかで、それなりに昔は裕福であ ったらしいのだが、誰だったかが事業に失敗したという 後遺で、当時もそんなに余裕はなかったのだ。さらに私 は転居の際の手続きミスで都立へ入学することができず、 家計に負担のかかる私立高へ行かざるをえなくなった。 居候先の冷たい視線に身も細る思いの日々が続いた……. T「オレに、本物の才能なんか、無いんだよ。あるのは、  ロクでもないまがいものの才能ばかりだ。……それも、 (いらない)  時代に何の役にも立たない。不要の人間なんだよ。 F「――そんな事ないわ。もしそれが本当だとしても、  私は他にあなたのような人間を知らないし、あなたの  価値は本物だと信じてる。それに、いらない人間だな  んて言わないで! あなたは、私が必要としているじ  ゃないの……! T「…本当かな。オレが一方的に必要としているだけか  と思っていた。  (迷惑をかけどおしでいるくらい、わかっているさ!)    ―――――  「まあいい。しかしオレの無能力さを否定できるのか。  大学は合わずに中退してしまったし、抽象美術の方面  だってそうだ……少し勉強した人間なら、誰だって描  けるレベルにすぎない。ダメだ、オレには、決定的に  “天賦の才"が欠如しているんだよ。どうしようもなく  な。それでも気質は破滅型の芸術家のそれに生まれつ  いてしまった。……これだけ人間がいるんだ、オレ程  度のレベルならゴロゴロ居るのさ。つまりオレは、生  きていけない、不要な人間なんだ。違うか? F「違うわ。あなたが、もし他の人間としてあなたを全  く同じ条件の人間として見たのなら、そうは言わなか  ったはずよ。自分にだけ自分の〈理想〉を向けないの  は、いけないわ。 T「それは、極めて当然な態度だ。…… 〈F〉  彼の方の高校時代はと云えば。外面的には私などより はるかに恵まれて、楽な環境ではあったらしいが…内面 にはかなり辛いものがあったと聞いている。  私が転居した後、彼はまあ順当に学区のトップ公立高 へ入学、そこで数々の文化系クラブ活動に参加して、小 説・詩・論説等を矢継早に発表、充実した学生生活を送 っているように傍からは見えたそうだ。だが、中学時代 私も関知し得なかったことだが、父の再婚後彼の家庭に 入り込んでいた継母と、彼はどうやら関係があったらし (のち) い……そのことに対する罪悪感? 否、彼の後に言った ところの「男の本質的な部分を侮辱された痛み」が常時 彼の上に翳となって覆っていて…母親の支配から逃れよ うと、ガールフレンドをつくろうとした試みも失敗、次 第に彼は鬱の闇に侵されるようになってゆき……この年 代には誰にでもあること、と簡単に片付けられてしまい そうだが、無気力・無関心・無感動、病の刻印、不適応 の徴が彼の上に頻繁にあらわれるようになり、対物暴力、 飲酒・喫煙、自暴自棄からの突発的行動、自らの生命を 危険にさらすような問題行動……等の数々を頻発するよ うになるに及んで、とうとう高校を2年で中退した。  その後しばらくは荒れた、しかし孤独な生活を続けた のち、発奮して大検に合格、同期の現役と同じ年に最高 学府と云われるT大学に入学した。  そのころに書いていた小説に「彼について」というも のがある。結局完成はせず原稿のほとんどは焼却されて いて見る術もないが、彼のそのころのノートに、その断 片が残っている。彼がもし中退という途を採らずに、休 学後、復学、という道筋を辿ったとしたら、どうなって いたか? という仮想に基づいた、設定である。ただ、 当然主人公は彼のそのままの投影ではなく、微妙に性格 が違う。Tの実際の性格より、もっと臆病で、実行力が なく、裏付けのない大言壮語を吐くきらいがある。また、 この中には、理想の友人を描き出す試みもある。復学し た主人公に興味をもち、どんなことを考えていたか、ど うしてこんな行動をとってしまうのか、を、真摯に聴い てくれる、彼が唯一心を開く相手……この友人が、小説 全体の語り手となっている。ただ、やはり復学というの はどだい無理な選択であった、のだろうか、結末は、主 人公の自殺、それも友人への同性愛感情の告白をきっか けとする、悲劇である。ここの部分に、一貫した美学と 緊密な体系を築き上げようとして果たせなかった、それ がこの小説が中絶に終った、最大の原因であるというこ とだ。 F「あなたの生活は私が働いて一生支えるから、そんな  こと言わないで、生きて! 私のために、 T「母親のようなことを言う奴だな! そんな施しは、  受けない。…俺はいまだに母親をこの手で殺せなかっ  たことを、後悔しているんだ。 F「――私を代わりに殺して。お母さまに似ているんで  しょ? それなら私を代わりに殺してしまって、そし  て生きて! あなたの心的外傷が、それで癒えるのな  ら。そのためになら私の命を捧げるわ。 T「……ああ、殺してやろうじゃないか。俺の理想は、  死ぬんだ。それでもそれにしがみつく、おまえのよう  な女は、……  (拒否されることを見越して、そう申し出ているのだ  ろう? それとも、……本気なのか) 〈F〉  私の長い灰色の高校生活の裡には親戚との間に忘れら れ様もない悲劇の体験があった。性の刻印。従姉妹より の、強姦、同性愛の強制と奴隷的屈従体験である。先述 した通り、私はかの家では非常に弱い立場にあった。逆 らうことなどもっての外、まして、あちらの親に告訴す るのは、プライドが許さなかった。こんなことをさせら れている、と認めるさえ許しがたい。母は? 頼りにな らなかった。あの人は万事夢見がちな所がある。中学の ころは、私の方が安定して家計を支えていた、あの人は 養われる側であって断じて私の保護者ではない。父を引 き留められなかったのもあの人がいけない。当然私は父 を憎んでいる。が、去られた後にも、あなたのお父さん はね、とっても素敵な人でね…と云った、絵空事染みた 夢物語を呟きつづけている、そんなに愛しているなら、 なぜもっとあのころに父の気持ちをしっかりと引きつけ ておかなかった…! しかも、従姉に初めの晩に知らさ れたことだが、彼女は私の父があちらの母(つまり私の 母の姉)に生ませた子供であるらしい…。幻の父を愛し ている母も、そんな母を捨てて不倫までしていた父も、 何もかも、イヤになった。私の存在している基盤、それ は何。このような汚らわしいもの。  性の理不尽な暴力に耐えるために、私が採った方法は、 彼女らよりずっと非道な享楽の知識を得て、優越するこ と。古今の性の文献をあさり、そうした欲望を自分のも のとして受け入れ、追体験したうえで、それを軽蔑する こと。こうすることで何とかバランスを保っていたわけ だ。単純な軽蔑の一点張りでは、充分でない。無知であ ることで、快楽に籠絡され、自我を明け渡してしまう。 快楽が存在しないと強いて云い聞かせることも、誠実で ない。人間存在というもの…それ自体に内包する、哀し さ、とでもいったようなものを、愛しみ、受け容れるよ うな姿勢でもって、これに対すること。そして、そうい ったものにいつまでもとらわれていて、私にそれを向け ざるを得ない、彼女らに激しい軽蔑を。私は従順に笑み さえ見せて彼女らの要求に従ってみせた。そのうえで私 が優越しているのを知っていたから。そう、すべてを私 は耐えた。独りで。  二人とも、魂を削るような快楽ばかり味わってきた。  今度の愛は性で汚したくない。  (一途に想ってる……その裏でKに会ってるT)  「好きだよ、K」「俺もだ…」情を交わした後の気怠 い気分で、天井を見上げる。日差しの柔らかい午後。サ ンルームのうすく透けた天窓が、心地よさを伝えてくれ る。男声アルトの甘い歌声が、二人の世界を優しく包む。 それはまるで、祝福してくれているようだ。    ――――― 「やっぱりFのことが気になるんだな」 「何を云っているんだよ。あいつはなんでもないんだ。 あっちが勝手にくっついて来たがるだけさ」 (本当か……) 「T、おまえは、俺だけのものになるか、さもなければ ……」 「今はそんなこと云わないでおくれよ、せっかくいい気 分で愛を交わした後じゃないか…… 〈F〉  親戚の経済的幸運が私を救い出してくれた。彼らとの 同居から解放され、アパート住まいに。ただその少し前 に母が病で倒れたとあって、完全に独立とはゆかず、や や離れたとは云え目と鼻の先の、イザというときに連絡 の取れる距離であった。ここでもやはり母が足を引っ張 ったわけである。ただもう従姉が手を出してくることは なく、母親の在宅看護という重荷もそれまで背負ってき たものと比べれば何ほどのことはなかった。私は解放さ れ、前途がはじめて明るく見えだした。  生活を支え、母の看護をするかたわら勉強をし、私は 奨学金を得て大学へ入学した。幼いころからの夢、遺伝 子工学を学ぶためである(これには親友の死が深くかか わっていた)。学力があと一歩足らずにまたしても私立 の学校へ入ってしまったが、(奨学金を)就職後働いて 返せる自信はあった、それくらいでつぶれる私ではない と。幸い、在学中に母の病気は快方に向かい、まずはそ の前途に不安はないといえた。  大学時代にふと手に取った思想同人誌に、久しく忘れ ていたTの名前があった。何か、全人類を愛することに ついての、少し危うい情熱を秘めた小論だったと記憶し ている。学園祭だったか何かの折りに、少しばかり話を した。その時は別段深い関係になることもなく……だが なんとなく昔と変わった彼のことが記憶層のどこかに刻 みつけられたことは、確かだ。 F「それで、いまつきあってる年下の詩人って、誰よ. T「!っ……。知ってたのか。Kの奴だな。  「名前はA、ゲイのカメラマン&詩人で、オレの美し  さの記録をさせてる。とある文芸サークルで知り合っ  たんだが、彼の内なる趣味を知って、こうして深い仲  まで、引っぱりこんだわけさ。わかったかい? F「……わからないわよ。それで今日も会ってきたって  わけ!? 深い仲って、どういうことよ……。ゲイ、だ  なんて……!汚らわしい。だいたい私の…… T「いいだろう話してやろうどんな仲なのか、細部まで。     ―――――――  撮影の後、照明を落とした部屋で、向かいあう。優し く彼の服を脱がせて、横たえる。…褐色のたくましい肉 体、日焼けしてよく締ってる…尻の穴を押し開いてく… 「やめて」俺の欲望を挿入し…「やめて」。(こんな… ・ こんなの、真違ってるわ。やめさせなければならない。 そのためには……)「わかった、やめるよ。彼の話をし よう。彼は手に障害があってね、汗だ。そのために女性 には絶対受け入れられるはずがないと、信じ切ってる。 とてもいい詩を書くんだけどね。まるで断ち切ってきた 想いが結晶した一大女性讃歌だ。性欲は、ね、『自分か らは(誰とも)係わっちゃいけない!』…と受身の欲望 を好む。能動的には何もせず、されるがまま…さ。それ (レイプ) なら罪の意識もない。ときには目かくしをされて強姦さ れたい、とかね。言ってくるよ、口には出さずにね。… …そうそう、こんな話はやめなきゃいけないんだっけね。 悪かったな」「可哀そうなひとね」「ああ…だから…」 「それは救おうとしてる!? そうじゃないでしょ」「… …」「私が、そのひとに抱かれてあげようかしら。そん な…汗なんて、気にしないでいいわって。何でも好きな ことをやってごらんなさい、やりたくてもできなかった ことを。私が受け入れてあげるから」 …何でそんなこ とを云うんだ.君を、Aに抱かせはしない  Tが奇妙 な目附で私を見ている.まるで異質な生命体を、私の中 に発見したかのように  性の極北まで……  ……だから、Tのあんな話にあれほど動揺する私では ないはずなのに。  なにゆえに? (ジェラシー)  ――嫉妬。  女性嫌悪。女の体なんて。あのなよなよとした曲線! 肉と脂肪の塊のような…。これさえ見せれば男なんて言 いなり、と見下してやがる。頭ン中も体つきに相応しく、 なよなよと甘ったるく、感情に走り、論理というものを てんで理解しようともしない。自分の理解できない世界 は存在もしないと決めつけている。あるいは何の価値も ないと。それによって日々のぜいたくが成り立っている とも知らずに。自分の知っている世界だけで馴れ合って 喜んでいて、他にも世界があるなんて思いつきもしない。 すぐに感動して信仰に没入したり、ある強い流れに躍ら されやすい。自分の感情的真実だけで世界を測ろうとす る。そのまえに体だ! こんなみっともねーものに、メ ロメロの骨抜きにされる男性も男性だ! こんな態度で いるから女性がつけあがるんだ。―――――  とにかく、世間一般では、女性特有の体つきや曲線が 「美しいもの」とされているようだがそれを認めない者 もいるということ! F「Tは根深い女性嫌悪や、軽蔑、嘲笑……しかし私に  は(それにもかかわらず)ノートを全て見せてくれた。  何もかも包み隠さず、そのままで」  (“性"に関係なく私を一箇の人間として全面的に信頼  してくれていること。)  (応えなければ…限りなく愛おしい)  「Tは、男には、浮わ気をしても、女は、私以外には  見向きもしない」 〈F〉  大学を卒業し、すぐにでも働きに出るつもりだったの だが、卒論担当教授の強い勧めによって大学院に残って 研究を進めることになった。私自身はそうは思っていな かったのだが、かの教授の云うところによれば、私は抜 群の成績と技術とセンス、をもっていたらしい…。後に 私は教授と……男性相手では初めての、肉体関係を結ぶ ことになる。つまり私が処女を捧げた相手ということだ。  彼は、とくにハンサムだったとか女性をひきつける傑 出した魅力があったという訳でもない…むしろ風采の上 がらない、パッとしない中年男で、しかも妻子がいる。 多分に自己処罰欲求と自己価値への卑賎視があった、と 分析は可能? いや…、私は本気で彼を愛したし、そん な陳腐な分析であの愛を説明できるものではないと信じ ている。彼の、どうしようもない家庭内状態への同情? は、なきにしもあらずだが、けしてそれだけではない。 愛には『愛』としか表現しようのない理由のない部分が 確実に存在する。その教授が……今になっても涙なしに は思い返すことができない……死んでしまった……私に とって、はじめての、真に関わった人との、今生の別れ の体験であった……。私は数週間泣き腫らして暮らした。 教授の紹介で就職の内定していた研究所への日参もおろ そかにし、ついには内定を取り消され、それが故人を深 く悲しまれる行為とは知りつつも、私は何の関心も呼び 起こせず、一連の出来事を他人事のように見ていた。  結局、その学期はまともに学校へ行くこともできず、 留年が決定し、次の年にもう一度頑張るつもりでいった ん休学願いを出した。  この、短い空白期間の間に、私はTと、深く知り合う ことになる。  文学の連中みたいに、言葉にフェティッシュな関心な んて、ないんだよ。そんなもの信じてないもの。言葉に あらわす前の、思想…いやそう言い表すまえの段階のも の…なにか、もやもやしたなにか…が、重要なのであっ て。言葉、表現されたテクストだけでどうこういうのは、 ちがうと思う。だからといって、作家の人生や、行間を 読みとること、そんな研究だって、違うわけで…。所詮、 他人。それを研究していくだけで生きていくなんて、何 の意味がある? 大事なのは、自分を完成させていくこ と、そして(運よくそれが叶ったら)表現していくこと そのものなんじゃないか。  それは、あなたならではのセリフね。それができる、 そうした指向をもった人だから。でも私はちがう…自分 を完成させていく(他人はある意味で、みえない、すべ て独自の解釈のもとで、とりいれてしまう)人とちがっ て、他人を理解することにすぐれ、そちらのほう…たぶ ん、調和? を大切(生きがい? 生きる意味…)にす る人たちもいると思うのよ……。 〈F〉  新年度になって、私は(Tの励ましも得て)大学に復 学し、担当の教授は違うものの、修士論文の完成に向け てもう一度研究に集中した。就職は、懸案の事項ではあ ったものの、教授のことを思い出してしまうからいまは 考えたくなく、戦線の中で大きく遅れをとってしまった が、運のいいことに良い話が舞い込んできた。今年博士 課程を卒業する年代に、私も名前だけは聞いていたのだ が、新興の某研究所の所長の息子がおり、彼が、所内の 派閥争いか何かに対抗するために、同じ大学からの生え 抜きの研究員を探していたのだ。その候補の中に私の名 前も入っており、渡りに舟と私はこの話に飛びついた。 これで就職の問題も安泰となり、落ち着いて研究を完成 させることができた。無事に修士論文も審査を通って、 私は社会人生活への第一歩を踏み出した。  「隠喩」は、嫌いだ。つかめない。文学性…? ひと りよがりとしか思えない。  流れを説明せずに、自己満足の甘え…。  ただし必然性、それでなくては表現できないなら別。    ―――――  俺の書く文章には字面にある以上の意味は原則として 含ませない。   ―――T.  私は、外出の帰り、駅で、電車に乗ろうとしていた。  何げなく、車両へ足を踏み入れかけると、  ―――Tの声! その横に、K………!  なぜ!? なぜ、私の恋人と、私の研究所の、副所長が、 一緒に……  しかも、普通の友人同士とは、明らかに違う空気…。 (あれ) (はは) 「彼女には、継母を連想させるところが…」 「結婚前の、浮き草のような恋愛には… 「その家庭の幸福を望むには、Fはあまりにも…」  立ちすくんでいる私を押し除けて、群衆が電車に入り 込む。二人は、人ごみにまぎれて、見えない…が、そこ だけ別世界のように、異様に鮮やかに、会話の断片が、 耳に入ってくる。全世界に存在している音は、それだけ のようだ。  けたたましいベルが私を引きもどし、目の前で閉まる ドア。動き出す電車のなかで、一瞬Tはこちらを認め…  轟音の去った後、魂の抜け殻になった私だけが、ホー ムに取り残された。 〈その、夜〉 「どうして、あなたがKと一緒にいるのよ」 「…なんの事かな?」 「私のことを見なかったとは、云わせないわ」 「………」 「どうしてあんなに親密な空気なのよ。まるで恋…恋人 同士のように(私といる時、以上にずっと…!)」 ・・・ 「きみは、オレ達の関係を、どういうものだと思うんだ」 「! ………」 (ホモセクシュアル) 「同性愛関係だよ」 「やめて!」 (どうして…どうして…私の身には…こうした汚らわし いことばかりが…続くのよ…) 「恩を着せるつもりはないが、君がこうして好きな研究 で食べていけるのも、私がKに口を利いたから、でも… あるよ」 「……。ちょっと気分が悪いから、やめて。すこし一人 に…私を、放っておいて!」 (受け入れるしかない。受け入れるしかない。私は、強 いんだから、乗り越えられる。大丈夫…。Tを、捨てる わけには、いかないから。そして、この、職も) 「Kと、同性愛関係……、女性化願望があるってことな のかしら?」 「ちがう。確かに犯される感覚は好きだ。女装…という か美しく着飾りたいとは思うけど、女になりたいなんて 思ったことはない。男に生まれてきてよかったと思って る。彼との関係はむしろ社会の女性化に抗するレジスタ ンスのコミュニティーだ。男性原理―――粗雑な男っぽ さではなく、男性脳的な世界の見方というか……女性、 いや母系の原理ばかりでは、世界はかならず停滞する。 男は飼いならされて、去勢されているんだ。……」 (そう。ご立派な思想的背景があって、けっこうなこと ね。――私なんか…!) 「あなたはそういうことをむしろ好むタイプかと思った (カウンターテノール) んだけど、ちがったかな。ほら C T とかカストラ ート(去勢歌手)が好きだってむかし云ってたじゃない。 けっこう、伝統的な異性愛主義者なんだ」 「………。 「ええ…そうね。カストラートなんかは無性…そんな濃 密な男同士の愛みたいなのとは無縁で神聖無垢――だい たい不能だったって説も…」 「俺たちの目指してるのだって、そんな無性の境地さ。 でもいいかい、精神を高みへ上げるには、まず肉体を解 放すること…。そうだ、コリン・ウィルソンの小説『賢 者の石』にまさにぴったりの一節がある。…… 〈F〉  「……母が死んだ」  それで? 重荷が下りた、とでも云うのか? 少なく とも、教授のときのような、感情の乱れは、起きなかっ たことは確かだ。私は冷血な人間なのだろうか? 〈K―――〉  あるとき何かで、Tに「君はどこか宮澤賢治に似てい るな」とかそんなようなことを言ったことがある。  彼は「賢治は嫌いだ」と短く答えただけだった。  たしかに、私もあまりに神格化された賢治像は嫌いだ。 彼は貧しい農村のなかで財産家のボンボンとして世間か らの嘲笑をうけながらとっぴな己の理想を描きつづけた 変人であり、それだからこそ味わいがあると思うのだ。  彼も、そのようであっていいのではないか、と思う。 〈T―――〉  昔、クラスの演劇? の際に、君は小説を書いている んだから、劇の脚本を書いてみる気はないかなあ…と持 ちかけられたことがある。私は言った、私の表現は連帯 して表現されるべき性格のものではないと。あまりにも 個として独自の、刻印が捺されている、集団で連帯して 表現すれば、特有の背景を負っていないだけ嘘になって しまう――と。さすがに、それで『堕落する』とまでは 云わなかったが。 〈F〉  母親が、亡くなって、私は、独りになった。それから だろうか? こんなに…こんなに、虚しいのは。 (彼といたって、全然幸せでなんかないのよ! 愛を捨 てれば、少しは生きがいが見えてくるかも知れないじゃ ない。どうして、あんな寄生虫のような奴に、いつまで もひっついているのよ!)  ――だめよ、そんな、罪なことを考えちゃ…。彼はね、 そうよ、あんなに優しい人は、どこをさがしたっていな いわ。それに、気の毒になるくらいに、私を求めている ……。  昔読んだある雑誌に、こんなことが書いてあった。女 の子が、肩肘張って一生懸命やることを、男の子はサバ サバといい加減にやってしまう。また、女性には、自分 の中であるグループなり団体に属していることが大きな 位置を占めやすく、そのために自分を犠牲にする(こと が「正しく」なる)ような価値観の〈転換〉が男性に比 べて起こりやすいが、それはいつか自分の「子供」とい う専制君主に仕えなければならないからだ、というよう   (バイアス) なことが。多少偏見がかかっているようだがある面真実 でもあろう。私の中でも〈転換〉が起こりかけている。 “彼"という〈至上の価値〉の前で、他のすべてが、色あ せてしまうような――。  憧憬はしない…人の説くところに唯々と従うような愚 かな少女ではありたくない。純真さを称揚するな…愚か さと同義だ、私は憎む。どうように、詩なぞというロマ ンチシズム? 感性? 子どもらしく、感じたままを表 現せよ? そのような、非論理的な言葉の羅列になど、 私は価値を認めない。論理。私の愛するものは。そして 整然と築き上げられた言葉の――構築物。 《F、少女時代》 ・・・・・・・  ヒューマニズムは間違っている、と冷徹に認識をした うえで、あえて弱者としてヒューマニズムにすがること。  確固たる真実と見えるものは概してまがいものである (パラドックス) ならば、逆説 を生きるほかないだろう?   ―――T. 〈F〉  幼いころの親友……中学のころに亡くなった……彼女 の顔が、消えかかっている。「母親があんなだったから、 こうなるとはわかっていたわ」。――なぜ? 生まれた ときから寿命が決まっているなんて……こんなの、まち がっているよ!  遺伝子医療への道を選んだ、最も重大な、動因。これ が、消えかかっているということは……  今日はダリアの花が飾ってある。そのそばに、熱帯植 物の、密生した、絵。彼の部屋には、常時4種類以上の 壁全面を覆う巨大な絵が、架けられている。  抽象美術を志して、大学を中退した後フリーターや同 人活動を続けるかたわら、絵の学校へ入るためのお金を 稼いでいたという。が、いざ入学しても学風が合わず、 またもや途中で投げ出してまった。このごろでは、いく ら展覧会に出品しても一向に入賞ができないので、日頃 の彼に似つかわしくない荒々しい台詞を喋り散らし、私 に当たってくることも再三ではない。が、その後、必ず 可哀想なくらいに消沈して許しを請うてくる…。「君が 信じてくれているから、ぼくはこうして生きていられる んだ」こんなことでは、破滅へ向かっているのは明白で あるのに、どうしてだろう……憎みきれないのだ。   ―――F. 〈F〉  彼は、ライフワークとして、P.K.ディックの晩年 の著作に匹敵するような(あるいはさらにスケールの大 きい)、宗教的ヴィジョンを全面に盛り込んだ、遠未来 SFを書くことを、高校以来の宿願としている。  あるいは、これは、使えるかもしれない…。私は、彼 の、唯一の恋人にはなれないかもしれないけれど、唯一 の忠実な“信徒"になら、おそらく…。  Tには、明らかなキリスト願望が、みとめられる。  三位一体論のグノーシス主義的修正。キリスト=聖霊 (ハギア・ソフィア) =《聖なる智恵》。ここに、聖母マリアと聖ソフィアの 相補性を加味して、Tの継母を盲目の神サマエルの使い とし、彼女との類似性が認められるこの私、Fは、サマ エルの手の下に引き入られる前に、Tに殺される(現象 世界ではそう見えるだけ。実際には、上なる領域、に送 り込まれるという意味)ことによって彼の導き手、聖母 の役割を獲得し、本来のソフィアの人格をとりもどす。 同時に、この宇宙的儀式の全体は、もとは真なる神の下 で一体であったキリスト(T)とソフィア(F)の同一性を もって、キリストの十字架の再臨、世界の真の救済への 第一ステップともなり、時空に、永遠に消えない波紋を 拡がらせてゆくことになる。    ―――――  私が、こんな戯わ言を本気で信じている訳ではない。 ただ、Tに信じさせることができれば……私は、意味を もった死を、迎えることが出来る。(そして、きっと、 受け入れてくれるであろう、という確信)  ……ああ恐ろしい。  どうしてこんな恐ろしい考えを抱く人があんなに優し く清らかな声で、聖書を読むことができるの。  そういうときにはいつものよくみられる皮肉っぽさと はうって変わって(まるで本気で信じてでもいるかのよ うな)真摯さで…。  それが演技であるならば、彼は非常に卓越した演技者 であると云わねばならないだろう。  だが、もっと恐ろしいことには…そのときには、正真 正銘、そのものなのではないかと云うことだ…。   ―――F.  童貞を。うばわれる、ということは。(きれいな女の 人とヤれて、よかったじゃないか)なんてハタからみれ ばうらやましいものかもしれないけれど。男にとって、 ・・ 原始的といおうと何といわれようと大切な、「女を征服 ・・ する」という実感がもてないために、深く心の傷として 残る。 《T、高校時代》 《Fの心中》   Tが、こう言ってくれればいいのに……  「オレは、お前の魂が欲しい――(中略)――完全に、  オレの所有物となってオレの欲望のためにならすべて  を犠牲にする、そんな状態になったお前の魂を」   けれど彼は優しいから、思ってもけして口に出して  はくれないに違いない。私はそれを待ちわびているの  に――!   (「主体性も奪い去られて」はいない! 「愛」ゆ    えに、の明け渡しだから。つまり 神 の残酷さの    すべてを体現したいと云う欲望)  かつて彼はこう言った。「僕は、中学生のころだった か…? 奴隷状態の極限の体験といった夢を視たことが ある…。『おまえは、〈私〉などと考えてはならない。 すべて〈あなた〉と考えろ。一人称で考えてはならない、 ・・・ すべて二人称で、すべてこの私の欲望の充足のためにの み、おまえは考え、行動するのだ。おまえの存在の意味 は、そこにしかない』…だいたいこのような趣旨の文章 を内在した 1語 が発せられ、私はその奴隷となった。 身も凍らんばかりの…いな自我がばらばらに崩壊せんば かりの…大音声だった。いや、聴覚だけというのは当た らない…頭ガイ、そして全身に鳴り響く、意志を持った “振動"というのが近いか。あいつは…あいつは、〈悪魔〉 だった」  恋物語…ラブソング…(わかるようになった?)  同列に、古典劇、そしてキリスト教的な…「狭き門」、 「新エロイーズ」。  Tはこうした女性はきらいらしい。いわく「恋する男 ・・・・・・・ の魂、以外の他のもの(それは神に他ならないのだが) に身も心も捧げているから」だ。そして「何よりこれら は二人とも『男性に描かれた女性』というところに問題 がある。同性ならここまで神格化はしない。男性のなか の…自分を(そしてその欲望の勝手さ…)信じ切れず、 ・・・・・・・・・ 外部に、理想化された女性を、倫理の絶対の物差しにす る傾向をあらわしている(たしかに女性は欲望の制御に おいて一枚上手にみえるが…)」 ・・・ ・・・・・・・・    ・・・・・・ (――だから、私はあなただけを、(偶像)崇拝の対象に ・・・・・・・・ しているでしょう? そうした“他のもの"ではなく。)   ―――F.   (「永遠の少年」元型)  自分は、愛されてはいけない人間だと分ってる……君 たち2人とも、私の精神が生み出した 幻影 としか思え ない……  自分を愛することのすべてがナルシシズムか?  弱さを受け入れることは。  自分に対して「大丈夫。あなたには私がいる」となぐ さめる(いたわる)、このはたらき、この“愛"は。  自分を分裂させて…。  それも、「純愛」にかぞえてはいけないか。  「たしかに、あなたの繊細な感性の中には、美しさが あるわ」と、認めて―――!(破棄された手紙) (ひとつ) (T、高校時代の恋愛の試みの一。) (「認めて、受け入れて」と、世界にもたれかかること は、甘えだ!)   ―――T.   〈F〉  自分が「男性に描かれた女性」のような気がする。心 の動きの細部まで、Tの言葉によって叙述されているよ うな…。 ――――――――――――― Fは私の頭文字、FemaleのF,FantasyのF,―――私は 彼の小説の登場人物として描かれるのだから、抽象的な この一文字でまったく構いはしない。 *     *     * Crucify my love If my love is blind Crucify my love If it sets me free Tried to learn Tried to find To reach out for eternity Where's the answer Is this forever ――― X JAPAN ―――  わたしたちは、この世では何ひとつ所有していないの だ――ただ、〈わたし〉と言いうる力だけを別として。 この力をこそ、神にささげなければならない。すなわち、 これをほろぼさねばならない。わたしたちにゆるされて いる自由な行為なんて、まったくひとつもない。ただ、 この〈わたし〉をほろぼすことだけは別として。   ―――シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』                 (ちくま学芸文庫)  信者たちの祈り、殊に女がその愛する者のためにし、 妻がその夫のためにする祈りが、神や諸聖人にたいして どんなに大きな力を持つものであるかは、多くの証拠と 例とによって我々に明かである。(中略)エホバは聖人 たちの祈りが彼の怒にとって手綱のような作用をなし、 罪ある者どもに、その相当する罰を十分与えきれなくな ることを、これらのお言葉で自ら告白しておいでなので ある。……     ―――アベラール『アベラールとエロイーズ』   (岩波文庫) ・・・  一般的要点をいえば、私たちは、両側面を見るように しなければならない。そうしなければ、心理的にみて悪 い結果になるかもしれないのである。一例をあげれば、 ・・・・ 女性がもしもっぱら女神、マドンナ、この世のものなら ぬ美人とみられ、また彫刻台上の存在、空中あるいは天 上の存在としてながめられるならば、女性は男性にとっ ては近づきがたいものとなる――いっしょに遊んだり、 恋愛したりするわけにいかない。そんな女性は、十分に 地上的なもの、肉体をもったものではない。実際にこの ことが男性において生じたという危機的状況にあっては、 (中略)男性は性的不能となり、そんな女性と枕をかわ すことはできないと感じることが多い。(中略)そうな ると、臨床医ならよくご承知の、マドンナ=売春婦コン プレックスの全部が現われてきて、その場合には、善良 で・上品で・申し分のない女性とはセックスはできない が、汚れてむかつくような下品な女性とだけはできるこ とになる。……     ―――――――  女性がたとえば月経小屋――月経中の女性はみなまる 一週間、あらゆる人との接触を断ってここにこもり、そ のあとで儀式的沐浴などをせねばならない――にこもら されるという、ひどい不利益をこうむる場合でも、(中 略)ある点では、おそらく女性に有利なのである。この ような境遇にある女性は、自分の月経と経血には強大な 力があり、危険なのだと考えるにちがいない。(中略) 彼女は大事な人間であり、重要な人間なのである。私は、 このことが、女性としての自尊心に資するところがある のではないかと推測している。  男性についても、もし彼の神秘、たとえば、勃起し、 射精し、その精子は生きて泳いで、何か神秘的なしかた で卵子の中へ突入して、赤ん坊を成長させるなどのこと が、もし本当の神秘と考えられれば、同じことがいえる であろう。妻と交っている夫を、農夫とか、鋤を手にし た人とか、種をまいている人とか、何かを地中に押しこ んでいる人とかに見立てた神話はたくさんにある。その ように見た場合、彼の射精は、単に因果関係にしたがっ て何かをもたらすだけのこととはちがってくる。(中略) すなわち、神秘的で、畏怖をひきおこし、敬虔の念を生 み出す儀式となる。同様に、(中略)彼らの男根をたと えば陽物崇拝者が考えるように、美しく聖なるもの、畏 怖をひきおこし、神秘的で、大きく強く、危険ともなり、 恐怖を呼びおこしもするもの、理解できない奇跡だと考 えるように教えることができるならば、それは望ましい ことであろう。(中略)少年はすべて聖物、王笏を保持 している者、女性の誰一人もっていない自然の賜物をも っている者となるであろう。……       ―――A.H.マスロー『創造的人間』   (誠信書房)  「誰にでも」好かれる、ということは本当はちっとも 好かれていないこととかわらない。好き、というのは― ―もっとはっきりいえば愛情というものは独占欲や固着 と結び付くのであって、きわめて個人的なものでしかあ りえないはずである。だからこそわざわざ「博愛」とい う語があって愛情と、あるいは恋愛、情欲、情愛と―― エロスとアガペとを区別しているのだ。本当は彼ら、彼 女たちの求めているものとても、決してそのような、 「誰にでも」好かれる、といったあいまいなものではな いはずなのだ。このところさえ頭でなく気持が納得すれ ば、拒食症、過食症は確実に治る。彼らが真に求めてい るものは、「自分を自分のまま」「あるがままの自分」 を受け入れてもらい、それを「選んで」愛してくれるこ とである。今の状態はそのまさに正反対の状況にある。 彼らは選んでもらうため、合格するために、与えられた 規範の形に自分の体と心をおしこみ、そこからはみだし た部分をけずりとろうとあがく。それは「自分でないも の」にならなくてはならない、というあがきである。そ こには「自分のあるがままの自分」では決して愛されな いはずだ、という絶望的な確信がともなっている。     ―――――――  明らかに、少女たち、JUNEを求め、それを何等か の拠点とした少女たちにとっては、問題なのはホモであ ることでもなければ、レズビアンであることでもなかっ たのだ。彼女たちが女性どうしの恋愛にほとんど共感を 示さないという事実そのもの(中略)が、彼女たちがむ しろ「女性であること」自体に対して反逆したいのだ、 ということを証明してくれる。彼女たちは「少年であり たかった」少女たちなのだ。だが、彼女たちはすでに少 女として育っており、その生育史のなかではすでに、愛 の対象は父からはじまる異性、男性、男という性として インプリンティングされている。自分は少年でありたい。 そして自分を愛する者は男性でしかありえない。この両 者の論理的結合の結果がJUNEジャンルである、とい うことができるだろう。  そのように考えると、彼女たちが、(中略)現実の同 性愛そのものには敢然と、といいたいくらいに背を向け て、きわめて空想的なシチュエーションや愛のかたちを のみよしとする方を選んでいる事も当然である。現実に 男と男がくんずほぐれつからみあうような現実の同性愛 くらい、むしろ彼女たちの世界から遠いものはない。ま た彼女たちの描く少年たちは、決して女装しないし(長 髪と中性的なかっこうはするが)、言葉遣いも決してい わゆるおネエ言葉をつかわない、むしろかえって男性的 なしゃべりかたをするのも当然である。誤解を恐れずに いってしまうと、JUNEにおける少年たちは、実際に は「男装した少女」そのものなのであるから、少しでも 女性化を感じさせてはその意図は失敗なのだ。…… 中島梓『コミュニケーション不全症候群』   (ちくま書房)  ――どこからが完全な創作で、どこまでが完全に本音 の欲望か?   そんな区別、本質的じゃないじゃないか。  どれほど誤解されても、俺自身はけして傷つかない。  それは、本当に誤解されたら耐えられぬほどに傷つく までの深い結びつきをもった個人がこの学校には誰ひと りいなかったこと、もあるし……  誤解された俺の姿こそその人にとって本質なのだから それでいいじゃないか、と思うためでもある。   ―――ノート Freude,schoener Goetterfunken,Tochter aus Elysium, Wir betreten feuertrunken,Himmlische,dein Heiligtum! Deine Zauber binden wieder,was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Brueder,wo dein sanfter Fluegel weilt.  真情の叫びであるところの「断片」にのみ価値を置く ・・・ のだ。他人にわからせるための、つなぎ、あるいは「断 ・・ 片」を効果的に見せるための、「構成」など、考えよう とする動機づけも、関心も、ない。(技術的なことや瑣 末事に過ぎないじゃないか)   ―――ノート  原案段階に、還れ! 「愛する男に自分を殺させようとしたのに土壇場で思わ ず生存本能が自己主張して悲鳴を上げてしまった――そ のため鬱状態を人工的に造り出す薬を購入する薬剤師の 娘の心理」 *     *     *  研究所のオフィス。渡された書類を手に、戸惑いなが ら問いかける。 「この薬剤を、融通してほしいんだって?」 「そう。“彼"のために、十字架にかかりたいの」 「十字架。とはまた、穏やかでないな」 「説明はあとでするわ。お願い」 「わかった。だが――」 「ありがとう。恩に着るわ」 *  変哲もない喫茶店。卓子を向かい合って、一組の男女。 二人の前には、数錠の薬剤。 「しかし、いったい……どういうことなんだ」 「あとで説明する、と云ったはずよ」  研究所の上司と部下。男が目上ではあるが、女にはそ れと意識させないものがある。 「薬理作用は、お調べになったかしら」 「いや……何しろ開発されたばかりの新薬ではあるし、 部課が違うものだから」 「そう。まあ抗生物質の一種ね。健常人が飲んでも、別 状はないわ。ただ、ひどい鬱状態になることを除いては ね」 「―――まさか…」  二人を結び付ける絆は、“彼"。そして、ともに薬学を 専攻していた、という共通点。 「彼のお母様に関する、悲劇は…」 「ああ、聞いているよ」 「そして、女性を遠ざけていたことも」 「ああ」 「ならわかるはずよ」 「…わからないな」 「何故。あなたも彼を愛しているのでしょう」 「何の関係がある」 「あなたには失望したわ」  そして女性は席を立つ。後に残される、男。      彼は幼時に母を亡くした。優しく、      気立てのよい人だったらしい。後      を襲った継母とは、愛憎入交った、      複雑な関係。気の強い、奔放な女      性で、彼の初体験は継母だったと      か。殺意を暖めているうちに、不      慮の事故死。彼は独立して上京。       俺は彼の同性愛の相手だ。あい      つは気づいていないらしいが。彼      の部屋にあの女が転がり込んでか      ら、会っていないから無理もない。       しかしあいつは何を云っている      んだ? 深い憂鬱。十字架。母親      の悲劇。女性を避け……ばかな。      そんなことで……(第一それでは      論理的に筋が通らない。女性のヒ      ステリー? 閉塞して狂った論理      か)  研究所のオフィス。男は女を問いつめる。 「ばかなことはやめろ」 「ばかなこと、って、なにかしら?」 「彼に殺されたい、と、云うのだろう」 「あら。悪い?」 「そんなことをしても、何の得もないぞ。それくらいで 彼の女性嫌いが治るとでも、」 「そんなこと考えてはいませんわ。確かに私は彼の育て のお母様に似ているようですから、私を捧げて新生して もらいたい、とは思います。しかしそれを、そんな俗的 な目的のためなどと誤解なさらないでください。もっと 高い意味合いをもつのです」 「そんなことはどうでもいい」男は(自分が同性愛者ゆ えの)思い込みを恥じて遮る。「おまえはただこの世か ら逃げ出したいだけだろう。それを彼の手をわずらわせ て……」 「混乱してらっしゃるのね。私は『殺されてあげる』の よ。『殺してもらう』のではないわ」 「同じことだ。いかに理屈をつけようと、それはつけた りの理由に過ぎない。おまえは『殺してもらいたい』だ け、自殺する勇気がなくて、他人に執行をゆだねている だけだ。それを自分に気づかせないために、そうやって 死に意味を与えているんだ」 「やれやれ。まるでご自身に云ってるように聞こえるわ。 あなたこそ死にたいのではないの?」       「死が、怖くはないのか」とい       う男の問いに、女はうち笑みつつ、       「死んでも、無になりはしないわ。       私を形作る、生への意志。それは、       私が消えても、他のすべての生物       のなかで、またこの世界に内在す       る重力などの自然法則のなかで変       わらずに息づき続ける。世界は何       も失わないのよ。そして私も」       「くだらん神秘主義だ」       「あら、彼の言葉よ」       「何、あいつ、そんな神秘家のよ       うなマネを……はじめたのか(あ       いつの不適応も、ここまで嵩じる       と…)」       「そしてわたしは、       「彼の宗教活動のはじめに、十字       架に…」 (そんなことを、させてたまるか。馬鹿げている……し かし、彼らが救われる道は、これしかないのかもしれな い。――オレにはどうせ関係のないことだ) 「あなたも彼の言葉を聞けば、きっと感動するわよ。一 度…」 「ああ、聞いてやる。が、論破して、正道に連れ戻すた めにだ」  彼女は笑って云う。「彼の正道が、これなのよ」  彼は私と愛を交わすときには、女役。彼女とのときは、 当然男役であろう……  すなわち全人、ヒジュラ。神託を受ける者。  そして彼女は、魔性と聖性を、合わせもつ。  彼に出会うと、その瞬間に、心がぱぁっと明るくなる。 眩しすぎる朝……うとうとと微睡みながら目を覚ます、 部屋に燦々と日光が降り注ぐ、小鳥の声が聞こえる…… ふと       しかし、なぜだか、その思いは      続かず、気づまりになってゆく。      二人の世界は濃紺からラヴェンダ      ー、次いで深紅に染め上げられ、      死にたいほどの憂鬱、鈍く瞳に宿      る倦怠、やりきれなさ、そして迸      る激情。「殺して……!」「いい      のかい?」「かまわないわ……あ      なたになら」「わかった……愛し      ているよ。目をつぶって……何も、      怖いことはないからね。永遠を思      い浮かべて。そこは、まばゆいば      かりの光の世界だ。苦しみなど、      何処にもない。さあ、気を楽にし      て……愛しい君……愛してるよ…      …愛……」「やめて! 私に、さ      わらないで!」       ――忌まわしい記憶。  濃藍。セピア。朱。深緑。黄金。漆黒。深紅。純銀。 ……すべてを覆い尽くす白色光。 瀝青  彼女を、憎んでいるとばかり思っていたのだが。愛し ていることに気づいた。そうだ彼女の心を考えてみろ。 大きな宿命の不幸を前にしてもたじろがず。彼を一心に 愛しぬき。純粋な献身と愛の心……狂気の中で、それは 一段と妖しい彩りを添えている。このような魂を、愛さ ずにいられようか。  ……そうだ。彼女は、殆んど彼に等しい。  そして、彼女は、死んではいけない。私が愛している (ことに気づいた)からではない……彼のために。彼には、 純粋に崇拝してくれる人間が、必要だ。私ではそれが果 たせない。 「頼む、お願いだ。死なないでくれ。一時の感情に身を 任せて彼を不幸にしてくれるな! 頼む!」 〔そんな不幸な心理劇に、収束しないでくれよ! 二人 ・・・ とも…『愛する』てことが判っちゃいないんだ。生きな ・・ きゃ。――こんなの、哀しすぎるよ〕  「嘘。――嘘。宗教性のため、なんて嘘なのよ。あい つに、――つい強がっちゃって。“彼"は、けして教団な んか作ろうとしていない。まったく自分だけのために作 り出した宗教なんだから。むしろ彼は、それを他人に押 しつけるなんて、考えただけでもイヤでしょうね」  殺されて「あげる」。この恩着せがましさが、憤ろし い。なぜ、彼のために「死にたい」と云えないのか。彼 女の献身は、完全でない。  と云って、彼女の最後の虚栄心を、とやかく云うのは 誤りかもしれない。とにかく私には、それはできないこ となのだから。  彼に、殺してもらう、瞬間は、《永遠》の、一つの相の、 あらわれなの。この永遠のなか、私はずっと彼のもので いることができるの。その後彼がどれだけの(ひょっと すると、全人類)人間を愛しようと、ね。 (結局あいつは、世に出る論客になどなれないだろう。 ・・ ……そんな器じゃない。そう考えるとこのまま心中させ てやった方がいいのかもしれん。しかし。 ・ (俺は、あの二人を愛している。死なせたくはない。自 ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・ 分にとって真理であるような真理、なぞなくても生きて いくことはできるんだ。生きていてほしい。生きて、幸 福になってもらいたい。最悪な場合、俺の両親に頼み込 ・・・・・・・・・ んで二人を幼児返りさせてでも人間が生きている根本の ところとは、幸福とはどういうものなのか知ってもらい たい……。)  変わらなくては。二人とも、変わらなくては、いけな いんだ! あの二人は、お互いが「選んでくれない」苦 しみからは免がれ、たがいに「あるがままの自分」を容 認し合っている、それはとても心地よいけれどもそれだ けではいけない。二人とも可哀そうなくらいに苦しんで いる、それが異常なあらわれかたをしているのに気づい ていない、苦しみを自覚すること、もっとよい“生"に向 かって歩きだすこと!  止めなくては。このままではいけない、彼の部屋へ…! ―――――――――――――  あと一時間もすれば手ひどい抑うつ……今度こそ確実 に……死体の処理方法を示した手紙も認めたし。 (よろこび)  私は清澄な歓喜に充されている。  ――――眩しすぎるほどの光が、戸口から差しこみ… …  緑のしたたらんばかりの、雨上がりの美しい風景が、 私を出迎えてくれた。 Fin. 陽炎 66号(1997年文化祭号) Copyright (C) 2010 solarian.blog34.fc2.com All Rights Reserved.