スフォキア、スチーマー寺院。時刻はもうすぐ昼飯の時間を告げる頃だ。
「ふわぁぁ…眠たい……」
診察台でカルテを書きつけながら、エニリプサの少年は大きく欠伸をした。
「眠いなー…」
完全に寝不足だ。カルテの字はイモ虫がのたくった跡の波線のよう。
自分が読めればいいと普段もあまり褒められた字ではないが、今日はそれ以上だ。
クラの粘着の矢の軌道でも描いたのかと聞かれそうな字をしている。
「………まだ昼だろ」
カルテを書くエニリプサの少年の前に座るシアランが怪訝そうに口を開いた。
「あのねぇ、この時間、ボクは寝る時間なんだよ?」
そう言って、少年はまた大きな欠伸をひとつ。完全に昼夜逆転している。
しかし少年に直す気はない。必要がないからだ。
それに、彼の性癖上、逆転したままの方が何かと都合がいいのだ。
しかし仕事の時間だけは昼夜逆転が許されず、こうして一睡もせずに仕事に臨む。
「ねむぅ…。……はい、とりあえず今日の定期検診はおしまい!」
カルテを書き終え、少年はペンを置いた。
机に投げ出すように放られたペンがインクをわずかに散らしたが構わない。
「腕の調子は問題ないよ。医療の観点から見ても機工の観点から見てもねね」
機工の面は、設計を任せたスチーマーに見てもらっての話だが。
問題は、とシアランの義手の担当である少年は続ける。
「問題は幻肢痛だね。あいにくボクは心理学をかじってないからどうしようもできないよ」
そう言って少年は肩を竦めた。
そればかりはシアラン本人がどうにかするしかない。
唾棄すべき腕。シアランは自らの左腕をそう呼んだ。
それでも隻腕のままでいないのは、片腕だと生活に支障が出るからだ。
必要でなければ、シアランは隻腕のままでいただろう。
そう、義手を遠ざける思いが幻肢痛を生む。忌まわしいと呼んだことを責めるように。
痛みに苛まれ、ますます左腕を疎ましく思う。それがまた幻肢痛を引き起こす。
悪循環だ。わかっている。しかし、どうしてもシアランは左腕を好きになれない。
「受け入れたら楽になるのに」
ボクみたいにさ。欠伸をひとつ零して、少年はそう呟いた。
「異端である部分を認めればいいんだよ」
それはそういうものだと理解して諒解すれば、納得はしないまでも受け入れられるはずだ。
「あぁそうだ、肉欲に溺れたら幻肢痛も忘れるかもね」
ぽん、と手の平を打って少年はさらりと言い放った。
「ボクでいいなら今からでもどう?」
この後に用事は無いし来客も来ないよ、と少年は診察室の奥に据えられた寝台を指す。
「…………シルヴェスタ」
シアランの眉間に不快の皺が刻まれる。
あからさまに嫌な顔をするシアランに、少年は肩を竦めた。
「相変わらず冗談が通じないなぁ」
「………本気だっただろう」
口ぶりも表情も、完全に誘っていた。
しかし、あいにくシアランにその趣味はない。何より彼には最愛の妻がいる。
「…この色情狂」
「褒め言葉をどうも」
拒否に堪えた様子もなく、シルヴェスタと呼ばれた少年はへらりと笑ってみせた。
「いつか君も食べちゃいたいな」
上でも下でもいいよ、あ、両方かなぁ。
そのマスカット色の瞳に不穏なものを潜ませて、シルヴェスタは欠伸混じりに呟いた。


シアランが、定期検診の場所をスチーマー寺院にしたのには理由がある。
すなわち、義手の起動実験である。
シアランの義手に使われている機工は精密なもので、感覚上では生身のそれと変わらない。
細かい動きを難なくこなすことができるその複雑さは、グローブを着けていれば傍目からは機械と解らないだろう。
それほどのものがきちんと動くかどうか試すことに、寺院のドップルはうってつけのものだった。
「……攻撃ターレット、起動」
バリスタ型のターレットが召喚され床に据えつけられる。
スイッチ代わりに熱蒸気を吹き掛ければ、範囲内に感知した標的に向かってバリスタが発射される。
たまにバリスタがこちらに飛んでくるが、感知範囲に気をつけていれば誤射は減る。
が、今回は位置取りが悪かった。バリスタがシアランの足元に突き刺さる。
「…エボリューションかけすぎたな」
シアランは心中を口に出して小さく舌打ちした。
攻撃ターレットはエボリューションIII状態。威力も感知範囲も最大だ。
逃げの一手を打つドップルをバリスタが追えるようにと感知範囲を広げたのが間違いだった。
こうなれば、とシアランがドップルへと距離を詰める。配置した戦術ターレットがドップルをシアランの方へと押しやる。
シアランの攻撃範囲におさまったドップルへ、シアランは技を打ちこむ。
ばしん、と衝撃がドップルを打つ。打つが威力が低すぎてドップルに堪えた様子はない。
だが、それでいい。今の攻撃はマーキングだ。次の一手のための。
かちん、と攻撃ターレットにスイッチが入った。赤い色のランプが点滅する。
次の瞬間、鮫を模した波濤がドップルを打ちのめし、その断末魔ごとドップルは立ち消えた。
「……戦闘、終了」
動き回って受かんだ汗を拭って、シアランはドップロンを受け取った。


「シアラン!!」
寺院のドップルの部屋から出てきたシアランに、すかさず誰かが抱き着いた。
シアランにこんなことをするのは一人しかいない。
「……ロロット」
抱き着いてきたシャルロッタを右手で抱き返す。
定期検診と起動実験の間、ずっと待っていたのだ。
ほんの数時間の離別だが、寂しさに飢えるにはじゅうぶんだ。
「見てましたわよ、ドップル戦」
やはりシアランは左腕でシャルロッタに触れない。
そのことに気付きつつあえて言わずに、シャルロッタは口を開いた。
「ターレットの使い方がまだまだ甘いんじゃなくて?」
私だったら誤射なんてしませんわ、とシャルロッタは胸を張った。
そう言うがしかし、つい昨日、シャアラにバリスタが発射されていたような気がするのだが。
「あ、あれは……単調な戦闘に飽きないようにとの配慮ですわ!」
緊張感を持たせるためにわざと撃ち込ませたのだと主張するシャルロッタ。
一瞬、ぎくりと肩が跳ねたことについては指摘しないことにする。
「あーはいはい。バンフさーん」
公衆の面前で抱き合ったままの夫婦に、シルヴェスタが割り込んだ。
「次の検診は来月で、時間はいつも通りねー」
何度目かわからない欠伸を吐き出しながら、シルヴェスタが眠そうに目をこする。
告げられた内容にシアランが了承を示すと、また欠伸を吐き出して彼は身を翻した。
「ねぇお兄さん、ボク、今から寝たいんだけど、ひとりじゃ寝られないんだ」
お決まりの文句で通行人を呼び止めるシルヴェスタを横目に、夫婦は寺院を後にした。


「おかえりー!」
「さ、いつもの手合わせしましょうか!」
「今日こそシャアラのインビジを見破るぞ!」
「その挑戦受け取った! 効果切れまで隠れきってやるんだから!!」
「じゃあ、げらっちゃが負けたら井戸に塩いれましょうか」
「やめろぉぉぉぉぉ!!!!!」