JRAは依然海外馬をジャパンカップ(JC)に呼び続けているが、米国はそれに応じるのをやめてしまったのかもしれない。 最低でも今日のJRA役員は状況をそう見ている。 2年続けて、米国勢は10月24日に行われる東京競馬場開催の570万ドルの国際レース(ジャパンカップ)に姿を現さなかった。 Drysdale厩舎所属のサラファンが2002年にファルブラヴに鼻差で敗戦して以来、米国調教馬は勝ち負けから遠ざかっているのだ。 アメリカ勢がJCで振るわなくなるにつれ、開催国の富は劇的に向上していった。 合衆国調教馬はこれまでJCを4度制してはいるが、1991年にWhittingham調教師のゴールデンフェザントが勝利して以来勝利から遠ざかっている。 パターンレース(毎年一定の時期に一定の条件で繰り返し行われる競走)の中でも世界10指に入る名声の高いJCは、 今では7年連続で日本勢が制している。 1981年にJCが開催された当初の目的は、日本調教馬を世界の中長距離芝馬たちと同等のレベルにまで引き上げることであった。 しかし、当初の目的が達成されるにつれ、JCから国際色が抜けて行っているように見受けられる。 今年はわずか3頭のヨーロッパからの挑戦者が招待を受託したが、いずれもトップクラスの馬であるとは言いづらい。 しかし、JCが年末のレース体系における重要な位置を占めるようになり、 大きな関心を集めるようになるにつれJRA役員たちはレースに変化をもたらすことに乗り気でなくなっていってしまった。 JRA国際部門のゼネラルマネージャーであるNishikawa氏は、JC創設以来の出来事をすべてその目で目撃してきた。 彼は、1979年頃からJRAの部門に勤めていた。 当時は、日本調教馬が米国のワシントン国際D.C国際で勝負にならないことを目の当たりにしたJRA役員たちが、 日本競馬レベルの底上げのために確変が必要だと痛感させられた。 なお、この出来事は、2年後にジャパンカップが創設されるきっかけとなった。 (JC創設時の)考え方としては、より多くの国際競走を通じることで、 日本の競馬関係者達がアメリカとヨーロッパの競馬関係者から学び取ることができるというものであった。 生産者の能力も同時に上がるにつれて、その学習者たちはしだいにジャパンカップの支配勢力となっていった。 昨年の覇者である日本の4歳牝馬ジェンティルドンナ(記事が出た段階ではレース前)などは2番人気であり(米国ブックメーカーオッズ?)、 ジャパンカップ史上初の連覇を達成する可能性がある。 だが、そこにいたるまでに、日本競馬界は険しい道のりを乗り越えてきた。 最初のJCでは、勝ち馬である米国のメアジードーツはただのGⅡ勝ち馬でしかなかったうえに、 掲示板の上から4つが全て海外からの招待馬に独占された。 最初の数年はそれが恒例の展開であったのだ。 Nishikawa氏は通訳者であり助手であるTerauchiを通して言った。 「この結果は日本の競馬関係者にはショックが大きすぎました。」 「しかし、実際に招待馬は一線級のトップクラスの馬ではありませんでした。だが、それでも日本調教馬は彼らを勝つことができなかったのです。 当時我々の上司は、ジャパンカップの一番の目的は日本馬のレベルを向上させることにあるのだと語っていました。」 「1980年代に日本のレース賞金額はとてつもない額にまで上り詰めましたが、当時の日本の馬質はそれに見合うほどよくはありませんでした。 競馬人気は増していきましたが、日本馬の質が向上しないかぎりその人気は長くは続きません。」 「ジャパンカップは日本の競馬関係者にとって刺激剤のようなものでした。レースを通じて、彼らのどうにかしなければという意識が高まりました。」 とNishikawaは付け加えた。 「JCの歴史を振りかえると、第1回から10回までは海外調教馬のほうが日本調教馬より良い成績をあげていました。 次の10年では五分五分でした。 しかし、近年ではすべて日本調教馬が勝ち続けています。 これは、ジャパンカップ創設以来どれほど日本競馬が発展したかを明確に示しています。 その成功は同時に、アメリカをはじめとする海外馬のJC参戦の減少を招いた。 一時期は最高峰の馬を送らなくても勝負になったが、それがもう不可能であるということにアメリカの競馬関係者は気づいてしまったのだ。 くわえて、BCターフがわずか3週間前に開催されることから、数少ないJC参戦に意欲を示す米国調教師は数少なくなりました。 「我々は調教師たちにJCに馬を参戦させるよう説得しようとしています。」 「もし、我々が解決策を持っているのなら、問題を解決することはたやすいのです。 しかし、様々な要因が複合している問題であるため、解決が難しいのです。」 利尿剤(LASIX)のレース当日利用の禁止を含む、厳しい薬物規制がJC参戦への障害となっている。 検疫と長距離輸送も同様に参戦を阻む要因である。 「もしかしたら、米国の競馬関係者は国際レースにそれほど関心がないのかもしれない。 彼らは国内にとどまっていてもいいと思っているのかもしれません。」 「多くの競馬関係者はブリーダーズカップを最大の目標として調整しています。 ブリーダーズカップが終われば、彼らのレースシーズンはそれでおしまいです。」 「ジャパンカップは国際的に高いステータスを得ました。」とNishikawaは続ける。 「これは最初の国際招待レースのうちの一つでした。我々としては海外馬に走ってもらいたいのです。 海外馬がいなければ、それは国際レースではありません。これは競馬ファンも同様の考えです。 彼らもまた、多くの世界からトップクラスの馬が一堂に集い、ぶつかり合うのをその目で見たいのです。 世界中のレースをみると、おおよそ10から15頭ほどジャパンカップにふさわしい馬が世界にいると思います。」 JRAニューヨーク支局のゼネラルマネージャーであり、米国調教馬の招待を任されているYokoeと 南カリフォルニア競馬関係者と共に働きJRAとの契約業務を行うTsugeはNishikawaの意見に賛同する。 yokoeは、ハットトリック産駒であり12F戦で世界記録を今年の初めにマークしたBright Thoughtを招待しようとした。 しかし、8か月ぶりの休み明けで挑んだBCマイルで10着に敗れると、調教師であるGutierrezは辞退を表明した。 Bloodstock Agent(競走馬売買の仲介者)として年に半年は南カリフォルニアで過ごすTsugeは、 同様の体験をVagabond Shoesで体験した。Vagabond ShoesはJC招待馬の候補であったが、 BCターフで5着に敗れると調教師のSaddlersは馬を日本へ向かわせることをあきらめた。 「Saddler氏は日本にただ行くだけになるならば、行きたくはないと明確な姿勢を見せていました。」と Tsugeはメールを通じて記者に語った。 「彼は、彼の馬が勝負になると踏んだ場合にのみ遠征することを望んでいました。 Vagabond Shoes陣営にとっては、BCこそが第一目標でした。一方、JCはBC後に好調であれば出走するレースの候補の一つでしかありませんでした。」 殿堂入り調教師であるDrysdaleは、近年では最もジャパンカップに協力的な調教師かもしれない。 しかし、サラファンの2002年での好走以来、彼にはJCで勝ち負けできる機会が訪れていません。 「日本の(芝)馬のレベルは向上し、今では世界中で活躍している。 それらのトップクラスが集うジャパンカップを勝ち抜くのは厳しいと芝のレースで成績を残しているDrysdaleやSaddler調教師たちが証言しているのは事実です。」 「それゆえ、(JCで)勝負になるためには、最高峰の芝馬を連れていかなけなればならない。 数多の日本遠征の経験から、Drysdale氏はどんな馬がJCで活躍できるか明確な見通しを持っています。 自信を持ってそれらの条件をすべて満たす馬があらわれたと思えるようになるまでは、彼が日本に馬をおくってくることはないと私は思います。」 「一般的に、日本の芝馬の競走レベルが国際レベルになったと認められています。」と彼女は付け加える。 「結果として、米国の調教師が私訪ねてくるのです 「どうしてまだJRAはアメリカ調教馬を招待したがっているんだい?」と」