さて、話が変わります。 建速須佐之男命( たけはやすさのおのみこと) のご子孫に、天之冬衣神( あまのふゆきぬ のかみ) という神様がおいでになりましたが、この神様と刺國若比賣( さしくにわかひめ) との間に、彦神ばかり、たくさんお生まれになりました。この中の一柱の神様を大国主 命と申しあげ、その他の神様たちを八十神( やそがみ) と申しあげます。この大勢の彦神 たちは、親神様のおいつくしみのうちに、すこやかに成長されました。 年頃におなりなったので、親神様はご心配になられて 「あなた方も大きくなられたことですから、しっかり修行をなさって、立派な一人前に なって、よい比賣神を娶られて、私どもに安心させてもらいたい」 という仰せがあったにちがいありません。 もとより、すこやかに成長させた彦神たちのことですから、親神様にこうおっしゃら れれば、一同は喜び勇んで、よいお嫁さんをお娶りになるために、準備の修行がはじま りました。八十神も大国主命も 「彦神たるものは、こういうことが大切である」 と、めいめいお信じになるところにしたがって、修行をおはじめになりました。 これを現代の卑近なことになぞらえて申しあげれば、つぎのようなことでありましょ う。 「男たる者は、バイオリンの大家たるべし」 という方もありましょう。 あるいは 「マラソンの選手たることが男子の本領である」 と考えた方もありましょう。 あるいは 「男たる者は、騎馬の名手たるべし」 「男たる者は、農業の第一人者たるべし」 と考えた方もあったにちがいありません。 とにかく、それぞれ熱心に、三年五年と修行をされました。 その結果、それぞれに目指した技なり道なりについて、立派に修行がおできになった ことと思います。 ちょうど、その頃、稲羽の国に八上比賣( やかみひめ) と申しあげる比賣神がおいでに なりました。この神様は名の示すように、日本一の比賣神であったと申しあげてよい方 だったと存じますが、この八上比賣のことが、八十神と大国主命のところに伝わってま いりました。 そこで、彦神たちの間に 「いやしくも男神と生まれたからには、日本一ともいうべき八上比賣をお嫁にもらわん ことには承知ができないな」 という話がもち上がったにちがいありません。 もとより、どの神様も、自分の身についた自信があるわけですから、まことにもっと もなことであります。 一柱の八上比賣を中心にして、ここに大きな問題が起こったのであります。 「こちらは多数の男神で、あちらは一人の女神だが、さて、どういうことにしよう」 というような相談が行われました。 自負と自信と心臓の強さにおいて、いずれ劣らぬ彦神たちですから 「われわれはみな、天照大御神の一族であるし、三年五年と、各々自分の信じる道につ いて修行をしたのである。いやしくも八上比賣も、音に響くようなお比賣様であるから には、いかなる者が日本一の男であるかということは知っているはずである。一つ、全 員が勇ましく稲羽の国へ出かけて行って、八上比賣にいちばん立派な男神を、われわれ の中から選んでもらおうではないか」 というような話になって 「異議なし! 異議なし! 」 という結論になったものと見えます。 こうして『嫁取り競争』の旅行が挙行されるときには、どの彦神も、みんな自ら信ず るところが深いものですから〈われこそは八上比賣の婿神になる〉と確信して、手に舞 い足の踏むところを知らぬ喜びで、満たされておったにちがいありません。 ところが、太古のことですから、途中には道のないところが多いし、旅館などはむろ んありませんから、そこで、旅行に必要な準備がはじめられました。 道筋を人に聞いたり、地図で調べたりなさったことでしょう。米、味噌、醤油はもち ろん、鍋釜のような道具から、寝具にいたるまで、だんだんと集められたことでしょう。 こうして、ほぼ準備が完了して、あと一週間か十日くらいで出発できる段階になって、 誰いうことなく問題が起こってまいりました。 それは〈荷物と旅行道具をどうして運ぶか〉ということでありました。 八十神と言いましても〈八十人の神様〉ということではなくて、彦神全部ということ で、誰も自ら進んで、その荷物や旅行道具の運搬を引き受ける神様はございません。そ れかと言って、これらの道具がなくては、旅行はできないのであります。 バイオリンの大家はバイオリンを、尺八の大家は尺八を手放すことはできぬというわ けです。陸上競技のチャンピオンは、食料や寝具を背負って歩いたのでは、疲れてしま って、いざというとき走れないので、そんな荷物は背負いたくないというわけです。 そのうちに、こんなことを言う彦神が出てきました。 「自分はバイオリンの大家という自信を持っているのだけれど、出発の時期が近づくに つれて、何だか落ちつけない気持ちがする。ことに、あの大国主命の顔を見たり考えた りすると、余計に落ちつけないのだが、みんなはどうだ」 そうすると 「自分もそうだ」 という彦神が、ほとんどになってしまいました。 そこで、大国主命を除いて、八十神たちが集まり、相談会をお開きになって、いろい ろ協議が進められました。たいへん難しかったようですが、結局、代表者が大国主命の ところへ行って、つぎのようなことをおっしゃいました。 「おいおい、貴様も、こんどの嫁取り競争には参加するのだろうな」 「むろん、まいります」 「うん、結構だ。そうなくちゃならぬ。ところで、貴様に折り入って頼みたいことがあ るのだが、ぜひ一つ引き受けてくれないか」 大国主命には、人にものを頼まれたときには、それが大事なことであって、自分の力 の及ぶことなら、万難を排して、それを引き受けようという気持ちが満ち満ちており、 それでいつも 「自分の力の及ぶことかどうか知りませんが、できることなら何でもいたしましょう」 と答えるのが、癖になっておったと見えます。 それで、このときもまた、いつものように 「何だか知りませんが、私にできることなら、何なりといたしましょう」 と、お答えになったにちがいありません。 代表者の彦神は 「そうか、それはありがたい。どうだな、貴様は力比べをやったときに、えらい力を出 して見せたことがあったが、あおの倉庫の中にそろえてある旅行道具だが、大きな丈夫 な袋を作って、全部ひとまとめにしても背負えるだろうな」 と言いました。 大国主命は 「かなり重いでしょうが、どうにか背負えましょうね」 と、お答えになりました。 代表者の彦神は 「そうだろうな、凄い力だ。そこで、貴様にはたいへん無理なことを頼むようだが、実 は、みんなで相談した結果なのだ。大きな袋をこしらえて、あの荷物を背負って行って くれないか。ぜひ頼むよ」 と仰せられました。 大国主命は、笑いだされて 「上段を言うものではありません。私が荷物を背負うのはまあいいとしても、ここから 稲羽の国への行く間には、道もなく、旅館もないところが多いのです。そのうえに必ず 一度や二度の暴風雨にもあうでしょうから、旅行道具や大切な荷物は、めいめいに背負 わなければ危険です」 とお答えになりました。 そうすると、代表者の彦神は 「まあ、そういう理屈を言うなよ。バイオリンや尺八の大家も、陸上競技のチャンピオ ンたちも、自分で荷物を背負ったのでは技が鈍ると言うし、その他にも背中のぐあいが 悪いという者もいて、こんどの『嫁取り競争』は、貴様があの荷物を背負ってくれなけ れば、取りやめるということになっているのだ」 大国主命は、それを聞いてビックリされました。 そして、じっと考えておられましたが 「そういうわけでしたか。よろうしゅうございます。お引き受けいたしましょう」 と答えられました。 このときの大国主命のお顔は光り輝き、お身体には力が満ち満ちておったことと存じ ます。 そして、大国主命は、もしもご自分がお引き受けにならないために、八十神たちが『嫁 取り競争』に行く気持ちをおなくしになったら、親神たちもお悲しみになることでしょ うし、八十神たちのためにもよくないことだとお答えになって、ご決心なさったにちが いありません。 ここのところを『古事記』原典の本文には 「於大穴牟遅神負袋為従者率往」( おほなむぢのかみふくろをせおいてともびととなりて いきき) と書いてあります。 こういうわけで、大国主命は大きな袋をお作りになって、八十神たちの荷物を全部そ の中に入れて、自らお背負いになりました。こうして、八十神たちと一緒に、稲羽の八 上比賣のところに向かって、ご出発になりました。 大国主命ひとりが、大きな袋を背負っておられて、他の八十神たちは身軽なご様子で すから、回りからは、どう見ても大国主命は従者、つまり、お供としか見えません。兄 弟の一人であって『嫁取り競争』の選手とは、お見えにならないのであります。 しかし、大国主命は、決して 「自分はお供ではないぞ」 など仰せになりません。 平気な顔をして、黙っておいでになります。お顔を見ましても、少しも自慢そうな様 子はなく、少しも悲観した様子もなく、少しもお怒りになった様子はなく、まことに元 気よく、ニコニコしておいでになります。額は汗ばんで見えますが、お身体は元気 に満ち満ちて、歩く足取りも軽く、まことに愉快そうであります。 このようにして、大国主命は、いつも八十神たちに遅れて、ひとり後から行かれます。 ときには、八十神たちの歩かれた跡が嵐のために消え伏せて、道をさがすのにご苦労な さったこともあるにちがいありません。 八十神たちの休憩所や宿泊所とお定めになったところに、後からお着きになって、お 背負いになった袋を下ろし、中から道具を取り出して、お食事やお茶の支度をなさって、 八十神たちに差し上げられるのが、旅行中の慣例になったことでございましょう。 それで、八十神たちは〈これなら大丈夫だ。大国主命は『嫁取り競争』の選手とは、 どう見ても落第だ〉と思って、安心しておられたことと思います。