隠岐の島に、兎が一匹生まれました。これを稲羽の白兎と申します。この兎さんは、 生まれてから、だんだんと大きくなりました。そして、ある日、海岸に出て見て、 海の広いのに驚きました。それから、ときおり海岸に出ては、海辺の気持ちよさを 味わっておりました。 ところが、また、ある日の朝、海岸にまいりました。その日は、雲もなく風もな い日本晴れのよい天気でした。兎さんはたいへんよい気持ちで、おちこち歩き回っ ておりましたが、ふと海上はるかに東のほうを見てびっくりしました。兎さんは生 まれて初めて、そこに本州を見たのです。 高い山も、大きな川も、広い野原もありそうな本州を見て、兎さんは、〈自分たち がいるこの島は、狭い狭い土地で、どこに行っても兎同士ぶつかってしまう。せっ かく兎に生まれても、じゅうぶんに飛んだり跳ねたりすることもできないような小 さな島だ。できることなら、なんとかして、あの大きな島に渡っていって、思うざ ま飛んだり跳ねたりしたい〉と思いました。 しかし、今日のように飛行機はないし、船はないし、泳いで渡ることもできませ んので、兎さんは胸のうちに希望の心のおどるにまかせて、じっと考えておりました。 そのとき、ワニが一匹泳いできました。ワニも天気のよい日なので、気持ちよく泳 ぎまわっていたのでしょう。兎さんはそれを見て 「ワニさん、ワニさん、私の向こうの陸地に連れて行ってくれませんか」 と、頼もうと思いましたが、じっと何かを考えて、身を白黒させてから、ワニに話 しかけました。 「ワニさん、ワニさん、よいお天気ですね。散歩ですか」 ワニは答えました。 「よい天気ですね。あなたも散歩ですか」 これで、両方の挨拶がすみました。 そのとき、兎さんは言いました。 「ときに、ワニさん。君が住んでいる海というところは、ずいぶん広いようですが、 その広いところにいる君の一族は、さぞたくさんでしょうね」 すると、ワニはたいそう得意になって答えました。 「はい、そうです。君は小さい身体で、小さい島にいるから、何も知らないでしょうが、 僕の住んでいるところは日本海というのですが、この向こうには太平洋や大西洋とい うところもあるし、海はとても広いものです。だから、その海にいる僕たちワニの仲 間は、ずいぶん多いですよ」 と、こんなことを言ったのでしょう。 そうすると、兎さんはもっともらしい顔をして 「そうでしょうね。しかし、あなた方、ワニ仲間は、一年に何度、子どもを生みますか」 と答えました。 ワニは 「よく知らないが、一度らしいね」 と答えました。 すると、兎さんは 「そうですか。僕の仲間は一年に三〜 四回子どもを生むことができます。そうすると、 ワニさん、あなたは先刻、ワニ仲間は広い海に住んでいるから、とても多そうなこと を言ったけれども、子どもを生む回数から考えると、小さな身体で、小さい島にいる 私たち兎仲間のほうが、ずっと多いと思いますがね。あなたは知らないでしょうが、 この島にはどこに行っても兎仲間で満ち満ちておりますよ」 と、こんなふうに言ったものとみえます。 すると、ワニは、何やら言い込められたような気がして 「そんなことがあるはずがない。ワニ仲間のほうが多いにきまっている」 と、むきになって怒りました。 兎さんは、いよいよ面白そうな顔をして言いました。 「それでは、こういうことにしましょう。議論をしていても果てしがつかないから、一つ 実験をやりましょう。明日、あなたのほうで仲間を全部集めて、この島と向こうの陸地 のあの岬の間に、ずっと並んで下さい。私が走りながら〈ひふみよいむなや〉と数えて 渡って、それからこっちに帰ってきましょう。そして、明後日は、私どもの仲間を、島 のまわりに、ぐるっと並べましょう。あなたのほうで数えてごらんなさい」 ワニは 「いいです。そうしましょう」 というので、話がまとまりました。 翌日もよい天気だったので、ワニ仲間は約束どおりに並びました。そこで、兎さんは〈ひ ふみよいむなや〉と数えながら、ワニの背を渡っていきました。 ところが、あまり長い間、暇がかかったうえに、天気もよかったので、終わりのほうに おったワニが、居眠りでもしていたのでしょう。兎さんはくるっと隠岐の島のほうを振 り向いて、何を言うかと思ったら 「ワニの馬鹿ものどもが、私のために見事欺かれたな。仲間の数比べしよなんかという ことはウソだ。〈骨折り損のくたびれもうけ〉というのはお前たちのことだ。これから 私は隠岐の島に帰りもしないし、私の仲間を並べもしない。愚か者とは、お前たちのこ とだ」 とか何とか、わめきたてたのでしょう。 ところが、兎さんがあまり夢中になって、悪口の演説をやっていたものですから、ワニ が目を覚まして、このありさまに気がつきました。そしてたいそう怒りました。あのも のすごい歯で、ぱくりと兎さんをくわえました。 そして、あの無骨な手で、しっかりと兎さんの身体を押さえつけて、ワニ仲間に相談し ました。 「おい、みんな、この兎の奴め、ウソをついて、われわれをだましたうえに、えらい暇 つぶしをさせて、しかも、馬鹿だの愚か者だのと言っておったのだから、どうしよう」 そうすると、ワニの大将が 「憎い奴だ。しかし、見ればまだ若い。皮をすっかり剥いて、赤裸にして痛い目にあわ せて、少し考えさせてやったらよかろう」 とでも言ったのでしょう。 いたずらに憤慨して、海の中に投げ込むことも、殺すこともしないで、赤裸にして、 陸の上に放り出しました。 気絶した兎さんが気がついたときには、自分の身体は確かに、自分があれほど来たいと 思った陸地の、気多之前というところにありました。しかし、自分の身体は、すっかり衣 服を剥がれて、赤裸になっております。 兎さんは痛くて痛くてたまらないので、泣き出しました。初めは〈ワニの奴め、いくら なんでも、こんなにしなくてもよいではないか〉と思ってワニを恨んで泣きました。しか し、いくら泣いても、衣服は出てきませんし、痛みも去りません。だんだん痛くなるばか りです。 そこで、兎さんは、初めて気がつきました。〈なるほど、確かに自分が悪かった。嘘を ついてワニを騙したうえに、たいへんな骨を折らせて、お礼を言う代わりに、馬鹿だの阿 呆だの言ったのだから、これは自分が悪かった。 ワニはなぜ自分の衣服を剥いで赤裸にしただけで、海に放り込んで殺さなかったのだろ う。そうだ、自分はあのとき、気絶しておったようだが、ワニは自分を反省させようとし て、こうしてくれたんだな〉と、はっきりわかりました。 すっかり気がついた兎さんは、心から後悔しました。〈決して、もう嘘はつきません。 人様に迷惑をかけて、馬鹿呼ばわりはいたしません。ほんとに立派な兎になって、ワニの 好意に報いたい〉と思いました。そして、一生懸命に 「どうぞ、神様、私の身体をもとどおりに、丈夫にしていただきとうございます」 と、あまりの痛さに我慢がしきれず、泣きながらも、一心不乱に祈っておりました。