PRAY 松村博司         プロローグ  矢掛警察署の刑事課に勤務している小林武雄はその日、珍しく自宅にいた。  世間では、クリスマスだとかいって騒いでいるようだが、小林にとってはどうでもいいことだ。十二月にになって二度にわたり、岡山県小田郡矢掛町の住人が失踪するという事件が発生したために、二十三日まで署にカンヅメ状態になっていた。そしてクリスマスイヴの今日、待望の休みがもらえたというわけだ。  そして今日は、妻和子と結婚して十年後にやっと生まれた一人娘 、理香の十五歳の誕生日でもあった。  二ヵ月も前から刑事課長に休みをもらえるよう頼んであったのだが、相次いで起こった失踪が刑事事件の可能性も予想され、最悪の場合、殺人事件に発展する場合もあり、前日まで休みをもらえるかどうか、わからない状況だった。 「ほんと、パパが私の誕生日に家にいてくれるなんて何年ぶりかなぁ」  ふだんは、口も聞いてくれない難しい年頃の娘 が、今日は珍しく屈託のない笑顔を振りまいている。 小林は理香の笑顔を見ながら、あと何年、娘 の誕生日を祝うことができるのだろうとふと思った。  理香は来年の春に高校受験を控えている。志望は岡山市内の進学校である県立五校だ。 県立五校とは岡山学区にある五つの普通科高校で、どれも進学校である。五校は岡山学区のため、矢掛町に住む理香にとっては狭き門となる。  これはどういうことかというと、簡単にいえば学区内の募集定員は九十五パーセントに対して、学区外は五パーセントの定員しか取ってないということだ。学区内でも比較的難しく、一部の有名私立や職業高校を志望する受験生を除いて、ほとんどの受験生が目標としている。  それに加えて、理香の場合、通学という問題がある。  矢掛町には列車は通ってなく、交通機関は路線バスしかない。しかも、五校のなかで矢掛町から一番近い一宮 高校ですら、バスだと二時間ぐらいかかってしまう。  そうなれば、市内の伯母の家に預かってもらうことになるだろうし、刑事である小林はますます娘 の顔を見ることができなくなるだろう。そして、理香が高校を卒業してしまえば、大学に進学するのは間違いない。  国立の岡山大学にいってくれれば小林としてもうれしいが、岡大のレベルからいって絶対という言葉は使えない。  岡大のレベルの高さは有名で、極端にいえば、東京大学の経済学部や工学部などを合格する実力があっても、岡大の医学部は合格しないといわれている。  そんな話を聞くと、理香の進学は県外となる。そうなれば、ますます娘 とこうやって顔をあわせることもなくなってしまうだろう。  進学、卒業、就職、結婚と全く子供の成長なんて早いものだ。ついこの間まで、よちよち歩きをしていたのに、いつのまにか、女らしいことをいうようになった。親子喧嘩でも口ではかなわなくなってきた。  まったく、さみしいものだ。  小林は小さくため息をついた。 「お父さん、どうしたの。せっかくの理香の誕生日なのに、ため息なんかついて」  こんな時に、ため息をついている自分の夫を見て、和子はあきれ顔でいった。 「ちょっと、考え事をしていてな」 「どうせ仕事のことでしょ、まったくパパは仕事の虫なんだから」  あきれ顔の理香を見ながら小林はポツンと、 「親の心、子知らずか…」 と呟いてしまった。 「なにかいった?」  娘 の追求に小林は慌ててグラスのワインを飲み干し、 「さっ、料理も食べ終わったことだし、ケーキを切ろう、ケーキを」 といった。そんなとき、ダイニングの隅にかけてあった電話がなった。  理香と和子の目が、一斉に小林へ向けられた。 一家団らんの終わりを告げるベルだった。  その日、矢掛町と美星町の町境に位置する鬼ヶ嶽ダムで、男女二人の変死体が水面に浮かんでいるのが発見された。  死体はどちらも、胸部から腹部にかけて大きく切り開かれ、内蔵をくり抜かれていた。 岡山県警察本部は刑事部部長が自ら指揮を取り、矢掛署に捜査本部を設立、総社署、倉敷署からも応援を要請、二百人近い大所帯で捜査が開始された。      第一章 見えない姉妹           1  ポカポカと暖かい日が射している。  風もずいぶんとやさしくなった。どこからともなくウグイスの鳴き声も聞こえてくる。 少しずつ、原っぱが色づいてきて春の到来を告げていた。  この季節になると、そろそろコートも要らなくなってくる。  特に朝、それほど早くなく、車を持っている野上経義にとって厚着をする必要はほとんどない。  それでもなお、彼はコートを着る。  野上はここ岡山では珍しく、オールシーズン、コートを着ている。  もちろん季節によって生地やデザインなどは変えていくのだが、それでもやはり見た目は暑苦しい。  コートは野上のトレードマークでもあるし、スマートでそこそこの長身、顔も目鼻立ちの整った二枚目なので、まだ見られるのだが、今の季節、彼はまだ冬の格好をしている。 黒のスラックスに、黒のハイネックのセーター、その上から黒のコートを着ている。それに、サングラスをかけて、町を闊歩するのだから、普通の人種には見られない。  彼の職業からいうと、制服は地味なスーツとネクタイだろう。しかし、野上はスーツはよく着るのだが、よほどのことがない限り、ネクタイを締めることはない。  野上のいう、よほどの事とは、ひまわりの金バッチを襟に付ける時のことだ。  ここまで書けば、彼の職業かなんなのか大体の人に分かってもらえると思う。  彼、野上経義は岡山弁護士会に登録されている三村法律事務所の若き雇われ弁護士だ。 野上はまだ二十六歳にもかかわらず、三村事務所で主に民事裁判を担当しているホープだった。  なぜ『ホープだ』ではなく、『ホープだった』になっているのかというと、三ヵ月前、ある失態を演じて二年間の営業停止処分を受けているからだ。  三村弁護士のおかげで、事務所をクビになることはなかったのだが、野上は現在、プータロー、もしくは、三村弁護士のところに泣きついてきても忙しくて対処できないもの、平たく言えば探偵業的な仕事を持ってくる困った依頼人のお願いを引き受ける小間使いとなっている。  そんな状態に陥りながらも、野上は三村事務所をやめられない。そして三村も野上をクビにできない。それはなぜかというと二人の関係に問題があるからだ。  野上はさっきもいったように三村法律事務所の雇われ弁護士だ。しかし、雇われといっても、実際にはこの法律事務所の跡取りで、野上が三十歳になれば三村弁護士の養子として三村の姓を名乗ることになっている住み込みの弁護士なのだ。  野上と三村の関係は古く、野上が高校生の頃に傷害事件を起こしたのが事の始まりだ。 その当時、孤児として身寄りの無かった野上は、同じような生い立ちの松山悟という少年とともに、ケンカをして相手に大けがをさせてしまった。その結果、相手の両親が告訴して裁判沙汰になったのだが、その弁護を引き受けたのが三村だったのだ。  判決は、野上たちの正当防衛が認められるかたちとなった。  その後、三村家に引き取られた二人は三村の進めで、野上は京大の法学部へ進学して弁護士に、松山は岡山国際大学に進学して、その後刑事となる。  しかし、野上がなぜ司法試験に合格したのかは、今だに謎とされている。というのも、野上には勉強をした形跡が一向に見られないのだ。  血尿が出るくらい勉強しても合格しないと言われる司法試験を、大した勉強もせず一発目で合格してしまったのだ。そもそも国立の京都大学に合格したことじたい奇跡に近かったのだから、不思議に思われても仕方がない。  言動にも、間抜けなところがあり、ホープといわれながらも実際には弁護士としても不安が残る。  今の野上の最大の悩みはそういった事情から、まわりに、さほど信頼されていないことだ。  この日、野上は法律事務所兼自宅から歩いて三分のところにある、行き付けの喫茶店で依頼人を待っていた。  この喫茶店や自宅は県都岡山市の門田本町四丁目にある。  門田本町は後楽園や岡山城の南東に位置する東山南斜面の高級住宅地だ。  ここは、岡山市街地にたいへん近く、山の頂上には岡山国際ホテルもある。自然にも恵まれ、春になればウグイスの鳴き声も聞こえてくるほどだ。  周りには歴史的な神社なども多く存在し、岡山城、後楽園、護国神社、東湖園など、文化面でも充実している。  野上は、その喫茶店のテラス席で、眼下に広がる町を見ながらボーッとしていた。  ポケットから、おもむろにショートホープを取り出し、その中から一本のタバコをくわえると、マッチで火をつけ一息吸った。  依頼人との約束の時間は二時だ。今、二時五分を指している。店内のボックス席では上品そうな奥様方が四人、楽しげに話をしていた。 「サービスだよ」  後ろから声が聞こえ、振り向くと小太りのやさしそうな顔をしたマスターが野上のいるテーブルに紅茶を置きながらニコニコしている。 「あっ、ああ…。ありがとうマスター」  野上の元気のない声を聞いて、マスターは心配そうに顔を覗き込んできた。 「どうしたんだよツネちゃん、元気ないよ」 「えっ? ああ、眠いんだよ、ほんと」 「その年令になって、夜遊びが過ぎるんじゃない?」  野上は少し笑って、 「ひどいなぁ、マスター。僕がまるでジジイ見たいじゃないか。それに昨日は仕事だよ。秘書の中村さんが休みを取ってて、朝まで、告訴の手続きやら上告 の申し立てやらの書類製作をやっていたんだよ。なにしろ裁判を五つも抱え込んでるから」 といった。  マスターは、へぇーという顔で、 「そうだよな、ツネちゃんは金バッチを取り上げられているといっても、弁護士なんだもんな。すっかり忘れてたよ」 と妙に感心しながら言った。 「それ、どういう意味だよ」 と野上がすねた顔でいったとき、若い女性が店に入ってきた。 「いらっしゃい」  マスターは、空になっていたもう一つのカップを持って中に入っていった。 「三村法律事務所の野上経義さん、いらっしゃいますか」  女性がマスターに尋ねると、彼も毎度のことのように、 「テラスのほうにいますよ」 と指さした。  野上も自分の客であることに気づき、女性に軽く会釈をした。女性もそれが野上であることを確認し、テラスのほうへ出てきた。 「三村法律事務所の野上です」  野上は名刺を差し出し、どうぞと席に座らせた。マスターが水を持ってきて、注文はと聞くと、女性はコーヒーを頼んだ。  女性はマスターがカウンターに戻るのを確認してから、 「泉小夜香と申します」 といい、深々と頭を下げた。 「場所はすぐわかりましたか」  野上は、笑顔を作り小夜香と名乗る女性にいった。十分の遅刻をした彼女に言い訳の場を与えたのだ。 「ええ、大体。すいません遅れてしまって。バス停から、思ったより距離があったので」「いえいえ、構いませんよ」  タバコを消しながら、野上は小夜香の顔を見た。二十歳くらいだろうか。  黒くて長い髪に、吸い込まれそうな黒い瞳、引き締まった輪郭に薄めの化粧、身長は女性としては大柄なほうで170センチくらいはあるだろうか。その割に、吹いただけで倒れそうな、華奢な体をしている。何となく、パリコレに出てくるモデルのようだ。服装は地味で、貴金属など一切つけていない。  確かに美人なのだが、さみしそうな瞳からは影のようなものを感じる。肯定的に見れば理知的と言えるのかもしれない。  男性の目から見ると、好きか嫌いかの両極端に別れそうなタイプの女性だ。 「いい店ですね」  小夜香が町の風景を見ながら呟いた。口もとに薄い笑みを浮かべている。 「そうですね。ふだん、あらためて考えたことがないからわかりませんでしたけど、そういわれてみると確かにそうですね。マスターはちょっとうるさいですけど」 「誰がうるさいって?」  突然声がしたので、振り向くとマスターがムッとした顔で立っていた。 「あっ、いたの。冗談だよ、冗談」  野上の乾いた笑いを見て、 「ヒドイですよねぇ、ほんとに」 とまるで小夜香に同意を求めるようにいって、コーヒーをテーブルの上に置いた。  小夜香の答に困ったような苦笑いを見た野上は、 「はいはい、よそ者はあっちいって」 とマスターを追い払った。 「さて、それで仕事というのは何でしょうか」  野上はあらためてタバコに火をつけた。 「人を捜してください」 「人…ですか」  野上は、多少考えた。人捜しの経験など無いに等しいからだ。 「その人は、肉親か何かですか? これとも恋人?」 「捜していただきたいのは私の妹です。名前は真佐美、今年十八歳になります」 「高校生ですか」 「ええ。西大寺高校の三年生です」  野上は少し考えた。目線はゆらゆらと上っていく、タバコの煙りに向かっていた。野上にとって女子高生ほど扱いにくいものはない。 「いつから戻っていないのですか?」  野上の質問に対して、小夜香は深刻そうな顔をして、 「昨日からです」 と答えた。 「は?」  野上は気が抜けてしまった。いくらなんでも昨日の今日はないだろう。 「昨日の朝、学校へ出たっきり戻ってこないんです。学校へ電話もしましたし、友達の家にも電話をしたんですけれど…」 「昨日とはずいぶん急ですね。しかし、それならばもう少し様子を見たほうが良いのではないのですか?」 「でも…」 「あの年頃は情緒不安定ですから、五日や十日の無断外泊はしたがりますよ」  野上が灰皿にタバコの灰を落としながら言った。 「ええ。確かにそうですが…」 「とにかく、しばらくすれば戻ってくることもありますし…。それに普通、失踪人の捜索は、警察でも事件性でもない限り半月たってからですよ」 「でも、今までそういった無断外泊は一度もありませんでしたし、たとえ帰るのが一時間遅れることがあっても、連絡を欠かしたことはありません」 「ならば彼氏ができたとか。あなたにだってそういった経験は少なからずあるでしょう」 小夜香は不安そうに、 「引き受けてもらえないのですか?」 といった。 「いや、そんなわけではありません。しかし費用だって馬鹿になりません。僕に捜索を依頼したはいいが二、三日たって、ひょっこり帰ってきたのではシャレになりませんから」 そういうと野上は小夜香の表情を見て、 「それとも、なにか切羽詰まった事情でも?」 と聞いてみた。小夜香の口もとが一瞬、ピクリと動いた。図星のようだ。 「実は、野上さんにお願いする理由があるんです」 「というと?」  野上の表情が真剣になった。 「妹の部屋を調べているうちに、日記が出てきたんです」 「それで?」 「最後のページ。一昨日の日付のところに一言、『私は死ぬかもしれません、ごめんなさい』と書いてあったんです」 「なるほど」  野上はしばらく考えた。  真佐美の残した言葉『死ぬかもしれない』  冗談にしてはタチが悪すぎる。だからといって、平凡な女子高生が命を狙われているとも考えにくい。まあ、真佐美が平凡な女子高生でない可能性も十二分にあるのだが。 (ひょっとしたら、リストカット症候群かな?)  そうは思ったが、状況から判断して違いそうだ。リストカット症候群とはふいに手首を切りたくなるようなやっかいな症候群だ。最近、特に若い女性に多いようで、救急病院に運ばれるケースが増えているらしい。しかし、これは実際に死ぬ意思はなく、第三者に対するアピールが主な目的で、悪い言い方をすると悲劇のヒロインを演じているようなものだ。これは数年前に人気女性歌手が男性問題に絡んで自殺未遂をしてから、特に増えているらしい。  もし、真佐美がそのリストカット症候群だったら、姿をくらますようなことはしないだろう。だとすれば、本物の自殺志願者ということか。そう考えれば、確かに一刻をあらそう状況だ。下手をすれば、すでに手遅れの可能性もある。 「私…、どうしたらいいのか…」  小夜香が涙声になった。 「自殺志願者か…。急いだ方がいいですね。わかりました、引き受けましょう」  ここで、へんな慰めを入れないところがプロである。人間、同情されると余計に悲しくなるものだ。そうなると話しにならない。 「ありがとうこざいます」  小夜香が軽く頭を下げた。 「それで動機など、思い当たる点は?」  小夜香は首を横に振って、 「ありません。いつも通りでしたから」 といった。 「一昨日の朝、変わった様子は?」 「べつに、なにも」  パターンだ。完全にハマッている。なぜか、この年頃は心のエアポケットにハマリやすい。  ふと死にたくなる時もある。 「真佐美さんの日記を見せてもらえませんか?」 「あっ! すいません。こういったことに慣れていないものですから、持って来ていないんですけれども…」 「かまいませんよ。自宅のほうにあるのなら、これから取りに行きましょうか。真佐美さんの部屋も見ておきたいですから」 「はい」  二人は立ち上がり、店を出た。           2  小夜香はバスで来たというので、野上は一旦自宅に戻り愛車アバルト695SSをもってきた。  その車は松山の「六〇年代の車が一番」という言葉にだまされて、知人の山口モータース店主にいただいた六十四年型のイタ車だ。はっきり言って、貴重品である。  見た目は、ミニクーパーか、スバル360といった感じである。ちなみにアバルト695SSという車は595の進化版でフィアット500という車をアバルトがチュードカーとして発表したものだ。  余談だが、695ccなので普通車の登録になる。  そんなこんなで、野上は泉宅に向かった。  野上はホープに火をつけながら、 「泉さんは、ご両親と一緒に暮らしているのですか?」 とさっそく聞いてみた。 「いえ。両親は亡くなりました。私は妹と二人暮らしです」  小夜香は、冷たく答えた。 「ごめんなさい。気にさわりましたか?」 「かまいません」  小夜香は、素っ気なく答えた。気にさわったようだ。  姉妹二人だけで生きてきたようだ。野上も子供時代を思い出した。最悪、泉家の家庭の事情を調べなければならない。場合によっては、そういった事情が絡んでいる可能性もあるからだ。  さて、ここから泉宅へはすぐだ。小夜香は住吉町に住んでいる。家はいかにも岡山の中堅サラリーマン宅といった感じだ。小さな庭に二階建ての一軒家でこじんまりとした住宅地に建っている。  二人が家に入ると、すぐに真佐美の部屋に入った。野上は何もせず、しばらくの間、部屋を見回した。そして、 「これは、自殺志願ではないかもしれませんよ」 といった。 「えっ?!」  小夜香は、気味悪そうに野上の顔を見た。 「なぜです?」  小夜香が聞くと、野上は本棚の前に行き、並んでいる本を鋭い視線で見ながら、 「なにか気づきませんか?」 と聞き返した。 「いえ」 「そうですか? この部屋にある本ですが、占い…ですね」  小夜香は、野上の言葉に不満を持ったようで、 「でも、女の子だったら占いとかに興味を持ちますわ。特にこの年代なら…」 といった。 「確かにそうです。しかし多すぎませんか?」  野上の言葉に、小夜香は本棚を見た。  たしかにすべて占いの本だ。小夜香は少し動揺した。  野上はもう一度、部屋を見回した。女子高生らしい、清潔感のある部屋だ。ベットの上の熊のぬいぐるみがほほえましい。 「泉さんが、この部屋にものを隠すとしたらどこですか?」 「そうですねぇ…」 と部屋を見回して、 「机の引き出しに鍵をかけてしまっておきます」 といった。男がエロ本を隠すわけではないのだから、そんなところだろう。 「なるほど」  野上は、そういうと、コートの内ポケットから針金を取り出し、机の引き出しの鍵穴に突っ込んだ。  あっという暇もなく鍵は開いてしまった。  その引き出しをゆっくりと開けると、中に一冊の本が入っていた。野上は、それを手に取り小夜香に渡した。 「これは…」  小夜香は息をのんだ。 「聖書…ですね」  野上はポツリと呟いた。その聖書はカトリックだ。 「真佐美がこれを?」 「でしょうね。しかし…」 「でも『死ぬかもしれない』というのは?」  野上はパラパラと聖書をめくった。そして、裏の見返りで手を止めた。なにか書いてある。野上はそれを読んでみた。  息子よ、あなたの犯した罪を神に告げなさい。  そして祈りなさい。  息子よ、自分を偽ることは神を偽ることです。  神はすべてを見ておられます。  息子よ、あなたの残りの人生のすべてを神に捧げなさい。  神はたとえ罪人であろうと、わけ隔てなくあなたを愛してくれるでしょう。  だから息子よ。  あなたも神を愛しなさい。  そして、祈るのです。  あなたの犯した罪を償うために。  野上の横で、のぞき込むように聖書を見ていた小夜香は、 「これはいったい…」 と不思議そうな表情で野上に聞いた。 「これで間違いなく、自殺ではないと証明できましたね。考えられるとすれば、事件に巻き込まれたという事か…。でも、罪を償えとも書いているから…」 「書いているから?」  小夜香が食い入るように、聞いてきた。 「おそらく、なにかのグループから抜け出そうとしてるんでしょう。族やチーマーのメンバーから抜けようとすれば、ただではすまないですから。いろいろ悪さをした結果、宗教に目覚めたとか…。占いとかを信じているという事は、ある種、超常的な力を信じているという事でしょ。彼女にとって、宗教は占いの延長線上にあったのかもしれません」 「でも、死ぬかもしれないって…」 「いや、命を狙われる可能性はありますよ。シンナーや麻薬に絡んでいる未成年は多いです。そして、その影には必ず、暴力団の影がちらついてます。そういった事情と、グループから抜けたいという事が絡み合えば、命の危機は十分にあります」 「そんな…」 「とにかく早いほうがいいですね。真佐美さんの写真を」 「あっ、はい」 といって、部屋を出ていった。  しばらくして、十枚ほどの写真をもってきて野上に渡した。  一人で写っているもの、友人と写っているものなどがあった。 「しかし、居場所を見つけても戻って来るかどうかが問題です。それが団体ならなおさらだ。新興宗教よりもたちの悪い連中ですから」 「そうですか…」 「とにかくやってみますよ」  野上はニコッと笑って外に出た。  そしてアバルトに戻ると、しばらく写真を眺めた。  姉の小夜香に似て美人だ。まだ、あどけなさを感じる。  それはそれでいいのだが、ずいぶん扱いの難しい事件に発展しそうだ。未成年相手ということで、特にデリケートさが要求される。  野上は写真を助手席に置き、アバルトをスタートさせ、再び喫茶店に戻った。  店の中に入ると、 「おかえり」 というマスターの声が聞こえた。  おかえりはないだろうと思いながらテラスへ出るとマスターが水を置きながら、 「早かったねぇ、仕事は?」 と早々に聞いてきた。 「これからだよ」 「なんだか、人を捜してくれみたいなことをいってたけど」  野上はホープを取り出し、火をつけ美味そうに吸うと、しばらく町を眺めていた。  そして不意に、 「やっはり人間って神みたいな絶対的な物にすがりたい時があるんだろうか」 といった。マスターは驚いた顔で、 「どうしたんだよ、ツネちゃん。なんかあった?」 と不思議そうに聞いた。 「いやね、いなくなった女子高生、聖書を残して姿を消してるから、何かあるのかなと思って」 「ふーん」 「まっ、いいや。アップルティー、一つ」 「あいよ」  野上はマスターがカウンターに行くのを見送ってから、口にタバコをくわえたまま、日記を開いてパラパラとページをめくり始めた。  日記は去年の夏頃からである。  しかし日付だけで、年や曜日は書いていない。  内容はありきたりのもので学校生活が中心になっている。誰と誰がひっついただとか、よくある内容だ。  しばらくして、野上は手を止めた。日記に何か書いてあったわけではない。  不自然さに気がついたのだ。  普通、日記というのは人に見られないところに隠しておくはずだ。  考えてみると、聖書なんて人に見られても別に困ることではないはずだ。聖書を隠すくらいなら日記を隠しておく方が自然だ。  それが、姉に簡単に見つけられてしまうというのは、いかにも不自然だ。  それともう一つ、確かに日記になっているのだがしかし日記を読んでいる気がしない。 本来、日記というものは自分の本心を書くものだ。人に言えないことを書くからこそ日記なのだ。それがこの日記には感じられない。 それどころか、どこかよそよそしさを感じるというか、交換日記でも読んでいる気分だ。 それに、内容も似たようなものばかりだ。そんなことに気がついて、もう一度流し読みをすると、書き始めから終わりまで感情の変化というものが全く感じられない。  筆跡でもそれがわかる。文字、特に大量の文字を書いた場合、日によって字の変化がわかる。一番わかりやすいのが字の濃さや太さだ。  この日記では、そういった文字の変化が四回ある。  すなわち、四日間で一気に書き上げたということだ。  タバコの灰が、ハラリと落ちた。 (偽造か…)  野上は、タバコをもみ消した後、ゆっくりと日記帳を閉じた。よく見ると新品だ。  姉はだませても、野上はだませなかったというわけだ。  ということは、真佐美は何かを伝えるためにこの日記を書いたことになる。  本当に『死ぬかもしれない』という言葉を伝えるためだけにこの日記を書いたとは思えない。  まあ、そのうちわかってくるだろう。  野上は、いつの間にか来ていた生温い紅茶を飲み干し立ち上がった。  レジで野上は、 「一言声をかけてくれればいいのに。生温くなってたよ」 と少しむくれていった。 「ツネちゃんが、真剣に読んでるから声かけれなかったんだよ」 などと他愛の無い会話を交わして外に出た。  行き先は西大寺高校である。           3  校門の前に車を止めると、まずホープに火をつけた。  そして、写真のなかで友人と写っているものを取り出して、一緒に写っている友人の顔を覚えた。  四時を過ぎると、ぞろぞろと生徒が出てくる。野上はまるで、冬の湖に集まった白鳥を数えるが如く、一人一人チェックしていった。しかし、タバコを吸い終わってもまだ出てこない。そのうち人の流れがなくなり、グランドでは生徒が部活動を始めている。真佐美の友人はなにかの部活動をしているのだろうと自分を慰め、じっと待った。二本目が吸い終わり、三本目が吸い終わり、気がつけば、タバコの箱は空っぽになっている。部活の生徒も帰り、ついに用務員のおじさんが出てきて門を閉めてしまった。  もしかしたら、写真に写っている女の子も行方不明になっているかもしれない。この年令は、情緒不安定なのだろうと自分を慰めた。しかし、女子高生の失踪の捜索を何度か話に聞いたことがあるが、その度に全国の女子高生はみんな失踪しているのような気がしてならない。  とにかく、こうなれば強行突破だ。  野上は翌日の午前中にもう一度、西大寺高校にいった。だからといって、校門の待ちぶせ作戦をするわけではない。野上は校門を潜ると、すぐに事務所に向かった。 「すいません。ちょっとお伺いしたいんですけど」  野上は来客用の病院のような受付小窓を覗き込んだ。 「なんでしょう?」  中年の女性が、いかにも公務員といった無表情で野上を見ている。 「泉真佐美という生徒はおられますか?」 「おたくは?」  無表情で聞いてきた。 「僕は、こういうものです」  野上は名刺を差し出した。      三村法律事務所         野上経義 となっている。 「弁護士の方ですか?」  受付嬢が不思議そうな表情で聞いた。 「正確には違います。法律事務所の弁護士見習いとご理解ください」  弁護士でありながら弁護士と言えないこの辛さ。野上のプライドは傷ついていた。 「わかりました。何年生ですか?」 「三年です」 「三年ですね。少々、おまちください」 というと、手元にあるパソコンのキーボードを叩き始めた。  受付嬢は、なぜ真佐美のことを調べているのかという質問をしなかった。  その理由は簡単だ。  最近、卒業生の事を調べに来る人間は多い。目的は、子供の結婚相手や、つき合っている相手の成績や生活態度など調べるためなのだ。  興信所の人間も、たまに来るらしい。  現役だからといって例外はないようで、受付嬢も手慣れたものだ。  野上はホープに火をつけようとすると、 「ここは学校ですよ」 と叱られてしまった。  この後、受付嬢はすぐに当惑気な表情になった。 「申しわけありませんが、本当に泉さんはここに在学中なのですか?」 とわけのわからぬことを聞いてきた。 「はぁ?」  野上は驚いたが、 「間違いありませんけど」 といった。 「少々、お待ちください」  受付嬢がそういうと、立ち上がっていってしまい、実に二十分待たされた。  その間に、校内放送で数人の先生を呼び出していた。  受付嬢は戻ってくると、 「本当に、泉真佐美さんで間違いありませんか?」 と聞いてきた。 「間違いありませんけど」  野上が不思議そうな表情でいうと、受付嬢も同じように不思議そうな表情で、 「実は、泉真佐美という生徒は、この学校には在学しておりません」 と答えた。  野上は無表情で、 「は?」 と間抜けな声を出した。 「そんな…、馬鹿な」 「担任にも確認を取りましたし、念のために一、二年生のほうも調べてみました。しかしそういった名前の生徒は存在しません。もう一度、確認をしてみてください」  最後には、同情的にいった。  しかし、向こうにいわせれば、野上はたんなる代理人だ。何かの手違いでもあったと考えるだろう。  野上もそう思い、ここは手を引いた。  受付を離れると、すぐに電話ボックスに入り、受話器を取ったあと十円玉を入れた。  彼はカードを持ち歩かない。  本人は機械音痴だからといって使わないが機械音痴だからカードが使えないというのも変な話だ。  野上は十円玉を入れ、泉宅の番号のボタンをプッシュしたが帰ってきたのは、 『ただ今おかけになった番号は現在使用されておりません。もう一度お確かめの上、おかけなおしください』 である。  もう一度かけ直したが、同じ結果だった。 (変だな?)  野上は首をひねりながらアバルトに乗りこみ、小夜香の家に向かった。  しかし、そこに泉家はなかった。  確かに家が存在していたはずの場所に家がない。いや、それどころか、昨日来たときこの当たりには更地など無かった。  通りを間違えたのかと思い、周りを廻ってみたが、やはり更地のところに間違い無い。 教えてもらった住所もそこになっている。  道路の隅に、車を置いて更地に入ってみた。  建築廃棄物が散乱している。しかも、ここにあった家が何年も前に取り壊されたということを物語るようにそれらの廃棄物は雨風にさらされ、木は腐り土に埋まっていた。  しかも、炭が沢山転がっている。  それも一つ二つではない。大量にだ。  よく見ると、ほとんどの廃棄物には焼けたような焦げた後がある。 (火事…? どうなってんだ?)  なにがなんだか分からなくなり振り返ると、小太りのおばさんが不思議そうにこちらを見ていた。 「泉さんのお宅、どこなんですかねぇ」  野上はサングラスを取ると無理やり営業スマイルを作り聞いてみた。  おばさんは、まるで幽霊でも見たかのような表情をすると、この疫病神から少しでも早く遠く逃げようとするかのように早足で去っていった。  どうも、周りの様子が変だ。もともと、野上にとっても占いだとか宗教関係には近づきたくない。なんとなく、やくざに命を狙われてる女子高生なんて簡単な構図ではないような気がしてきた。  なにか、おっかなびっくりな事が起こりそうで不安だったが、あのおばさんの表情はその前兆ではないだろうか。  野上は、しばらく更地を眺めたあとアバルトに乗りこみホープを取り出し火をつけた。 すると五分ほどたってパトカーが一台、ゆっくりとやってきた。  野上は、あわてて回りを見た。駐禁であるが停車はOKだ。それを確認してホッと胸をなでおろした。何しろ、駐禁で点数がほとんどないのだ。駐車場もないのに違法駐車だといって取り締まる国のシステムには腹が立つ。要するに値上がりした首都高と同じだ。  さて、そのパトカーだがアバルトの前に止まり、警官が二人、野上のほうに向かって歩いてきた。  野上はタバコを灰皿にねじ込んだあと、窓を開け笑顔を作り、 「なにかあったんですか?」 と聞いてみた。 「すいませんが、免許証を見せていただけませんか?」 (職質…)  警官の質問ですぐにわかった。  野上は抵抗せずに免許証を渡した。  警官はそれを眺めて、 「門田本町四丁目ですか。すぐ近くですねぇ」 といって、免許を返してくれた。 「ところで、野上さんですか。ここで何をしているのですか?」 (チクッタな、あのババァ) と内心思っても、口には出さない。 「僕ですか? 泉さんに会おうと思いましてね。泉小夜香さん。でも、この辺りは入り組んでいて家がわからなくなって困っているんですよ」  二人の警官は顔を見合わせたあと、 「ちょっと、署までご同行願いましょうか」 といって、アバルトのドアを開いて野上の腕をつかんだ。 「ちょっ、ちょっと! 乱暴をしないでください。越権行為で訴えますよ」  警官は厳しい表情で、 「素人が余計なことを言わないほうがいいですよ。公務執行妨害で逮捕してもよろしいのですか」 といった。言葉づかいは、まだ丁寧だ。 「車は、どうするんですか!」 「ちゃんと運んであげますよ。レッカーでね」 「傷つけないでくださいよ。骨董品なんだから!」  野上の声が近所の人たちを呼んでしまった。  営業停止処分の弁護士、パトカーで連行される。マスコミが飛びつきそうなネタだ。  結局野上は岡山警察署に連行されてしまった。 「だいたい、容疑はなんなんですか」  パトカーのなかでも、野上はしつこく抵抗した。 「なら聞くが、お前はあそこで何をしていた」  明らかに警官の態度が変わっている。さしずめ、任意同行を求められた重要参考人というところか。 「だから、さっき言ったでしょう。泉さんに会いに行ったと」 「とぼけるのもほどほどにしろ!」  野上は警官の厳しい表情を見て血の気が引いた。こうなると容疑者扱いだ。 「ま…、まさか! 泉さんが殺されたんじゃないでしょうね!」  警官は驚いた顔で、 「本当に知らないのかね?」 と聞いてきた。 「何をですか」  野上がムッとした顔で答えた。 「泉小夜香さんは、死んだんだよ。二年前に」 「えっ?!」  野上の驚いた顔に、警官も驚いた。 「ちょっ、ちょっと、どういうことですか!」  警官は当惑げに、 「泉さんは、二年前に両親と無理心中したんだよ」 と野上をなだめるようにいった。 「冗談はよしてくださいよ。そんな馬鹿げた話、誰が信じるんですか」 「馬鹿げたとは何だ。馬鹿げたとは!」  二人が言い合いを続けているうちに岡山署についた。  車から降ろされ、署内に連行中、幸運にも刑事一課の課長、山下刑事官にあった。 「おう、野上君じゃないか。また何かやらかしたのかね」 「えっ。じゃあ、こいつは常連なんですか?」 と警官が言うと、 「馬鹿言わないでくださいよ。どこの世界に殺人犯の常連がいるんですか。一度、務所に入れられたら、この年で出所するのは難しいですよ」 と野上がムッとした顔で答えた。 「なに!」  警官も闘志をむき出しにしている。まるで犬猿だ。  山下が大笑いしている。 「何者なんですか? こいつは」  警官が、憮然として聞くと、 「三村先生のことろの跡取りだよ」 と面白そうに答えた。 「三村?」 「岡山一区選出、野党第一党民主党代議士、三村義男先生に弟さんがいるだろう。あそこの御曹子だ」  三村義男は三村弁護士の実兄で最高検察庁次長検事まで上り詰めながら辞職、その後、民主党所属の衆議院議員になった男だ。  民主党が与党の頃には法務大臣として、閣僚入りしていた。 「げっ! じゃあ、あの三村法律事務所の弁護士崩れ…」 「そういうことだ。野上君、いったいどうしたのかね」 「じつはですね…」  野上は、今までの状況を一通り説明した。 「ふ〜ん、おもしろそうだな」  山下はニヤリと笑いながら言った。 「冗談じゃありませんよ。こっちは依頼主がいなくなった上に、警察に逮捕されたんですよ」 「まあ、いいじゃないか」 「良かぁ、ありませんよ。こっちは、生活がかかっているんです。せっかく入った仕事なのに、またボランティアなんてもうこりごりですよ」 「わかった、わかった。君、そのあたりで勘弁してやれ」  山下が警官にいうと、 「はあ」 とため息交じりの返事をして行ってしまった。 「ところで、山下さん」 「んっ?」 「竹本君は元気ですか?」 と野上がいった。 「まあ、元気だが…」 「あっ、そういえば瀬戸内新聞の井沢の美希ちゃんが警察のスキャンダルネタを欲しがっているんですよ。山下さん。先週の火曜日、どこにいました?」  野上は、ニヤリと笑って聞いた。 「よし、竹本を呼んでこよう」  そんなわけで、三分後には竹本刑事がやってきた。手には、ちゃんとノートパソコンを持っていた。           4  この男、竹本龍宏は天才ハッカーである。これはあくまでも噂だが、アメリカ国防省のホストコンピューターと竹本の家のコンピューターがつながっているという。  野上は、竹本を連れて電話ボックスに入った。 「市役所のデーターを出してくれ。住吉町の泉小夜香だ」 「あいよ!」  竹本は準備を終えるとパソコンを使って改造した無限に使えるテレフォンカードを突っ込んで、カタカタとキーボードをたたき始めた。  数十秒後、ディスプレイに日本語が出た。 「完了」  竹本がいうと、野上はディスプレイをのぞき込んだ。  泉 小夜香     (行方不明) 「行方不明?」  野上は、眉間にシワを寄せて呟いた。 「死んだんじゃないのか…」  野上は、そう言うと大きなため息をついた。 「家族は?」 「ちょっと待ってろ」  数秒後、再びディスプレイに日本語が出た。  泉 孝幸      (死亡)  泉 美知子     (行方不明)  泉 真佐美     (二十歳)  野上は、ホープに火をつけながら一言、 「やられた…」 と呟いた。 「この、真佐美という女性のデーターを出してくれ」  出てきたデーターは、本籍である泉家の住所だけだ。  野上の見た更地はまだ売りに出されていないようだ。すなわち、名義もそのままになっている。 「現住所はわからないのか?」  野上が聞くと、 「残念だけど、市内にはいないね。市外を捜すとなると別料金になるけど」 と竹本が答えた。 「やめておく。この家族の事故の詳細を調べたいんだけど」 「事故を処理した管轄がわからないよ。もし調べるんなら、警察庁のデーターを調べるけど、料金は倍だよ」 「ご苦労さん」  野上は、電話ボックスのガラスでタバコをもみ消すと外に出た。 「全く、近ごろの若いもんはどうなってんだ」 といいながら、アバルトに乗りこんだ。  要するに、泉真佐美という女性におちょくられたのだろう。野上に会いにきた、小夜香と名乗る女性は真佐美ということになる。しかし、どっきりカメラでもあるまいし、ずいぶん手の込んだことをしている。いたずらではないとすれば、なにかほかの理由があるのだろうか? ほかの理由とは、もちろん助けの必要な状態に陥ったということになる。  問題は、なぜこんなに手の込んだことをするのか? 何かのメッセージであることには違いない。  不安になった野上はアバルトをスタートさせた。野上は、目的地の図書館に着くと二年前の新聞を一年分、調べ始めた。禁煙の図書館で、悪戦苦闘の3時間、やっとの思いで二つの事件の記事を見つけた。  一つは、十二月十四日、土曜日の記事だ。  十三日午前三時頃、岡山市住吉町会社員、泉孝幸さん(四九)の自宅から出火、全焼した。火は五十分後に鎮火、その中から考幸さんの遺体が発見された。家族は全員外出中で無事だった。岡山署では、出火場所などから不審火の可能性があるとして調べている。  事件が発生した日が、十二月十三日の金曜日とは何とも気味の悪い話だ。  そして、その四日後の記事がこれだ。  十七日午後十時頃、小田郡美星町の県道で、岡山市住吉町会社員、泉孝幸さん(四九)の妻の美知子さん(四五)の運転する車がガードレールをつき破り、鬼ヶ嶽ダムに転落した。家族の話では長女の小夜香さん(十八)も同乗していた。車は二時間後に発見されたが車内からは遺体は発見されていない。美知子さんと小夜香さんは現在地元消防団と警察が捜索を続けている。矢掛署では、先日岡山で起きた放火事件で孝幸さんが死亡している事や、その火災後二人が行方不明になっていたことから無理心中の可能性があるとして、捜査を続けている。  これが、記事の内容のすべてである。その後の捜査の展開などは一切書かれていなかった。家族の証言というのはおそらく真佐美の事だろう。  この記事が真実だとすれば、おそらく二人は死んでいるだろう。ダムに落ちて、遺体が上がらないことなどざらにある。  しかし、証言が真佐美だったという事を考えれば、美知子はともかく小夜香が助手席に乗っていなかった可能性もあるはずだ。極論、小夜香が両親を心中に見せかけ殺したという見方だって当然警察内にあっただろうし、その辺りも捜査しただろう。  それでも尚、市役所のデーターには、行方不明で処理されている。  遺書があったのか、それとも遺体の一部が発見されたのか。目撃者がいた事も十分考えられる。 「手…、引こうかな…」  野上は、外に出るとホープを取り出し、まずは一服した。  そして、タバコをくわえたままアバルトに乗りこんだ。 (どうせギャラ、もらえないし…。止めようかな…)  何気なく、タバコの灰を灰皿に落とすと、例の少女の写真が目に入ってきて、野上の動きが止まってしまった。  頭に浮かんだのは、尋ねてきた女性の顔。 (真佐美の居所でも調べるかな…)  結局、美人に弱い野上であった。       第二章 星の降る町           1  野上が向かったのは、市立岡山第二中学校だ。  小夜香の住んでいた住吉町は、第二中学校の学区になっている。ということは、この中学校に行けば真佐美の行った高校がわかるわけだ。高校がわかれば、その後の進路もわかるという、すなわち芋づる方式をとったわけだ。  案の定、真佐美は中学校を卒業すると就実高校に入学したことがわかった。  卒業後は、ダイエー倉敷店に就職したという。  野上は夕方近く、電話ボックスからダイエーに電話をかけた。 『ありがとうございます。ダイエー倉敷店です』  かわいい声が帰ってきた。 「すいませんが、泉真佐美さんをお願いしたいんですけれども」 『どこの泉でしょうか?』 「さあ、そこまではちょっと…」 『少々お待ちください』  オルゴールが流れ出し、野上も、タバコに火をつけ一服始めた。  三分後に電話がつながった。 『もしもし、泉ですけれども』 (違う!)  野上は、慌ててタバコの火をもみ消し、 「もしもし、泉真佐美さんですか?」 と聞いた。 『ええ、そうですけれども』  野上は、思わず受話器を落としてしまった。  野上の所に尋ねてきた女性とは明らかに違う声だ。自慢ではないが、男は間違えても女は間違えない。正真正銘の別人だ。 『もしもし、もしもし。あれ? 切れちゃったのかしら』  野上は、慌ててぶら下がっていた受話器を取って、 「すいません。僕は、三村法律事務所に務めています野上というものです」 といった。 『法律事務所? 弁護士さんが何のようですか?』 「ちょっと違いますけどね。ところで泉さん、つかぬ事をお伺いしますが、お姉さんがおられましたね」 『ええ…、いましたげど』  真佐美の声が変わった。明らかに警戒している。 「実は、その事でお話をお伺いしたいのです」 『いまさら、どうしてですか?』 「実際のところ、僕のほうでもあまり状況を把握し切れていません」 『はぁ?』 「はっきり言って、こちらでも困っています。今まで調べたところによると、あなたのお姉さんの死が大きく関係しているようなんです」 『そんな…』 「とにかく、これから会えませんか? もし、僕のことが信用できないのなら弁護士会館で待ち合わせても構いませんが」 『いえ、そこまでしていただかなくても』 「ならば、僕がそちらに向かいます。場所を指定してもらえませんか」 『じゃぁ、倉敷駅前のポールポジションという喫茶店で八時に』 「わかりました、必ずきてください」 といい、野上は受話器を置いて、思わず頭を押さえた。 (僕の所に来たのは誰なんだ?)  当然ではあるが、この疑問が頭にコビリ付き離れない。  時計を見ると、まだ時間がある。  野上は、そのまま、西大寺高校に向かった。  というのも、野上のところに尋ねてきた女性からもらった写真。この写真に写っている女の子が着ているのが、この西大寺高校の制服なのだ。  野上は、まず事務所に行き写真を見せた。  受付嬢は、写真をもって職員室に消えると5分後に戻ってきた。 「どうぞ」 と受付嬢がいうと、職員室に案内され、一人の教師を紹介してくれた。  その教師は、身長は二メートルあまり、ガッチリとした筋肉質で胸囲は一メーター三十センチはありそうだ。いかにも…というか、まさしく…とでもいおうか、体育会系風である。 「いやぁ、どうも。私、米久体村と言うものです」  体だけでなく、声も大きい。名前も、体を示しているようだ。 「えーと、この写真ですね」 「そうです」  野上は、米久の差し出した写真を覗き込んでいった。 「彼女は泉君ですよ。泉小夜香君。これは、五年前の修学旅行の時の写真です」  野上は頭を掻いた。さすがにフケは落ちてこないが、固まったジェルでバリバリと音がしていた。 「小夜香…さんですか」  ある程度、予想はついていたことだ。しかし、目的がわからない。 「あの、タバコ…いいですか?」 「ええ、どうぞ、どうぞ」  野上は、ホープを取り出し火をつけた。そして、しばらく小夜香の写真を見つめた。 「どうかしましたか?」  米久が、野上の様子を見て心配そうに聞いた。野上は、視線を米久の方に戻し、 「泉さん、二年前に亡くなられましたよねぇ」 とタバコをくわえ、鼻から煙りを出しながら聞いた。 「ええ。悲しい知らせでした。葬儀には、私も出席させていただきました」 「小夜香さんは、どんな女性でしたか?」  野上は、灰皿に灰を落としながら聞いた。 「いい子でした。まあ、特別頭が良かった分けでもありませんし、度が過ぎた悪さもしませんでした。普通の女子高生でしたが、美人なぶん存在感もありました。それに性格も良かったですし。全く、惜しい娘を亡くしました」 「そういえば小夜香さんの死亡届は出ていなかったようですけど。それでも、葬式をやったのですか?」 「それなんですよ。まあ、一週間たっても遺体が上がりませんでしたからね。それに、残された妹さんも大変でしょうし、おやじさんの葬式をやった後、遺体が上がってからお袋さんとお姉さんの葬式をもう一回やるのは無理でしょう」 「なるほど。そういえば、新聞には二人の死体が上がったという記事がありませんでしたけど」 「それなんですけど、火事を起こした日がいつだか知っています?」 「十二月十三日の金曜日」 「そうなんですよ。泉君は、占いなんかに凝っていましてね。事故を起こしたとき、一斉に噂になったんですよ。しかも今日まで死体は上がっていませんからね。余計です」 「なんの噂ですか?」  米久は小声で、 「呪い殺されたんじゃないかって…」  野上は、くわえていたタバコを落としてしまった。  あまりの驚きに声も出ない。野上の表情を見て米久は慌てて、 「噂ですよ、噂。本気にしないでくださいよ。タバコ、落ちてますよ」 といった。  野上は、我にかえりあわててタバコを拾うと、灰皿の上でもみ消した。  そして、しばらく考えると礼を言って外に出た。  車に乗ると、ホープを取り出したが中身がない。  ポイ! と助手席に投げ捨てると、アバルトのエンジンをかけ喫茶、ポールポジションに向かった。  喫茶、ポールポジションは倉敷駅前にある。  おそらく駐車場がないだろう。そこで野上はアバルトを自宅に置いて、電車で倉敷駅に向かった。  その前に写真の一枚と日記のコピーをビニール袋に積めて、機動捜査隊の刑事、松山に渡した。指紋の採取が目的だ。  さて、電車に揺られて十五分、徒歩三分、ポールポジションに着いたのは8時ちょっと過ぎ。  真佐美は、まだ来ていないようだ。  野上は、いったん外に出た後、タバコの自動販売機を捜し、ホープを買った。  十本入りのボックスが二箱、いつものようにポケットの中に入れ、再びポールポジションに戻った。  ボックスの席に着くと、とりあえず紅茶を注文してホープに火を付けた。  野上は一本吸い終わると回りを見た。 (さて、真佐美はまだかな…) と回りを見た瞬間、野上は体が凍りついた、ような気分になった。  真佐美の顔を知らないのだ。  野上はあわててウェイトレスを呼ぶと、真佐美を呼び出してもらった。  案の定、来ていたようだ。 「すいません、こちらもあわてていたもので」  野上は詫びを入れた。 「いえ。泉真佐美です」 と真佐美は頭を下げて改めて自己紹介をした。 「野上経義です」  野上のほうも、とりあえず名乗って名刺を渡した。  真佐美は名刺を眺めて、 「やっぱり、弁護士さんなんですね」 と聞いてきた。 「えっ?」  野上が渡した名刺を覗き込むと、弁護士の名刺になっている。どうやら古い名刺が紛れ込んでいたようだ。 「あっ! 失礼」  野上はその名刺を取り返すと、現在使用している名刺を渡した。弁護士の名がきえている。 「どう違うのですか?」  真佐美は不思議そうに聞いた。 「今、僕は謹慎中で弁護士会から弁護士の名を使うことを禁止されているんですよ。そんなわけで、事務所で調査員をやっているんです」  真佐美はわかったようなわからないような顔をしている。 「では、本題に入りましょう。僕は事務所で調査員をしているかたわら、先生の所へ依頼に来る探偵業のような仕事もやっています」 「はあ」 「先日、僕のところにある女性が尋ねてきました。人を捜してほしいと。捜し主は、泉真佐美さん、あなたです」  野上は、真佐美の目を見つめながらいった。 真佐美は動揺しながら、 「えーっ、私ですか? でもどうして」 といった。 「三日前に学校に行ったまま帰ってこなかったそうです。あなたを捜してほしいといってきた女性、泉小夜香と名乗りました」 「嘘…」 「本人かどうかわかりません。そこで確認するためにあなたに会ったというわけです」 「そんな…、でたらめだわ!」 「そんなにいうのなら、僕の身元を確かめてください。免許証を渡します。とにかく、僕の所に尋ねてきた女性は、小夜香さんでもなければ真佐美さんでもない。すなわち、どちらも知っている第三者ということになります」 「だから?」 「何かの目的があると考えるのが自然でしょう。しかし、現段階ではその目的がなんなのかはわかりません。ただ、一つ言えることは、僕の所に尋ねてきた女性は、あなたを捜してくれといってきた。あなた自身になにか起こるということ。今、言えるのはそれだけです」  野上はテーブルの上に写真と日記帳を置いた。 「これは例の女性が置いていったものです。どちらも、あなただといってね」  真佐美は写真を手にとって、 「姉さんだわ」 と一言呟いた。 「でしょうね。確認は取りました。こちらは、偽造された日記です」  野上は日記を真佐美に手渡すと紅茶を飲んだ。 「これ…、姉さんの字!」  野上は一瞬、紅茶を噴き出しそうになった。 「本当に、お姉さんの字で間違いありませんか?」 「ええ。間違いありません」 「申しわけありませんが、お姉さんの筆跡を証明できる物はありますか?」 「アパートに戻ればありますけど」 「わかりました。明日、同じ時間にここで…、いや、それよりもここに郵送してもらえませんか?」  野上はそういうと、ポケットからペンを取り出し、紙切れに住所を書いた。  701 岡山市浜一丁目〇□△      岡山県警岡山警察署          機動捜査隊           松山悟宛 「警察?」 「あ、この人間は幼なじみなんですよ。警察には内密に、鑑識の力を借りようと思ったらこの男は、大変融通がきくんですよ」 「そうなんですか」  真佐美は不思議そうな目で答えた。 「とりあえず、ここに送ってください」 「それは構いませんけど」 「そうですか。じゃあアパートまでお送りしましょう」 「いえ。けっこうです」  真佐美はきっぱりと断わった。事情がどうであれ、相手は初対面の男である。 「そうですか。とにかく身の回りには気をつけてください。何が起きるか分かりませんから」  野上はそういい残すと、伝票をもってさっそうといってしまった。 (なんなの、いったい…)  真佐美もコーヒーを一口飲むと立ち上がった。           2  翌日の昼、野上は爆竹頭で門田本町の自宅のリビングにいた。  目を擦りながら、大あくびをしている。まだパジャマのままだ。 「新聞まだ!?」  野上が怒鳴るが返事がない。  仕方なく立ち上がり書斎に向かった。  書斎では三村弁護士が新聞を読んでいる。 「おやじ。まだかよ、新聞」 「見てわからんか。今読んでんだ」  野上はちらっと復帰したばかりの秘書、中村を見た。中村は気が付かない振りをしている。 「全く。朝から読んでんだろ。何でこんなに時間がかかるんだよ」 「………」  返事がない。 「読み終わったら、持ってきてよ」 と言い残すとリビングに戻った。  ソファーに座り、頭をかきながらあくびをしていると、お手伝いのあずさがコーヒーをもって入ってきた。 「ツネちゃま、コーヒーですよ」 「ばあや、何度言ったらわかるんだよ。僕はコーヒーは飲まないんだ」 「あれ? そうでしたか」 というと、あずさはコーヒーを持ってダイニングへ消えていった。 「まったく、どいつもこいつも」 といって、テレビをつけてソファーに座った。  そして、タバコに火をつけると何気なく、テレビ画面に目を向けた。  何やら特別報道番組をやっているらしい。  連立与党、新日本党の太川総理が辞任したようだ。野党議員の叔父には直接関係無いと思うのだが、与党が予算審議を二ヵ月間も行えなかった責任のいったんは民主党の光野総裁や叔父にもあるのかもしれない。  野上はそんなことを考えながら日記を手に取り読み始めた。が、すでに政治のことも日記のことも忘れて、別のことを考え始めた。  占い、宗教、そして今度は呪いと、野上とは全く違う世界の話が出てきた。それと事件とどうつながるかは別にして、事件の引き金は、おそらく二年前の泉宅放火殺人だろう。つづいて、母と娘 の無理心中。  そして、今になって泉小夜香と名乗る女性が現れ、妹の真佐美を捜してくれと頼んできた。依頼通り、真佐美を捜し出すことはできたが、小夜香と名乗る女性が言っていた真佐美像とは大きく異なる。  どちらといえば、その女性が言っていた少女は真佐美というより生前の小夜香をイメージするものだ。  依頼人の目的はいったいなんなのか。  どちらにしても二年前に起きた事件のデーターを調べる必要がありそうだ。  事件の起きた美星町の管轄は矢掛署のはずだ。美星町は矢掛町と隣接していて、白壁の街倉敷市のほぼ西にある。星がきれいに見えるということで美星という名のついた町だ。そこからもわかるように山の中の町で平地もなく、曲がりくねった細い道ばかりの、典型的な過疎の町だ。町の名前を目玉にして観光客を呼び寄せようとしているのだが、町の名前が奇麗だということ以外、これといったセールスポイントはない。こういった過疎化は岡山県全体が抱えている悩みの一つだ。  その美星町は岡山からだと、車で三時間ぐらいだ。  やはり、一度矢掛署に顔を出す必要があるかもしれない。 (これから行ってみるか…)  野上は、そんなことを考えながら日記帳を流し読みしていてた。その時、電話がなり始めた。 「ん?」  野上は日記帳をテーブルの上に置くと、立ち上がり電話を取った。 「もしもし、三村ですけど」 「ツネちゃん? 井沢です」  野上はまるで術師に名前を言い当てられ、力を失った妖怪のような表情をした。瀬戸内新聞社会部記者、井沢美希だ。今、例の喫茶店にいるそうだ。  野上は急いで身仕度を整え、喫茶店に直行した。  店に入ると、 「いらっしゃい」 とマスターが迎えてくれた。美希はテラスでコーヒーを飲んでいた。  野上は美希の顔を見るなり、 「あれ? 髪型変えたの?」 といった。 「なによ。悪い?」  野上は美希に睨まれると、蛇に睨まれた蛙のように身を引き、金縛りにあった。 「いや、とっても奇麗だよ。本当!」  本当は、ますます男っぽくなったと言いたかったのだ。 「で? 用って何?」 と野上は美希の追求を恐れ、素早く話題を変えた。 「ああ、ちょっと調べてもらいたいことがあるのよ」 と言いながら美希はバックの中から書類を取り出し、野上に手渡した。  野上は、その書類を目に通した後、背中にゾクッと冷たいもの感じた。  その書類はある事件のデーターだ。 「どう、やってみない?」  美希は怪しげな笑みを浮かべた。 「やるって何を?」 「トボケないでよ。ツネちゃんが追っている事件と、この事件が関係ないとは言わさないわよ」  野上は、おとぼけを決めてタバコに火をつけた。 「聞いたわよ、松山君に。一民間人が警察の鑑識なんか使ってどういうつもり?」 (あのヤロー)  野上の頬がヒクヒクと引き釣っていた。  美希の持ってきた事件とは、美星町で起きている一連の蒸発事件だ。  ここ十年間、美星町で十二人の行方不明者が出ている。それはすべて刑事事件として扱われ、その十二人はいまだに行方不明のままだ。しかも、今の時点で美星町鬼ヶ嶽ダムから、美星住人以外の五人が変死体として上がっている。そして、そのダムで一件の事故があり、二人が行方不明になっている。 「大体、いいのかよ。こんなところにいて。総理が辞任したんだろ、新聞社でも大騒ぎしてんじゃないの」 「いいの、私は社会部の記者だから。そういうのは政治部の仕事」 「なるほどね」  野上は妙に納得している。 「そんなことはどうでもいいのよ。それよりも、せっかくあなたの件、調べてきたんだから」 「そりゃどうも」 「それで、事件の発端になった放火なんだけど、鎮火後遺体が発見されたわよね」  野上がうなずいている。 「検死の結果、頭部を強打された後があったの。警察としてはすぐに殺人として動いたんだけとね。松山君に聞いてみれば?」  野上はしばらく考えて、 「確か二年前と言えば…、県警本部の高機から岡署の刑事一課捜査一係に所属が変わった年だから、捜査本部にいれば捜査に参加してたのかな」 「まあ、ガイシャの身元が割れるのは早かったのよ。虫歯の治療痕もあったし、その事件の五年前に胃潰瘍で切開手術をやってたから。それで、ガイシャの次女とは直ぐに連絡が取れたんだけど、妻と長女の二人とは連絡がつかない。捜査本部は二人をすぐに参考人として捜査を始めたわ。ニュースでも火事の事を大きく取り上げた。でも、二日たっても二人は出頭してこなかった。本部が二人を参考人から重要参考人に切り替え、マスコミに二人の名を発表した次の日、一一0番に鬼ヶ嶽ダムで車が転落したと通報が入ったの。警察が現場に駆けつけ車を引き上げると、その車の名義はガイシャのもので、放火のあった前日に、妻と娘 が旅行に出かけると言って持ち出した車だったの」 「そして、車内に二人の姿はなかったということか」 「そう」 「でも、その車の転落に偽装の可能性は無かったのかよ」 「目撃者がいるのよ」 「事故の?」 「そう、決定的瞬間。ほかにも、事故を起こす数分前に何台もすれ違った対向車のドライバーが覚えているのよ。だから、無人の車を崖から落とそうとしても無駄なわけ。それに現場はちょうどガードレールのつなぎ目で一メーター位隙間があったのかな。そこをつき破って落ちているのよ。四十キロ位のスピードだろうって担当の刑事が言ってた。あと、現場にはブラックマークが残っていなかったのよ」 「じゃあ、ノーブレーキで突っ込んだのか?」 「そうなるわ。考えられるとすれば居眠りね。でも、あそこの道は居眠りどころか脇見をする暇もないくらい曲がりくねっているらしいから。それで、無理心中が決定的になったわけ」 「なるほど…。アチッ!」  野上は思わずタバコを落としてしまった。  タバコは根元まで燃えている。急いでタバコを拾って灰皿で火をもみ消した。 「バーカ」  美希がクスクスと笑っている。 「うるせー。それで、僕に何をしろって?」 「こんなこともあったよって情報のリークをしただけ。ツネちゃんが頑張って事件を解決して、私にそれを報告してくれればいいの。記事にしてあげるから」  美希は時計を見ると、 「そろそろ行かないと」 といって席をたった。 「じゃあ」 といって店を出ていく美希を見送ると、入れ代わるようにマスターが、水と紅茶をもってきてくれた。 「遅いよ」 と野上がいうとマスターは、 「いや、何か込み入った話をしてるみたいで悪いなーと思って。はい、いつものヤツ」 といって紅茶と水、そして野上と美希、二人分の伝票をテーブルの上に置いた。           3  野上はその日の二時過ぎ、矢掛町へ向かった。  岡山市街地で国道180号線に乗り、吉備路、総社インターを越え総社市内で県道倉敷総社線に乗り高梁川を河川敷に南下していく。  途中、清音駅の交差点を西に曲がり、川辺橋を渡って小田川沿いの県道倉敷・井原線を走り、真備町を越えるとそこが矢掛町である。  矢掛町の町並みは小田川の中流に位置し、かつての山陽道の宿場町として栄えた。江戸時代には五メーター弱の道の両側に二百ばかりの町家が並んでいたという。幕府の巡見使や長崎奉行をはじめ参勤交代の西国大名が宿泊した本陣・石井家や脇本陣・高草家がいまも当時の姿をとどめている。  その矢掛町にある矢掛警察署は数年前、町のはずれに移転し鉄筋六階建てのビルを新築した。  何もない田んぼの中にそびえ立つ警察署は、何となく違和感があり圧迫感を感じる。  岡山県は県下一のマンモス署、岡山警察署を筆頭に、やたらと建物が大きい。それは警察署に限らず町村役場にも言えることで、後で気がついたのだが美星町の役場も新築されていた。  野上は日が暮れる頃になって矢掛署に到着し、とりあえず署の中に入った。  受付の署員に聞いたところ、最近一番新しい事件が起きたのは去年の十二月だとということで、六階大会議室の本部に案内され担当の刑事を紹介してくれた。  会議室入口には『鬼ヶ嶽ダム殺人死体遺棄事件捜査本部』の看板が掲げられてあった。 紹介してくれた刑事は気さくな表情で名刺を差し出し、 「刑事課捜査一係の小林と言います」 といった。野上もあわててポケットから名刺を取り出すと小林にそれを渡した。 「三村法律事務所の野上です」 「お話は聞いています。中へどうぞ」  野上は驚いた。話を聞いていると言われても、当の本人は何も話は聞いていない。  考えられるとすれば美希か。 「瀬戸内新聞の井沢さんから、なにか話でも、そちらに行っているのですか?」  野上はとりあえず聞いてみたが小林は、 「ああ、確かそういう名前の記者さんもいましたなぁ。でも、話を持ってきたのは松山刑事ですよ、機捜の」 といった。松山は、美希といい、小林という刑事といい、何を他人にべらべらとしゃべっているのだと、野上は思った。彼は人に言わず、無断で何かをする癖がある。それには野上も、ときどき困っている。 「あっ、知っているんですか」 「ええ、県警の交通課にいた頃はよく顔を合わせてましたから」 「それじゃぁ、交機に?」 「いえいえ、私は違います。ただ、私がここの刑事課に勤務できるようになったのは彼のおかげですけど」  松山が交通機動隊にいたころ、岡山で銀行強盗を起こした犯人が瀬戸大橋を使って県外逃亡をしようとした事件があった。その時松山は、素早く現場に駆けつけ事件をスピード解決させたのだ。  小林の話では、その時ちょうど現場近くにいた彼が松山の無線での応援要請に素早く応じて早島インターから犯人を追走したのである。先回りしていた松山は高速道路を逆走して、挟み撃ちにしたのだ。  松山の行動は本来始末書ものの行為だったが、彼が元プロレーサーだったことをマスコミがかぎつけ、最終的に松山と小林は県警本部長賞を受賞し、小林は巡査部長として矢掛署刑事課へ、松山は階級保留のまま岡署刑事一課捜査一係へ移籍した。  その松山は今年四月一日付け、つまり十日前に機動捜査隊に転属になっている。 「さっそくなんですが…」  野上は椅子に座りながら小林に質問をぶつけた。 「鬼ヶ嶽ダムで起きた事件の詳細を教えてくださいませんか」 「ええ、本来なら一民間人に話すべきではない事 柄なのですが、野上さんも司法出身ですし、松山さんのこともありますのでお話しましょう」  小林は会議室にいた、もう一人の刑事にコーヒーをいれるよう頼んだ後、事件の事を話し始めた。 「最初に事件が起きたのは、去年の十二月三日です。ガイシャは松田一朗三十五歳、旅行会社の倉敷支店に勤務していました。住所は、矢掛町内田**です。事件は三日の夜十一時頃、会社から帰宅中に拉致されました」 「拉致?」  野上は眉間にシワを寄せ、おもむろにタバコに火をつけた。 「拉致とは穏やかじゃありませんね」 「ええ、最初に一一0番をしてきたのは矢掛町の通行人からでした」 「えっ? 奥さんか誰かが捜索願いを出したのでは?」 「いえ、違います。もし、そうだったら我々も事件性があるものとしては捜査していなかったでしょうから」 「なるほど」  野上は口から煙を出しながら、妙に納得してしまった。日本警察というのはよほど暇な田舎の警察署でもない限り、なかなか失踪人の捜索などやってくれない。野上が最初、小夜香と名乗る女性から妹の捜索を依頼され、素直にそれを受けたのも、そもそものそういった警察の体質があるからだ。  ちなみに小田郡は田舎だ。 「状況としては矢掛町の県道、倉敷井原線で事件は発生しました。目撃者の話では、犯人の車はガイシャの車の後ろをぴったり付いて突然抜いたかと思うと、ガイシャの車の進路をふさぐように停車、三人の覆面を被った男と思われる人物が、ガイシャを車ら引きずり下ろし無理やり覆面者の車に押し込んだそうです。犯人は覆面をしていたために似顔絵、モンタージュとも製作は不可能でした。体型は一人が百八十センチちかい長身で痩せ型。もう一人は百七十センチくらいで太め、最後の一人は、小柄で百六十五センチくらいで中肉中背です。体つきからいっておそらく男だろうと目撃者は言っています。我々もすぐに現場に駆け付けたんですが指紋などの遺留品はありませんでした」 「目撃者は車を見ていたのですか?」 「ええ、ナンバーまで控えてくれていました。しかし、県警に照会したところ、前日に盗難車として岡山署に被害届が出されていました」 「盗難車は発見されたんですか?」 「真備の住宅地で発見されました」 「手がかりは?」 「残念ながら」  野上は小さくため息をつくと、吸い切ったタバコを、山のように吸い殻が積まれている灰皿に押し込め、新たらしいタバコに火をつけた。 「もうひとつは?」 「その三日後、十二月六日に事件が発覚しました。ガイシャは二十七歳、真備町で進学塾を経営している女性で名前は内田康子です。現場は真備町で彼女の塾の教室でした。たまたま、ガイシャが昼から塾へ入っていたところを狙い打ちされたようです」 「目撃者はいないのですか? 生徒とか、近所の人とか」 「いませんでした。何しろ客は学生ですから。それに塾は奥まった住宅地にあったため、近所の目撃者も全くありませんでした」 「それはおかしいですよ。そんな、乱暴な拉致事件ならガイシャだって抵抗するでしょ」「確かにそうです。鑑識の結果、クロロホルムを含ませたハンカチを発見しました。おそらく犯人は、ハンカチに染みこませたクロロホルムでガイシャを眠らせ、その時にでもハンカチを床に落としたのでしょう。通報はガイシャの両親からです。塾生から自宅に問い合わせがあり、両親が不審に思い通報したそうです」  野上は大きくタバコの煙りを吸い込んで、 「真備町ということは、管轄は総社署ですか」 と聞いた。 「そうです。ただ、ガイシャの現住所は矢掛町宇山〇なんですよ。それに三日前に矢掛で事件があったばかりということで合同捜査の形を取ったのです」 「あっ、なるほど」 「それで死体なんですけれでも、発見されたのは十二月二十四日、鬼ヶ嶽ダムで発見されました。死体はどちらも胸部から腹部にかけて大きく切り開かれ、内蔵はくり抜かれていました。鑑識の写真、見ますか?」  野上は血相を変えた。 「いえ、結構です。それで検死の結果は?」 「はぁ、それが内蔵はくり抜かれているものですから、食べたものの消化具合からという訳には行かないのです。しかし、遺体は比較的新しく死後硬直の具合からいっても前日、夜ということになりますか」 「死亡推定時間は、二人とも同じ時間なのですか?」 「ほぼ、一致しています。おそらく二人とも二十三日夜に殺害、その後内蔵を取り出したものと思われます。直接の死因は出血多量です。それと手足に索条根が残っていました。おそらくロープのようなもので縛られていたものと思われます」  野上はまた新しいタバコに火をつけ、タバコの煙りを眺めながら考えていた。 「ガイシャ二人の接点は?」 「現在捜査中ですが、今のところ矢掛出身という以外何もありません」 「過去、十年で十何人の失踪と死体遺棄があったらしいですけど、その辺りの詳細を教えてくれませんか。なにか接点があるかもしれない」  野上が言うと小林はちょっと待ってくださいといい会議室を出ていった。  そして、十分後戻ってきた。 「どうでした?」  野上が聞くと、小林は資料を野上の前に広げいった。 「一つだけありますよ。美星町です」 「美星町…、星降る町か…」           4  この事件、もし内容が明かるみになれば大量殺人ということになるのだが、共通点は美星町以外何もない。  失踪したのは美星町の住人であり、死体が上がっているのは鬼ヶ嶽ダムだ。これも美星町にはいる。小夜香と美知子が心中したのも同じ鬼ヶ嶽だ。  失踪人は下は十代前半の女性から上は五十前の男までさまざまだ。美星在住の行方不明者は互いに血縁関係という分けでもなく、近所の付き合い的なものはあるにしても、基本的には何もない。蒸発した時期もばらばらだし、蒸発を匂わせるような言動も一様に無かった。どの蒸発も突発的に起きている。  死体遺棄のほうはというと、身元がわかっているのは現在三人だ。二人は去年末の拉致事件、そして後一件は倉敷に住んでいた二十歳の大学生だ。  残りの二人は矢掛、総社両署の管轄内住人ではないということだ。それに警察庁にも照会してみたが該当者は無しという結果だった。  そして、泉美知子、小夜香の無理心中だが遺書の写しも見せてもらった。  私は夫を殺しました。これから小夜香と共に夫のところに行きます。                              美知子  ずいぶんあっさりしたものだ。しかし、筆跡鑑定でも美知子の物と断定でき、はっきりと夫を殺し、小夜香と死ぬと書いてある。  無理心中以外の疑いはないようだ。  しかし、小夜香と名乗る女性、何のために野上の前に現れたのか。  野上には全く事件の全貌は見えてなかった。  野上が小林に礼を言い署の外に出たときはもう真っ暗だった。小林の好意で鬼ヶ嶽温泉の旅館を取ってくれたので今日はそこに泊まることにした。  失踪事件は、詳細を説明してもらい資料のコピーまでもらってしまった。  野上は晴れた夜空を見ながらタバコに火をつけ、鬼ヶ嶽温泉に向かった。  鬼ヶ嶽は矢掛町の北にある。県道玉島、成羽線を北に向かう途中だ。  美山川に沿う全長一キロの渓谷で、矢掛と美星にまたがっている。  花崗岩や輝緑岩がつくり出す岩石と赤松、桜、紅葉などの森林美が、春は桜、秋は紅葉と四季それぞれ楽しめる。野上が行ったときはちょうど桜の開花と重なり美しく見えたはずなのだが、野上は夜にそこを通ったため、その日は何もわからず通りすぎてしまった。 この辺りは、鬼屋敷、鬼の釜、鬼の足跡と鬼にちなむ地名が多くあり、ここで湧く温泉で鬼が傷をいやしたと伝えられている。  鬼ヶ嶽ダムはその渓谷の中腹辺りにある小規模なダムだ。  野上は、通り道ということもあり、ダム沿いにあるベンチとゴミ箱しか置いていない小さな休憩所にアバルトを止め、ダムを眺めた。  ダムは休憩所から見下ろすようになっていて、真っ暗闇の中、まるで下界に広がる巨大な湖のようで何となく不気味な感じを醸し出していた。  夜、こういった所にいるというのはただでさえ薄気味悪いのだが、鬼の伝説に加え、死体遺棄のメッカとなりつつあるこの現場で休憩をしている鈍感な自分をふと見つけしまった。  だからといって、そこを離れるという分けでもなく、野上はタバコに火をつけ空を見上げた。  辺りは、街灯もなく山に囲まれ町の光も入ってこない。満天の星空の中、天の川がはっきりとわかる。 (鬼の伝説と星の町…、美星町か…。なんでこんなところで)  その時、野上の脳裏に小夜香と名乗った女性の顔が浮かんだ。やはり、小夜香は生きているのかもしれない。  野上はそう思いながら、タバコの火を消しアバルトに乗りこんだ。  鬼ヶ嶽温泉はさらにその北にある。何もないところで注意しなければ見逃してしまうようなところだ。別に温泉街になっているわけではないし、旅館が一件あるだけだ。建物は古めの旅館という感じか。小ぎれいに掃除されている。  野上は旅館の中に入るとおかみさんが出迎えてくれた。 「夜、遅くまでご苦労さまです。さっ、どうぞお上がりください」  おかみさんが、満天の笑みでねぎらいの言葉をかけてくれた。お客が久しぶりなのか、おかみさんの持って生まれた気さくな性格なのか野上にはわからなかった。 「本当にすいません。突然押し寄せちゃって」 「いえいえ、そんなことはございません」  そういいながら、おかみさんは部屋を案内してくれた。 「先にお食事にします? それともお風呂に?」 「あっ、とりあえず風呂に入ります」 「そうですか、露天風呂と大浴場がありますがどうします」 「露天風呂は寝る前に入りたいですねぇ」 「それだったら、大浴場のほうで汗だけ流して来ればどうです? 廊下の突き当たりを左に行ったところにありますんで」 「そうですね、そうします」 と野上が言うとおかみさんは「失礼します」といって出ていった。  野上は、タバコを一本吸うと浴衣に着替えて大浴場にいった。  大浴場といっても、それは名ばかりで風呂じたいはそれほど大きくない。しかし、とりあえずは温泉である。  野上は温泉につかると何もかも忘れ、湯にひたっていた。  この温泉、鬼ヶ嶽に湧出する泉温十八度のラジウム鉱泉だそうだ。  野上は風呂から出て脱衣所で浴衣を着ると、廊下のソファーで涼みながら、タバコに火をつけ、風呂上がりの余韻に浸った。  そして、タバコを吸いながら耳を澄ませてみた。ほかに客はいないようだ。  タバコが吸い終わると部屋に戻った。  既にテーブルの上には料理が並べられていた。 「湯加減はどうでした?」  おかみさんが笑顔で聞くと、 「いやぁ、久しぶりに温泉に入って気持ち良かったですよ。まさか仕事できて、温泉に入れるとは思いませんでしたし」 と野上はうれしそうにいった。 「それは、良かったですね。料理のほうなんですけど突然でしたから準備できませんでしたけど」  おかみさんの言葉に野上は料理をみた。  山菜料理に、おそらく慌ててスーパーにでも行ってきたのだろう刺身がおいてあった。 最近、めっきり食べることができなくなった、つくしのつくだ煮もある。 「いえいえ、僕は和食が大好きですから。うれしいですよ」  野上は、お世辞ではなく心からそういった。  実際、野上は三村家のお手伝い、ばあやのおかげで和食を食い慣らされている。  野上はテーブルの前に座ると、おもむろにおかみさんに話しかけてみた。 「そういえば、この辺りで失踪事件が相ついでいるらしいですね」  野上がそういうとおかみさんは眉を潜めた。 しかし、すぐに元の笑顔で、 「お客さん、警察の方でしたねぇ。そのことでここへ?」 と逆に聞き返してきた。 「確かに失踪事件の件でここに来たんですけどね。でも僕は警察の人間じゃないですよ」「そうなんですか? 小林さんの紹介だったから、私はてっきり警察の方かと思いましたよ」 「ハハハ、残念ながら」  野上は乾いた笑いをした。 「じゃあ、どちらの関係ですか?」 「えっ? あぁ…」  野上はしばらく考えて、 「司法関係とだけ言っときましょうか」 といった。司法といったって幅は広い。裁判官に始まり検事、弁護士、そして警察だって司法関係になる。何しろ、裁判での警官の呼び方は司法警察官となるのだから。  それを聞いたおかみさんはわかったような顔をして、 「検察の人でしょ。でも、誰か逮捕されたって話も聞かないし」 と言った。 「おかみさん、よく知ってますね。まあ、似たようなものです」 しかし、たとえ逮捕者が出なくても、基本的に検察は動ける。逮捕権も持っているので初動捜査から参加だって可能だ。しかし、現実には忙しいため、検事自ら捜査することはない。そういう意味からいえば、確かに弁護士と検事、ほかに違うと言えば公務員か自営業かの違いぐらいか。試験も同じだし、法廷でも席が違うぐらいだ。仕事の違いも被告に重い刑を与えようとするか、軽い刑になるよう努力するかの違いで大きな枠で囲ってしまえば同じといっていい、と思う。 「今は民間人としてこの事件に関わっているんで身分を明かすわけにはいかないんです」 野上はカッコいいことを言ってみた。しかし、どんなにカッコいいことを言っても今の野上はただの民間人だ。 「そうなんですか…。わかった、インターポールの人でしょ、それともFBI、もしかしたらCIAかな」  野上は、国連機関にもアメリカの連邦機関にも縁もゆかりもない人間だ。 「おかみさん、知ってることを適当に言ってませんか?」 「わかりましたか、やっぱり」 といって笑った。見ためには五十歳を過ぎているような感じたが、このおかみさん、気だけは若そうだ。 「それはそうとおかみさん、二年前に起きた心中事件、覚えていますか?」  おかみさんはしばらく考えると、 「ああ、そんなこともありましたねぇ」 と思い出したようにいった。 「この娘、見たことありませんか?」  野上は壁に掛けてあったコートのポケットから写真を取り出し、おかみさんに見せた。「この娘、この娘」  野上が高校時代の小夜香を指さすと、おかみさんは突然、 「この娘、見たことありますよ」 とびっくりしたようにいった。野上はもっとびっくりすると、 「えっ!? 本当ですか? どこで見たんですか?」 と興奮していった。 「事故があった翌日、刑事さんが写真で見せてくれたんですよ。心中した娘だけど、この辺りで見なかったかって」  野上はその話を聞いてこけた。が、負けじと、 「本人を生で見たことはありませんでしたか? 例えば事故の前日に、ここに泊まったとか」 としつこく聞いた。 「ん〜、どうでしょうねぇ」  おかみさんは固まってしまい、このまま、もう二度と動かないのではと野上が心配するほどだった。しかし、結局は、 「やっぱり見たことはありませんねぇ」 とあきらめてしまった。 「そうですか…」  野上は一瞬期待しただけにショックは何倍にもなって返ってきた。 「すいませんねぇ、お役に立てなくて」 「いえ、かまいませんよ」 と野上は元気なく答えたが、再び生き返ったように、 「だったら、失踪人のほうはどうなんですか? 誰か知り合いとかはいませんか?」 と聞いてみた。 「えっ、知り合いですか? どうでしたか…」 と否定も肯定もしなかった。しかし、おかみさんの表情は変わっている。  野上は、この周辺の住所で行方不明になった人間が資料に載っていたのを思い出し、その中の二人の名前をあげてみた。 「宝月進さんとか、石井直助さんとか」  二人の名前をあげた途端、おかみさんの顔色が一気に変わった。誰の目から見ても動揺している。 「図星でしょ」  野上が真剣な表情で聞くと、おかみさんは力なく、 「はぁ」 と答えた。 「やっぱり、知り合いなんですね」  野上がさらに追求すると、おかみさんは仕方なさそうに、 「宝月進は私の息子です」 と言った。今度は、それを聞いた野上の動きが止まってしまった。 「本当なんですか?」 「ええ…。七年前、息子が二十歳のときです」  野上はおかみさんの顔を見るのも忍びなく、うつむいてじっと話を聞いていた。 「当時、息子は総社の小さな町工場に務めていました。息子が姿を消したのは台風が日本に直撃した時、九月二十七日で今でもはっきり覚えています。あの日の朝、台風は岡山に上陸こそしませんでしたが、県南部には警報が出ていました。私は息子に会社を休むようにと言いましたが息子は子供じゃないんだからと笑って家を出ていきました」 「しかし、戻ってこなかった」  野上がうつむいた顔を上げた。おかみさんは野上の言葉にコクリとうなずいた。 「その行方不明になる前、なにか変わったことはありませんでしたか? 息子さんの様子が変だとか、誰か怪しげな電話があったとか」 「いえ、まったく」 「蒸発という可能性は?」  おかみさんは野上の言葉を聞くと、うつむいて首を横に振った。 「警察は…、なんて?」  おかみさんは顔を上げると、 「もともと警察は、この事件には本気で取り組んではくれません。警察なんか、あてになるもんですか!」 と強い口調で言った。  しかし、それを聞いた野上は少しばかり驚いた。警察は、この失踪を一連の事件として扱っているのだ。だからこそ、刑事課や捜査本部に資料が存在しているのだ。  野上は、そのことをおかみさんに話したがおかみさんは小さく、 「この町には古くから人さらいの伝説かあるのです」 といった。さすがに野上も肝を抜かれたような表情をした。 「人さらい…ですか?」  おかみさんは、コクリと頷いた。 「鬼の伝説です」  それを聞いた野上は、おかみさんの顔を見て、背筋に冷たいものを感じた。      第三章 幻の霧のなかで           1  鬼ヶ嶽は美星町中心地からは、北北東に位置している。  十二支の干支で言えば、艮 、すなわち鬼門に位置している。  岡山の桃太郎伝説には面白い逸話がある。  桃太郎のお供であった犬、猿、雉はなぜ選ばれたのかという話だ。  一説には桃太郎のモデルとなった吉備津彦の部下の名前から取ったと言われているが、もう一つは干支に関わっていると言われている。  桃太郎が倒したのは、村へやってきて村民たちを困らせた鬼なわけだが、おもしろいことに我々が子供の頃に見た絵本などの鬼には必ず鉄の金棒、二本のツノと虎柄のパンツがトレードマークにないている。これには深い意味があって、鉄の金棒は昔、吉備が鉄の産地でありそこからきていると言われている。当時、鉄こそが力の象徴だったのだ。  そして、鬼の二本のツノは丑の物、虎柄のパンツは言うまでもなく虎からきている。  すなわち、鬼門を意味しているのだ。  元来、鬼というのは虎の頭に丑のツノが生えた架空の動物なのだ。それが脚色され今の形になったという。  そして、鬼に対抗するために桃太郎は干支でいう艮 の正反対の裏鬼門、南西に位置する雉、猿、羊を選んだ。しかし、当時、日本には羊という動物はいなかった。そこで犬が選ばれたと言われている。  何となく、こじつけのようだが現に頭の薄い先生と呼ばれるような人種がまじめに言っている話である事だけは間違いない。  しかし、美星からいえば、確かに鬼門に位置する鬼ヶ嶽も、例えば吉備路、そして岡山城から見ても方角は全く違う。そう考えてみると、一連の伝説が事件に関わっているかというと説得力の無い話ではある。  岡山に住む以上、古代ロマンに浸りたいのも人情なのだが、今の野上にそんな悠長な思想は存在するはずもなかった。  占い、宗教、呪いに続いて、今度は鬼なのだ。  この勢いで行けば、鬼や妖怪がウジョウジョ出てきそうだ。好奇心旺盛な野上でも、さすがに子泣き爺や砂懸け婆には会いたくない。病気や事故などで死ぬのならあきらめもつくだろうが、そんなあやしいものに殺されたとなれば死んでも死に切れない。  鬼ヶ嶽の温泉には傷ついた鬼がそこで傷をいやしたというのは前に述べた。そして、おかみさんの話では、その鬼たちが旅人たちを食ったと言われているそうだ。聞くところから推測すると矢掛が宿場町として発展していった頃、江戸時代の頃からの言い伝えということになる。  そういった古くからの言い伝えがあるために警察もなかなか本気になってくれないというのだ。おかみさんに言わせれば、大所帯は単なるカモフラージュで、地元住人なら誰でも知っているという。  否化学的なと言われそうだがどうやらこの失踪騒ぎはここ十年間だけではないらしい。 そんなに信じられないのなら警察に行って調べてみるといいとまでおかみさんに言われてしまった。  確かに奇妙な話だが、それが真実だとして、現代の鬼は覆面姿で車を操り、時と場合によってはクロロホルムなどの薬品を使うのだろうか。それとも、人の心に鬼が住み着いたのだろうか。  どちらにしても、そんな空虚な話が信じられるわけがない。いや、信じるわけにはいかないのだ。何よりも、昨年の暮れに見つかった二つの遺体は紛れもなく真実なのだから。 確かに野上は霊体験をしたことがある。  しかも一度や二度じゃない。高校時代にヤンキーだった野上は怪談の現場で百物語をしていて本物に出会ったこともある。  こういった話は、野上にとって信じるなというほうが無理なのだが、それでも弁護士として、警察として、検事として、我々法務の人間が気安く信じては事件が解決するわけがない。  しかし、おかみさんの話を聞き終えた野上は憂鬱でしかたがなかった。食事が喉を通らなかったし、とても露天風呂に浸かるような気分にはなれなかった。  仕方なく、敷かれた布団の上にゴロンと横になった。これで、隣に若い女の子でもいてくれたらなぁ、と普段の野上なら思うのだが今日の野上は人間としても男としても腑抜けになったようだ。おそらく今日の野上にはどんな美しい女性の誘いよりも、事件の捜査を下りるほうが魅力に感じるだろう。 (このまま、事件からは手を引こう)  野上は、そう固く決意してビールをあおっているとそのまま布団の上で寝てしまった。 そして野上は夢を見た。  野上は暗闇の中独り歩いていた。やけに足が重い。次第に息づかいも荒くなってきた。頭痛もする。  やがて目が慣れてきて、うっすらと回りが見えてきた。雑木林の中だ。道など無く、雑草が腰の高さまできて先は見えない。そこが窪みなのかコブなのか全くわからない。足もとには腐った落ち葉が敷き詰められ、地面は濡れていた。  野上はその落ち葉に足を取られながら前に進んでいく。  全身に痛みが走る。手はベトベトして生暖かい。手のひらを見てみると血だらけになっている。コートもあちらこちらが破け、ボロボロになっていた。  もう歩きたくない。このまま横になりたい。どうなってもかまわない。  たとえ野上がそう思っても、足は勝手に進んでいった。まるで足が野上から独立し、自分の意志をもっているかのように…。  しかし、その時急にさっきまで踏みしめていた地面の感覚がなくなり、ふわっと体が浮いたようになった。がすぐに自分が足を踏み外し崖の下に落ちていったのがわかった。  そこでいったん夢は終わった。  そして、しばらくして再び夢の世界に舞い戻った。  なにか、暖かい光を感じた野上はゆっくりと目を開いた。  朝日ではなかった。湖の水面に反射した月の光だった。野上は崖から落ちたことを思い出し回りを見た。野上は崖っプチで引っかかっていた。片足が湖に浸かっている。  もう体は動かない。 (終わった…)  野上はふと呟いた。本気でそう思った。  その時誰かが野上の体に触れてきた。後ろからやさしく抱きしめられているのがわかった。柔らかい胸と細くて冷たい指を感じた。  女性のようだった。 「誰だ?」  野上はその女性を見ようとした。しかし、体が動かない。 「理恵? 理恵なのか?」  野上は、三ヵ月前にどうすることもできない事情で別れた恋人の名前を呼んだ。 「返事をしろ!」  残る力を振り絞り、野上は叫んだ。その時、 「もういいの、なにも言わないで。本当にもういいの」 とその女性がきえそうな声で呟いた。  理恵ではなかった。  その次の瞬間、野上は起き上がった。  旅館の部屋の中だ。朝日が部屋の中を照らしていた。全身、汗まみれになり、頭痛が野上を襲った。部屋の中にはビールのカンがあちこちに転がっている。  野上は、今まで夢を見ていたことに気がついた。そして、最後に聞こえた声に聞き覚えがあった。  泉小夜香だった。           2  その後、野上は露天で朝風呂に入った。  どうやら飲みすぎだったらしく頭痛が激しかったが、朝風呂と薬で大分楽になった。  ところで昨日、もうこの仕事を下りるといっていた野上だが、昨夜の夢が気になってもう少し調べることにした。  そして、野上は旅館の女将にあいさつをした後、美星町の中心街に向かった。  しかし、中心街と言ってみたものの、実際に行ってみると商店街があるわけでもなし、何か立派なものがある分けでもない。  目を引くところといえば新築中の大きな町役場ぐらいか。パッと見ためは教会と間違えそうなデザインだ。  野上は、とりあえず飲食店に入ろうとしたが、そんな便利なものは見当たらなかった。 田んぼの回りをトコトコ歩いているおばあちゃんを見つけ、声をかけてみたがどうやらこちらの言いたいことは伝わらなかったようだ。飲食店はあるにはあるらしいのだが、おばあちゃんは近くにスーパーがあるので、そこでパンでも買ったらと教えてくれた。  ついでに失踪事件のことも聞いてみたが、おばあちゃんは急に態度を変え、早足で去っていった。  どうやら、見知らぬ人間には教えてくれそうにない。いや、知人でもこんなことは言いたくないだろう。  しかし、とりあえずはスーパーへ行きパンとジュースを買った。  そこでもレジの店員に失踪人のことを聞いてみたがダメ、町役場でもダメ、ガソリンスタンドでもダメ、道を尋ねる振りをして通行人にも聞いてみたがこれもダメで、結局、どこへ行ってもだめだった。  確かにこんな話は誰だってしたくないだろう。  野上が同じ立場だったら、絶対に話したくはない。弁護士として使う法廷の弁論の資料の聞き込みとは勝手が違い過ぎる。  野上は探偵としての自分の能力の無さに絶望を感じながら、同じスーパーで弁当を買って昼食を取った。そして、小林に会うためにいったん矢掛町に戻った。  刑事課に行くと刑事部屋の入り口で小林にばったりと会った。 「どうしたんですか? 野上さん」  小林は少しビックリした表情で聞いてきた。 「ちょっと手伝ってもらいたいことがありまして」 「なんですか?」 「行方不明になった人の家族にちょっと話がうかがいたいんです」 「そんな話を聞いてどうするんです。聞き込みはすでにすんでいますよ」 「ええ。でも、自分の耳で話を聞きたいと思いまして」 「ちょっと待って下さい」  小林は急に小さな声になると、野上の腕をつかみ人通りの少ない廊下へつれていった。「どうしたんですか?」 と野上は不思議そうに聞いたのだがすぐに事情を理解して、 「忙しいのなら別に無理にとは言いませんよ。僕ひとりで大丈夫ですから。住所もわかっていますし」 といった。 「いえ、忙しくはないです。はっきり言ってしまえば暇なんですよ。ちょっとした事情がありまして、コンビを組んでる刑事もいませんから自由に動くことは出来るんです」 「そうなんですか?」 「ええ、ちょっと係長に言い訳をしてきますんで、先に下の駐車場で待っててくれませんか?」 「本当にいいんですか?」 「大丈夫です!」  小林はそう言い切ると小走りで刑事部屋の方に行ってしまった。野上は少しばかりの罪悪感を感じながら署を出た。そしてアバルトの所でタバコを吸いながら待っていると、五分ほどして小林が出てきた。 「お待たせしました」  小林は少しばかり息を切らせながら笑顔をつくっていった。それを見た野上は本当に申し訳ない気持ちで、 「無理を言ってすいません。」 と謝ったが、小林は陽気な顔で、 「気にしない、気にない」 といった。二人はアバルトに乗り込むと、 「さて、手始めにどこに行きますか?」 と小林が聞いてきた。野上はしばらく考えて、 「そうですねぇ。やっぱり、あまり古いのを当たっても問題でしょうし、去年の暮れに起きた二つの殺人を当たりますか」 といった。 「どちらから先に行きます?」 「両方の現場も見たいんで、まずそれから行きますか」 「わかりました。じゃあ、駐車場を右に出て下さい」  野上はアバルトのエンジンを掛けると、ゆっくりと車をスタートさせ、道路に出た。  二人は去年の十二月三日に起きた拉致事件の現場へ向かった。  矢掛署から現場まではそれほど離れていない。車で五分ほど走ったところだ。  二人はその現場に到着すると、車を降りて辺りを見回した。  現場は土手沿いだ。あたりは遮るものもなく見通しがいい。交通量もかなりあり、ここで犯行を行なうにはかなりの勇気がいるはずだ。 「ここの深夜の交通量はどの位ですか?」  野上はタバコに火をつけながら小林に聞いてみた。 「かなり少なくなりますが、全く交通量がないと言うわけでもありません。犯行時間が一分だとすれば、五、六台の車が通ったでしょう」 「それで目撃者がいたわけですか」 「そうです」  野上は道路を見た。全くの一本道だ。直線が一キロ程続いている。  もし、ここを松山が走れば二百キロオーバーは確実だ。彼の覆面車なら、二百四、五十キロくらいまで伸びるだろう。普通の人でもとばせば百キロくらい、スポーツカーに乗っているような若者なら、百五十キロくらいは出すだろうか。  車線は二本で対向だ。脇道はかなりある。倉敷、井原、総社、高梁と、どこへでも抜けることができる。  そして、現場から、一番近い公衆電話まで車で三分というところか。  そこから一一0番をかけ、矢掛署員が動き出すまでに二分。初動捜査の開始に五分。矢掛署管轄内での非常線に十分。県警、倉敷署、総社署などの協力要請から実働までさらに十分。たとえ抜け道があるとは言っても三十分でどこまで逃げることができるだろうか。考えてみれば犯人たちが非常線を突破するのは困難だ。  おそらく、矢掛町を脱出することはできても、そこから先は不可能だろう。  たとえ、盗難車を捨てたとしても、拉致した人間がいるのだから、逃げ切ることは不可能だ。  だとすれば、近くに奴等のアジトがあると考えることができる。  リミットは二十分。周辺地域と言えば、総社市、真備町、金光町、笠岡市、井原市、そして美星、そう、美星町に敵のアジトがあるとすれば、話のつじつまが合う。  被害者を拉致した後、仲間に盗難車を任せ、車を乗り換えて真備とは正反対の美星の方に潜り込めば入り組んだ道の多い中で発見は不可能となる。  犯行に一分、車を捨てるのに五分、そこから美星までとばして十分。ギリギリの線か。 逃走の時間としては不可能ではない。  野上はタバコをくわえたまま、しばらく考え込んだ。 「野上さん、どうしました?」  野上は小林の声で我に返った。 「いえ、どうもしません。次、行きましょうか」  野上はそう言うと車に乗り込み、タバコを吸いがらでいっぱいになっている灰皿にねじ込み、小林が車に乗り込むのを確認してアバルトを発進させた。  次に向かったのは真備町の住宅地だ。矢掛の現場から真備町の現場まではだいたい車で十五分くらいだろうか。  現場の塾のある住宅地は昼間はひっそりとしていた。このあたりは倉敷や総社に近く、そのあたりの企業や工場のベットタウンになっている。  塾は、その住宅地の奥まったところにあった。時間的に昼をちょっとまわった頃なのにあたりにはほとんど人影もない。小林の話ではこのあたりの住宅地は共働きの夫婦が多いという事だが、それにしても静かだ。野上がいろいろとまわった経験では極端に賑やかなところと反対に静かなところがあるのだが、どうやらここは後者の方らしい。  確かにこの状態では目撃者も少ないだろう。ある意味では盲点をついたように見える。しかし、だからといって目撃者がゼロというのも納得がいかない。というより、犯人がここを前もって調べていて、人通りが少ないとわかったとしても、わざわざこんなところを犯行現場に選ぶだろうか。たとえ少ないと言ってもこの住宅地には人が住んでいるのだ。ここは廃墟ではない。こんなところで、しかも白昼堂々と大人の女性を誘拐していく犯人の気持ちが野上には分からなかった。  犯人一味は犯罪に関して言えば素人なのか、それともとんでもない知能犯ですべて計算済みだったのか。もし、計算済みだったとしても、なんのメリットがあるのか野上にはわからない。あと考えれるとすれば、犯人は絶対に捕まらないと言う確信があったという事だ。その理由がなんなのかわからない。  警察に捜索願が出たのが夕方と言っていたのだが、犯人はそのあたりをどう考えていたのか。この通報時間まで予測していたのなら、逃走経路は考えなくてもいいはずだ。しかし、犯罪を計画する場合は必ず最悪の状況を考えるはずだ。となると、最短距離の逃走経路も考慮していた事になる。  たしかに、幹線道路は検問が配置できるとしても、前にも述べたようにこのあたりには普通のサイズの地図には載らないような細い道が張り巡らされている。両方の現場を見る限りでは、このあたりの土地勘のある人間、この小田郡の住人と言い切れる。  しかし、野上はどうも知能犯の犯行とは思えないような気がする。というのもどちらの犯行も穴だらけだからだ。たまたま運が良かったから捕まらなかったものの、あまりにハイリスクな犯行だ。どう考えても用心深い知能犯のすることではない。初動捜査に当たった刑事たちも、おそらくスピード解決を予測したであろう。  しかし、犯人はまだ捕まっていない。それどころか容疑者らしい人間すら浮かんでこないのだ。  この件に関しては、警察の初動捜査のミスと言い切るのは、ちょっとかわいそうな気がする。  野上は一通り周りを見た後、建物の中に入っていった。塾の広さは十五坪位のプレハブだ。この建物自体はテナントだそうだ。個人経営の塾としては標準くらいの広さだろう。生徒も十人くらいだった。部屋の中はすでに空っぽになっていて入り口には入居募集の看板も出ている。入り口は正面に一つだけだ。正面から、犯人たちが入ってきたら逃げ道はなく完全な袋小路だ。  犯人はクロロホルムを使用したらしい。確かにそれを使えば被害者の意識は完全になくなるだろう。しかし、それを使うまでは当然被害者も元気だったわけだ。厳つい男が四、五人、いきなり入ってくれば悲鳴の一つも上げるだろう。たとえ、犯人が新規入会の生徒の親を装ったとしても、犯人の不信な行動に全く予測もできず、悲鳴さえあげることが出来ないまま、奴等の手に落ちるのだろうか。それとも、被害者の悲鳴は回りの住民には聞こえなかったのだろうか。  野上はどうも納得する事が出来なかった。どの角度から見てもこの事件は計画性というものが見えてこない。  表面的には計画的に見える。こういった住宅地の中にある、私塾の女性経営者が狙われたのだ。とても通り魔的犯行とは思えない。常識的に考えれば、怨恨によるものか被害者のことを知っている愉快犯、その中でも限定した言い方をすれば性的変質者という結論に達するはずだ。  一ついえるのは営利的犯罪ではないと言うことだ。これに関しては九分九厘無いといえる。それは、被害者の父は平凡なサラリーマンであり母は専業主婦だからだ。どこをどう叩こうが金目のものは出てきそうにない。それに加えて被害者自身、塾の経営以外に副業を持っていた形跡がないこと、建物のテナント料、生徒数、そして塾料から計算しても、二十代後半のOLの収入の平均をやや下回っている。貯金も三百万ほどで、誘拐殺人を犯してまで得る営利的効果は無いと言い切ってもいい。これだったら、銀行強盗でもやった方が、よほどリスクに見合った効果がある。  野上はふと小林に向かって、 「小林さんは、この二つの事件の初動捜査にはあたられたんですよねぇ?」 と聞いてみた。 「ええ。矢掛の拉致事件に関しては、私はあの日、非番でしたが事件発生の十五分後には現場に到着しましたし、この事件に関しても総社署の要請を受けて署員のほとんどは検問にまわりましたが、私は現場のここに急行しましたから。総社署から十分遅れぐらいで到着しています。現場検証にも立ち会っていますし、最初の聞き込みにもあたりました」 「どんな風に感じました?」 「えっ?」 「第一印象です。事件に関する」  小林は野上の言葉に、なるほどといった表情をして、 「そうですねぇ。どちらの事件に関しても確信犯のような印象はありました。ガイシャに関しても、誰でもいいという風には見えませんでしたし、犯行そのものにしても、盗難車やクロロホルムなどを手に入れていたでしょう。犯人たちははっきりとした目的を持っていたように思いました。明らかに特定の人物を狙った怨恨か営利目的の犯行。これが捜査本部の見方であり私の第一印象でした」 「営利的…、犯行ですか…」  野上はしばらく目をつぶって考えた。  営利という言葉が野上の心に引っかかった。現段階ではどう考えても営利的犯行とは思えない。しかし、野上の今までの経験、大学時代の判例から、実際に弁護士となって三村の下で扱った事件、そして傍聴 した事件などいろいろな裁判を見てきた。普通の弁護士に比べれば、性格や環境のこともあり、はるかに多くの刑事事件を扱い、見てきている。 そういった経験から、直感的に判断する力は付いている。  これは営利的犯行ではないだろうか。野上の頭に浮かんだその考えは、どんどん大きくなり、確信にまで及んだ。営利はなにも金に限ったことではない。物であったり、立場であったり、時には人であったりもする。  一瞬、野上の頭の中でパッとなにかが弾けた。そう、犯人の目的は人だ。しかも、肉体そのものなのだ。 「チャック・モール…」 野上は小林には聞こえないほど小さな声でポツンと呟いた。          3  二人はまず、塾で拉致された内田康子の家に行ってみた。  その間、野上はずっとチャックモールのことを考えていた。その事が頭から離れないのだ。  チャックモールのことは野上も詳しくは知らない。昔、一度だけ誰かに聞いた記憶しか持っていない。  チャックモールとは古代マヤ文明の生贄の儀式のことらしい。なぜ、そんなうる覚えな事を思い出したかというと、それは生きた人間の心臓を皿に乗せ、ピラミッドの神殿の頂上に供えるからだ。  古代メキシコの高度な文明は太陽を信仰の対象にしていた。テオティワカンなどは月や太陽の神殿がつくられた。  実は岡山にも同じ現象がある。古代吉備国の頃から岡山にある史跡というのは34.38度の線上を東西一直線に並んでいる。これは春分、秋分の日の太陽の軌道に沿ってつくられているのだ。もちろん、太陽が信仰の対象だったと考えるのが自然だろう。しかし、太陽が相手で人が殺せるのだろうか。それとも宗教というバックグランドがあればなんでも出来るのだろうか。  確かに今の世の中、水や空気と同じように太陽も、あってあたりまえという考えから軽視されやすい。しかし、最近は異常気象で記録的な冷夏や猛暑、それに大気汚染で空気なども大切さを実感させられている。時代の流れに乗っていると言えばそうともいえる。  神としての対象は、なにも手足のついた人間のようなものである必要はないのだ。  野上はここでいったん自分の考えにブレーキを掛けた。考えがどんどん宗教の方に流れているからだ。  状況証拠もそろっていない現段階で推理を進めていくのは危険だろう。野上は一端そのことを考えるのをやめた。  そして、康子の実家に到着した。  家は古い木造二階建てだ。そこそこ立派ではある。  玄関と家を見れば、そこの家主がわかるというが、この建物の感じからいって、差詰め学校の先生というところか。  しかし、小林に聞いてみると、被害者の父親は町役場の公務員で三年前に定年を迎えたとのことだ。野上の予想は外れたが、堅い職業という点では、あながち的外れというわけでもなさそうだ。  小林がインターホンを押すと、初老の女性が出てきた。細身の上品そうな女性だ。その女性に対し小林は、警察手帳を見せた。 「矢掛署刑事課の小林です。こちら、三村法律事務所の野上さん」  小林の後ろで、野上が軽く会釈した。 「あのぅ、どうして弁護士さんが?」  女性の言葉に、小林が何かを言おうとしたが、野上が、 「実は、一連の事件の事なんですけれども、少しお話をお伺いしたいんです」 「しかし…」  当然のことだがいちばん触れられたくない部分だろう。一瞬、女性の表情が変わった。しかし、必死に平静を装うとしているようで、まだ、少し堅いが、また穏和な表情に戻った。 「確かに言いたいことはわかります。これは刑事事件です。そう言った意味では、私たちは犯人を弁護する立場にあります。しかし、現実には少し違います。我々も、美星町の失踪事件で家族から相談を受けています。そう言った事情で、僕がこうやって動いているわけです。我々は美星町住人の失踪事件と、鬼ヶ嶽ダムの死体遺棄は、同一犯であると思っています」  この言葉には、小林も驚いていた。野上自身も、まだそこまで考えているわけでなく、単なるハッタリだ。 「我々には検察や警察を動かす力は持っていません。しかし、弁護士会を中心に被害者の会を作り、独自に捜査をすれば、状況は変わってきます。今、そのための調査をやっています」  もちろんこれもハッタリだが、野上の手に負えない事件なら、三村を通して弁護士会に働きかけることもできる。 「しかし、警察に全部お話ししました。もう、何もお話しすることはありません」 「そうでしょうが、どうかもう一度だけ、お話を聞かして下さい」 「はあ」  女性は力無く答えて、家の中に案内してくれた。  三人は応接間のソファーに座ると、 「さっそくですが、当時のことをもう一度詳しく教えて下さい」 と野上がいった。女性はしばらく考えると、思い出すようにしゃべり始めた。 「去年の十二月六日のことでいた。あの日の昼過ぎ、娘 は出ていきまいた。でも、夕方頃に生徒の親御さんから電話がありました。塾は開いているが先生がいないけど、今日は休みなのかと。私も不思議に思いまして、塾に電話をかけてみましたが、誰も出ません。私は、急いで塾へ行きましたが、鍵もかかっていませんでしたし、電気や暖房も付けっぱなしで、コピーも途中のままでした。どこかに出かけているのかと思いまして、しばらく教室で待っていましたが、夜の七時を過ぎて戻ってきませんでした。それで、ただ事でもないということで、一一〇番通報しました」 「あなたが教室に入ってから、ほかに誰かを教室に入れましたか?」 「いえ、誰も」 「現場保存は、ほとんど完璧だったわけか…」  小林が頷いてる。 「教室は荒らされていなかったんですか?」 「ええ、まったく」  普通に考えれば、顔見知りの犯行といえる。しかし、被害者はサービス業の人間だ。 「普段は、何時頃の出勤ですか?」 「四時過ぎです。その日は生徒のために使う、問題集を作るとかいって、いつもより早く出ていきまいた」  すでに警察と食い違いが起きている。小林が教えてくれなかったのか、それとも調べていなかったのか。  しかし、これで、被害者が、犯人に呼び出された可能性が高くなったわけだ。 この証言を聞けば、顔見知りの犯行、しかも、計画的と断言してもいい。 「事件の流れからは怨恨と考えるのが自然ですが、なにか心当たりは?」 「いえ、なにも。ただ…」 「ただ、何ですか?」 「鬼がですね…」  女性はそういうと、そのまま口ごもってしまった。  野上と小林は顔を見合わせると、 「鬼の伝説…」 と呟いた。 「あのねぇ、奥さん。そんなこと、あるわけないでしょう」  小林は女性に言い聞かせるように言ったが、野上はそれを制止して、 「鬼というのは、鬼の人さらいの伝説のことですか?」 と聞いた。 「ええ」  鬼の人さらいが、現実にあるとは思えない。野上はまた、チャックモールのことを思い出した。チャックモールは古代マヤ文明だ。だが、ここは日本なのだ。  日本でそんなことがあるわけが…、あった。そう、この日本には生贄の話など、吐いて捨てるほどあるのだ。  いちばん有名なのは出雲のヤマタの大蛇だろう。そうでなくとも、生贄話など日本中にある話だ。  しかし、顔見知りの女性を生贄に選ぶだろうか。  野上はため息を付いた。そして、 「申し訳ありませんが、康子さんの遺品などを見せてもらえませんか」 と聞いた。 「ええ、かまいませんが…。二階の娘 の部屋に置いてます」  女性はそう言うと、野上、小林の二人を二階に案内してくれた。  内田康子の部屋は、年齢的なこともあり、質素でこぎれいに整理されていた。どうやら彼女の死後、部屋はそのままにされているようだ。 「塾にあった物はどこに?」 「押入の中です。ちょっと待って下さい」  女性は、押入を開けると、問題集や教科書などを取り出し始めた。  小林はそれを見て、 「野上さん、鑑識ですでに調査は済んでますよ」 と不満そうに小声で言った。 「わかっています。新しい物なんて、見つけようとは思ってません。ただ、自分なりに見ておきたいだけです」 「そうなんですか?」  そんな事を話していると、押入の中からは次々と、書類などが出てきた。  野上は話を中断すると、座り込んで、ごそごそと書類を見始めた。  それから、どれくらいたっただろうか、野上は一冊のノートを見つけた。それには、新規生徒の問い合わせが書かれていた。住所、電話番号、親と子供の名前、学校、年齢、電話のあった時間、面会の日時など細かく書かれている。  野上はそれを一通り、めくってみた。最後の日付は十一月の二十九日になっている。  野上は、もう一度そのノートを見た。そのノートを見る限り、三日に一回くらいの割合で問い合わせが入っている。  それが、最後の問い合わせから拉致されるまでに八日も空いているのだ。そういったこともあるだろうと野上は思ってノートを閉じようとしたが、手を止めた。  ノートの最後のページにある物を発見した。それは紙を破った後だ。しかも丁寧に破っているためにほとんど痕跡は残っていない。  野上は小林にそれを見せた。 「野上さん…」  小林の顔が緊張してきた。 「計画的ではあるにしても、顔見知りの犯行ではないですね。おそらく犯人は、新規生徒の親と見せかけ、塾に電話を入れたのでしょう。そして十二月六日、昼過ぎに面会と称して、康子さんを呼びだしたのでしょう。その後、ノートの自分の名前のページを破って、隠蔽したんだと思います」  野上の言葉に小林は、 「じゃあ、そのページを見つければ、犯人の身元も判明しますね」 と興奮し気味にいった。 「考えが甘いですよ。犯人は当然、紙を捨てているだろうし、何よりも、名前や住所は偽名に決まってるでしょ」 「確かに…。しかし、最初から偽名を使えば隠蔽の必要もないのでは?」 「小林さん、警察はこのノートに載っている人の身元を確認しているでしょ」 「ええ」 「もし、偽名を載せたままにしていれば、顔見知りの犯行ではないと証明してしまうでしょ。顔見知りなら、そんな事をする必要もないし、たとえしてたとしても、相手にわかってしまいますよ。これは明らかに、捜査の撹乱を狙った物です」  小林は野上の顔を見ると、 「野上さん、これはとんだ拾い物ですよ。大変なことですよ」 と興奮しながらいった。 「そうですね。警察は根本から捜査を見直さなければなりませんね」  野上がため息を付きながらいうと、小林は立ち上がり、 「後の事はお願いします。私は署に戻って報告して来ますんで。奥さん、このノートはおかりしますよ」 といって部屋を出ていった。 女性と野上は唖然と小林の立ち去った入り口を見ていた。          4  野上は小林と別れた後、再び鬼ヶ嶽ダムに戻った。  内田康子の家に行った後、松田一郎の家に行く予定だったが、小林がいないので行くのはやめたのだ。相手に、いろいろと勘ぐられるのはごめんだ。  さて、鬼ヶ嶽だが、昨日の夜見たのとは違って、昼間に見るとずいぶん小さいダムだとわかった。  ダムの堤防も発電などの大規模なものではなく、本当に小さな川をせき止めただけの、単なる堤防だ。しかし、そこにたまっている水はやはり池というよりは湖と言える大きなものだった。  あちらこちらに桜が咲き、春らしい薄い緑の山が連なり深い渓谷を造っている。  そして、眼下に広がる美しい湖。  野上は昨日と同じところに車を止め、同じところから湖を見下ろした。  そこは不思議なくらい静かだった。それは、昨夜の冷たく不気味な静けさではなく、春の日ざしに包まれ、太陽の温もりを感じるやさしい静けさだった。  湖畔の上ではとんびが低空飛行をし、どこからともなく鳥のさえずりが聞こえてきた。 野上はタバコに火をつけ、しばらく昨日の夢に現れた女性のことを考えていた。  あの声は、確かに野上のところに現れた小夜香と名乗る女性のものだった。  もういい。  この言葉はいったい何なのだろうか。  一瞬、夢枕を頭に思い浮かべたが、すぐにそんなことはないと否定した。おそらくこれは、潜在意識なのだろう。捜査をやめたいと思っている自分の心の奥底に、続けなければならないという気持ちがあったのではないか。  女性にもういいからやめろと言われれば、逆にムキになるような性格だし、続けなければという気持ちがなければここにはいない。  野上はタバコを捨てると堤防まで下りる石畳の階段を見つけた。  下まで下りてみようかとも思ったが、野上のいる位置から下までは三十メーター位ありそうだ。さすがに、この階段を往復する元気は野上には残っていない。  それよりも、野上は階段の反対にある雑木林が気になった。  昨夜の夢のことがあるから気になるのだろう。しかし、その夢の結末は崖から落ちて死にそうになるのだ。いくら雑木林が気になるからといって、中に入ってみようとは思わなかった。それに、警察が調べ尽くしているのだし、なにも出てくるはずがない。  しかし、少しくらいなら覗いてやってもいいかなと思い、雑木林の中を覗いてみた。  獣道 がある。  野上はこのまま行くべきなのか、それとも戻るべきなのか考える暇もなく、面白いゲームをやり始め、止めるに止められなくなった好奇心旺盛な少年のように獣道の中を歩いていった。  雑木林の中は暗かった。空は木々に覆われほとんど光が入ってこない。地面も湿っていて湿度も高くムシムシする。全身汗びっしょりになっていった。  雑草も腰の高さまできている。道があるといっても草むらの中に一本の線があるだけだし、足もとには何があるか分からない。  それでも野上は、進んでいった。  まるで昨日の夢を再現するかのように。  気がつけば、野上は三十分以上、雑木林をさまよっていたのである。  しかし、それもここで終わりだ。獣道は完全に姿を消していた。  野上はしばらく前方を眺めた。よくよく考えればすごい無駄なことをしていた。何かあるという根拠もないのに無闇やたらと雑木林の中を歩いているのだ。  野上は自分の行動が、情けないを通り越し、滑稽に思えてきた。結局、野上はあきらめたようにUターンした。その時野上の脳裏に、小夜香の顔がよぎった。  そして、何とも言い難い気分になり再び先に進み始めた。 (何が悲しくて、こんな事をしなきゃいけないんだよ) と心のなかで叫びながら、野上は前へ前へと進んでいった。獣道もなく、足もとは全くわからない。どんどん足場も悪くなっていく。  上ったり、下ったり、滑ったり、コケたり、つまづいたり、肩で息をしながらひたすら前へ進んでいく。  こんなことならコンパスでも持ってくるべきだったと後悔した。今の野上に、元の場所に戻る自信はない。樹海とかならわかるが、こんなところで遭難したらカッコつかないだろう。そんなことを考えているうちに、車を捨ててから既に二時間が経っていた。  そろそろ限界だろうと思ったその時、突然今までのブッシュがなくなり、小さな広場に出た。何やら人工的に造られたものらしい。木は切り取られ、雑草もきれいに刈られて いた。  野上はしばらく回りを見渡し、思いついたかのようにタバコに火をつけた。  まずは一服、それをしなければなにも始まらない。ブッシュのなかでタバコを吸って、万が一山火事にでもなったら洒落にもならない。その点ここは、きれいに整理されているので気にしなくてもよい。  野上は、座れそうな切り株を捜し、そこに座って、ホープの味を堪能した。  そして、タバコの火を消すと立ち上がってどうしようかと考えた。その時、雑木林の向こうになにかあるのに気付いた。野上はそれが気になり、そちらの方に行ってみた。なにやら、建物のようだ。見た感じでは古い木造の民家のように見える。しかし、こんな山奥に何で建物が建っているのだろう。野上は不思議に思い正面にまわってみた。 建物の傷み方からいえば空き家のような気もする。家の回りには鬱蒼と木が茂って、まるで幽霊でも出てきそうだ。瓦は割れているし、屋根の地肌が出ているところもある。壁板はあちらこちら割れているし、硝子が破れているところもある。庭も荒れ放題になっている。 (人、住んでるのかな?)                             野上はそんな事を考えながら玄関に手を当て開こうとした。その時、いきなり玄関が勝手に開いた。 「うわぁ!」 と悲鳴を上げたのは野上の方だった。  玄関から出てきたのは身長百四十センチくらいの小柄な老婆だったのだ。  しわくちゃな顔の奥、細い目の中から鋭い眼光が野上を睨んでいる。 「なんじゃ!?」 と老婆は鋭い口調で野上に聞いてきた。  野上は心臓をバクバクさせながら、 「すいません、ちょっと道に迷ってしまいまして」 と言い訳がましくいった。 「なにをいっとんじゃ。こんなとこに迷い込んでくるわけ無いじゃろうが」 「はぁ、確かに」 「あんた、なにもんじゃ」 「いや、単なる通りがかりの者ですよ」  老婆はますます鋭い目つきになると、 「フン!」 といって家の中に入ろうとした。 「あっ、おばあさん。こんな山奥に一人で暮らしているのですか?」  野上の質問に老婆は振り向きもせず、 「それは、田舎者に対する偏見か?」 といった。 「いや、そうじゃありませんよ。僕はここに来るまでに二時間も山の中を歩いてきたんですよ。だからこんな所だと、山を下りるだけでも大変だろうなぁと…」 「よく回りを見るんじゃな」  老婆はそういうと玄関を勢いよく閉めてしまった。 「あっ…」  完全に取り残された野上はしばらく呆然としていた。  こんな山奥にたった一人、老婆が住んでいるとは、ますます怪しい。  野上は、老婆のことが気になったが、とにかくここから出ることを考えなければならない。  そう思い、振り返った。  木々の隙間から見慣れた物が…。  野上は、それがなんなのか確認すると、どっと疲れが出た。  それはアスファルトの道路だったのだ。  野上は再び立ち上がり、重い体を引きずりながら道路へ降りてみた。  道路の向こうに見えるのはコンクリートの固まりとでっかい湖。そう、ここは鬼ヶ嶽ダムの前なのだ。  なんと野上は、山の中をぐるっと一周して同じ場所に戻ってきたのである。あの家も老婆も、なんら怪しいことはなかったのだ。怪しいのはむしろ野上の方だったのかもしれない。  回りはすでに薄暗くなっていた。野上は、もうなにもする気が起きない。タバコに火をつけ、ゆっくりと車に乗りこんだ。しかし、半日近く山の中をさまよってなにも成果を得ることがないという失敗を犯したのに、さらに災難は野上を見放してはくれない。鬼ヶ嶽温泉に帰る途中、野上は、泉親子が無理心中した現場を見つけてしまったのだ。  野上は、通りすぎようとしたのだが、頭の中に小夜香の顔が浮かんだ。そして、道端に車を止め、野上は崖沿いに立った。  この位置から、下のダムまではかなりの高さがある。おそらく、三十メーターから四十メーター位はあるだろうか。確かに、ここから車で落ちればひとたまりもない。  驚いたことに、崖に沿った木々の中に何本か道がある。  どうやら、事故の捜査の時に出来た道がいまだに残っているのだろう。  野上は、ガードレールを跨り、その道をちょっと下ってみた。  そのうち、嫌だ嫌だと思いながらどんどんと道を下っていき、気がついたらかなり下まで下りていた。  しかし、昨日の夢が頭を巡りいったん足を止めた。このまま夢の通り崖下に落ちれば、小夜香に会えるかもしれない。  しかし、このまま戻れば、崖から落ちることもなく怪我をすることもない。さっきだって、なんの成果もなかったのだ。夢とは何等関係無いかもしれない。このまま、下に下りても何もないかもしれないし、崖から落ちることもないかもしれない。  回りは、すっかり暗くなって、うっすらと回りが見える程度だ。野上は、このまま、下に下りていくのは危険だと判断し、今日は一旦戻ることにして、再び来た道を戻ろうとした。  その瞬間、足場にしていた石が崩れ、野上は滑るように崖下へ落ちていった。           5  野上はふっと、自分が何をしているのかと思った。自分はどこにいるのか、そして、自分は何者なのかしばらく考えていた。  そして、ゆっくりとそれを思い出していくうちに、自分が崖から落ちたということに気づいた。 (僕は生きているんだろうか。それとも、もう死んだんだろうか…)  体の感覚は全く無い。自分がどんな状態なのか、あれからどの位経ったのかももわからなかった。  閉じた目を開けたとき、いったい何が見えるのか不安だった。もし、自分が死んでいたらどうなるだろう。  十代の頃、どうしようもない悪をやっていた。それを助けてくれたのが三村弁護士だ。 そして、実の母のようにかわいがってくれた三村の妻。  もし、野上が死んだとわかったら、二人は悲しんでくれるだろうか。いや、二人とも怒るだろう。なんて馬鹿な事をしたんだと。  二人だけではない。松山も、美希も、そして、今まで出会ってきたすべての人が怒るだろう。  そして、早くに死んでしまった生みの母親はあの世でなんていうだろう。まだ一度も見たことの無い父はいったいなんて…。  野上はゆっくりと目を開けてみた。  目の前は真っ黒だった。なにも見えない。  しかし、体が鼓動しているのがはっきりとわかった。その鼓動がゆっくりとスピードを上げていった。どうやら、死に損ないが最後の力を振り絞って意識を回復させたのではなく、ゆっくりと、血が回り始め回復に向かっているようだ。  そのうちに、全身が痛み出した。はっきりと生きている事を実感した。  視力も徐々に戻りだし、回りが見え始めた。  目の前の風景は昨日の夢と全く同じだ。  湖の一歩手前で止まっている。コートが木に引っかかっていたのだ。目の前で、ゆらゆらと緩い波を立てた水面が薄い光を放っていた。  感覚もほぼ戻り、指先や足の先まで感覚が戻っている。  野上は、ゆっくりと指を動かせてみた。思い通り動いている。それを確認して、上半身を起こした。そして、足もとを触り骨折箇所がないか調べ、最後に腰を浮かせ立てるかどうか確認した。どうやら腰、骨とも以上がないようだ。  野上は、体をくるっと回し、うつ伏せになって立ち上がった。体中痛みはするが歩けないほどではない。服はボロボロになっている。  どうやら、昨日の夢は正夢だったということだ。  野上はうつむいて、惨めな自分の格好を眺めたが、ふと自分の足もとの落ち葉の中にある、白い物を見つけた。  気になった野上は血まみれの手で落ち葉を払いどけてみた。  骨だ。大きさからいっても人骨に間違い無い。野上は無表情のまま、辺りの落ち葉を全部払い除けた。  ほぼ完全な形で全身の骨が現れた。服もそのままだ。汚れてしまって色すらわからない状態だった。  骨のほうも完全な白骨死体ではなく、頭蓋骨の中や、ほかの骨の回りに腐った肉が残っているし、間接部分などは、まだつながった部分もある。  頭部には大きな穴が開いていて、手や足なども折れている。おそらく即死だろう。  小夜香なのか、それとも母美知子なのかはわからない。しかし、どちらかであることは間違いないようだ。昨夜の夢が正夢だったとすれば小夜香の可能性が高い。  小夜香は生きているような気がするのだが…。やはり、この遺体を見てしまうと最悪の状況を考えてしまう。こんな現実は見たくもない。それでも野上は、興奮し、おびえる自分を見ている、冷静なもう一人の自分を見つけた。これから何をすればいいのか、冷静に頭のなかで考えていた。  まずはここから出なければならない。そして、警察に伝えなければならない。  野上は白骨死体に手を合わせると落ちてきた崖を上り始めた。  しかし、その壁を登っていくと、よくこれで生きていたなぁと改めて感心した。  普通だったら即死だろうし、運がよくてもそのまま動けずに死んでいくだろう。  自分の悪運の強さをあらためて実感することができた。  上の道路まで上りきった野上は、その場所のガードレールに自分の手についた血で目印をつけ、急いで車の所まで行き、乗りこもうとした。しかし、ポケットの中に鍵はなかった。  野上はしばらく、ポケットの中を捜していたのだが、いくら捜しても出てくることはなかった。どうやら、崖から落ちたときに鍵を落としたらしい。仕方なく、落とさずに無事ポケットの中にとどまっていた、タバコを取り出し、火をつけた。  手はカタカタ震え、タバコのフィルターに血が染みこんでいく。  野上は車を捨ると、鬼ヶ嶽温泉に向かって歩き出した。  こんな時に限って、車は一台も通ってくれない。ヒッチハイクをしようにも出来ないのだ。  一歩一歩、歩くごとに体がきしむように痛い。落ちたときには感じなかったが、左腕が肩から動かない。やはり、骨折しているのだろうか。右手の指も動かないし、左足首にも激痛が走る。野上は肩で息をしながら、一時間後に温泉に到着した。  玄関を入り、力一杯大声で、 「ごめんくださーい」 と叫んだつもりなのだが、腹に力が入らず大声にはならなかった。  しかし、おかみさんにはわかってもらえたようで、 「はーい」 と言いながら奥から出てきた。  そして、野上の姿を見た瞬間悲鳴を上げ、 「どうしたんですか!?」 と聞いてきた。 「そんなことはどうでもいいですよ。とにかく電話を貸し手ください」 「全然よくないですよ。とにかく上に上がってください。手当てをしますから」 「緊急なんです。とにかく電話を」  おかみさんは、不安そうな表情をしながらも、仕方なくコードレスホンを持ってきた。 野上はそれを手に取ると矢掛警察署の刑事課直通のダイヤルで電話をした。  電話はすぐに出た。 『はい、刑事課』 「僕は三村法律事務所の野上経義というものですけれど、あなたは?」 『私は、一係係長ですが、なんでしょう?」 「僕は、そちらの小林刑事にお世話になっているものですけれども、鬼ヶ嶽ダムで白骨化した人の死体を見つけました」 『それは本当ですか?』 「ええ。とにかく、場所を案内しますんで鬼ヶ嶽温泉まで来てもらえませんか?」 『わかりました。すぐ向かいます』 「それと、小林さんによろしく伝えといてください」 『わかりました』  そういって電話は切れた。  野上は一安心して、おかみさんに電話を手渡すと、そのままその場に倒れてしまった。       第四章 運命の糸           1  小林刑事以下、矢掛署署員が鬼ヶ嶽温泉に到着したとき、野上は完全に意識を失っていた。仕方がなく救急車を呼び、総社市内の外科病院に収容されたのだ。  その後、警察は鬼ヶ嶽ダムの無理心中の現場に向かった。そこで野上の車とガードレールについた血を発見したので周辺いったいを山狩りしてその日のうちに死体を発見した。 深夜、山狩りは普通行われないのだが場所がはっきりしているということでその日のうちに行われたのだ。  発見された後は、泉真佐美に連絡を取り、遺留品の確認を取るよう打合せをした。  遺体のほうは、白骨化していて確認を取るのは不可能なので、検死した後、そのまま茶毘に付される事になった。  真佐美は、午前一時過にパトカーに乗せられ矢掛署についた。  実際に事故が二年前だったということもあり、署に来るまでは平静だった真佐美も現実に遺留品を目の当たりにすると、顔色が変わった。 「母の物です」  真佐美は一言いうと、逃げるように部屋を出た。遺体は、警察のほうで管理されているために、まだ会うことはもちろん線香を上げることすら出来ない。  真佐美は、廊下の長椅子に座り込むと、そのうち大粒の涙があふれだし、泣き崩れてしまった。物心のついた頃からの母の思い出が頭を巡り、そして全く同じ時期に死んでいった父、姉小夜香のことが次々に思い出された。  その時、真佐美はまだ世間知らずの女子高生だった。それが、たった五日たらずの間に家族全員が突然、自分の前から姿を消してしまったのだ。二年前は、悲しいというよりも回りの変化があまりにも急激すぎて、ショックや動揺などのほうが大きかった。  葬式や、警察、マスコミなどへの対応、今後の生活に対する不安、家族に裏切られた失望感など、泣いている余裕はなかったのだ。  その後、真佐美は高校を卒業するまで祖母の家で面倒を見てもらうことになる。  その祖母は美星町に住んでいる。明日には二人で母の遺体が安置されている岡山大学医学部付属病院に行くことになっている。  あの事件以来、気を張って生きていた真佐美も、この二年間で精神的にも経済的にも安定してきた。その結果、やっと母親の死を実感し、素直に泣くことができたのだ。  泣くだけ泣いた真佐美は、結局朝まで放心状態だった。  一方、美知子の遺体は翌朝から岡大医学部で司法解剖が行われた。解剖といっても、白骨化しているのだから切ったり開いたりするところはないのだが、残っていた肉片などから、死後一年以上たっていること、断定はできないが、骨盤の形状などから女性である可能性が強いということ、血液型はB型で美知子のものと一致し、わずかに可能性として残されていた、この遺体が小夜香のものではないかという疑問も、小夜香のA型とは一致せず、可能性は消えた。  最終的には、歯の治療の痕があり、後日美知子と断定されることになった。  死因は、頭蓋骨の損傷が激しいため、脳座礁による即死、もしくはそれに近いものだったと予測される。その外にも、骨折の後が数箇所あり、事故の激しさを物語っていた。  同じ頃、警察は矢掛署総動員で、美知子の遺体が発見された現場を捜査し直した。  もちろん、小夜香を捜すためだ。  二年前に捜査をしたとき、二人の遺体を発見できなかったということは、まだ、調べていないところがあるということだ。  現に美知子の遺体が発見された場所は、事故現場からはかなりはずれている。  遺体が発見された今となっては、確かに車から投げ出されたと考えれば、発見現場の位置もなるほどと思えるのだが、当時として考えられない場所にあったのである。  調べ直す必要が当然出てきたということだ。  結局、署員は日没まで捜査を行っていた。  そんな中、一人だけ別行動をとっていた刑事がいた。小林だ。  小林は野上が入院している病院にいたのだ。  彼は野上が病院にかつぎ込まれるとすぐに岡署の松山に連絡を取った。松山は、そのことを三村には伝えずに、深夜一人で病院にやってきたのだ。  野上に致命傷になるような怪我はなかった。  旅館で倒れたのも、単なる貧血と診断された。しかし、全身に怪我を負っており入院の必要はないもののしばらくの安静が必要だった。  何しろ、左鎖骨にヒビ、左腕脱臼、右手親指ならびに小指骨折、肋骨三本にヒビ、左足首捻挫、頭部に五針、左腕十五針、左太股二十針の怪我、そして全身いたるところに打ち身と、松山と小林が医者に怪我の説明を受けたときには、よくダムから旅館まで歩いて帰ってきたものだとあきれ返ってしまった。  その二人は、病院のロビーで夜を明かすことにした。  松山がじっとガラスの向こうに見える暗闇を見つめていると小林がカップのホットコーヒーを買ってきて、その一つを松山に渡し隣に座った。  松山が会釈をしてそれを受け取ると小林が、 「大変なことになりましたなぁ」 と暗い表情でいった。 「まったくです。二年前の事故の被害者が今になって出てきたのですから。それに、去年の死体遺棄でマスコミも敏感になっています。 警察はともかくとして、マスコミや世論が、あれを事故として割り切るかどうか…」 「いえ、それもそうですが私が言っているのは野上さんのほうですよ」 「ああ」  松山は納得した表情をして、 「奴は大丈夫です。悪運の固まりのような人間ですから」 というと、小林の表情が少し緩んだ。 「確かにそうですなぁ。二年前の事故の被害者を見つけてしまったんだから、これも悪運の成せる技でしょうか」 「それだけですめば、悪運でかたずける事もできますが…」  松山がそういうと、コーヒーを飲み干し、そのまま黙りこんでしまった。           2  野上が再び目を覚ますと、ベットの上に横たわっていた。  左腕には点滴がさされている。  自分が何でここにいるのか今一つわかっていない。つづけて一時的な記憶喪失になる機会に恵まれたが、まさか自分がこういったことになるとは思わなかった。  しかし、憶えているところから順番に、糸を手繰り寄せるように思い出していくと、記憶はよみがえってきた。  しかし、旅館で警察に連絡した後のことは全く憶えていない。気がついたら、既にここにいたのだ。 (ここは、病院かな?)  野上は部屋の中を眺めながら、ふと思った。  どうやら、どこかでダウンしてしまったようだ。  点滴の先にある自分の手を眺めると、包帯が巻かれていた。右手を動かしてみると、動くので顔に手を当ててみた。  ガーゼが顔に貼ってある。頭には包帯も巻いてあった。顔中傷だらけなのだろう。  今、何時なのか気になった。  窓からは日が射しこんでいる。  それよりも、警察はどうしたのか、あの死体は誰だったのかが頭を巡ってきた。  だんだんと、それが頭のなかで大きく膨らんできて、いてもたってもいられなくなってきた。  野上は、ナースコールのボタンを押すとすぐに看護婦がやってきた。 「野上さん、気付かれたんですね」  看護婦が嬉しそうにしている。三十歳過ぎくらいだろうか、年期が入っていた。 「昨日の晩、ここに運び込まれてから、ずっと意識が無かったんですよ」  野上は微笑を浮かべ、 「今日は何日ですか?」 と聞いた。 「四月十二日です」 崖から落ちて一日しかたっていないようだ。 「時間は?」 「朝の十時ですけど」 「退院できますか?」 「ええ、身内の方が手続きを済ませましたから、すぐにでも退院できますよ。でも意識が回復したばっかりですから少し休んだ方がいいとは思いますけどね」 「身内?」 「ええ、呼んできますからちょっと待っていてください」  そういい残すと看護婦は部屋を出ていった。しばらくすると、松山と小林の二人が入ってきた。 「おー、帰ってきた、帰ってきた」 と小林がニコニコしながら野上に意味不明なことを言った。 「どうです? 三途の川はありましたか?」  その言葉で野上は少しムッとして、 「別に臨死体験はしてませんよ」 と言い返した。 「しかし、タフですなぁ。よくあのケガで、崖は登るわ、歩いて帰ってくるわで、野上さん、あんた人間じゃありませんよ」 「ほっといてください」 と言った後で、野上は思い出したように、 「ところで、警察はどうなったんですか?」 と聞いた。すると松山が、いつものようなクールな表情で、 「死体は昨夜のうちに発見された」 と答えた。 「誰なのかわかったのか」 「ああ、遺留品と血液型から判断して、美知子と断定して間違いない」 「小夜香は?」  野上の言葉に、松山は首を横に振った。 「小夜香の生死は確認されていない。今、山狩りを再開しているが、おそらく小夜香の死体は発見されないだろう」  野上は複雑な表情になった。あの夢に出てきた女性の声は小夜香に間違えなかった。だから、野上もあの死体が小夜香のものだとほとんど確信していた。  しかし、それは小夜香ではなかった。  その事実が野上をほっとさせた反面、逆に母親の死がはっきりしたということで真佐美がどうするのか。  真佐美のことを考えると素直に喜ぶことはできなかった。 「当時の事故記録なんですけど、車の状況はどうだったんですか?」 「いや、よく憶えていませんなぁ」 と小林は困った表情をした。  野上は、一昨日矢掛署で見せてもらった資料の中に無理心中のくわしい資料がなかったのを思い出したのだ。  もしかしたら、本当に小夜香は生きているのかもしれない。美知子が発見された場所は車が落ちた場所からは、かなりはなれていた。  それは、あんなトラブルにあった野上でもわかる。あの崖はあまりに斜面が急だったために、道はまっすぐ下に下りてはいない。  列車のスイッチバックのように右に左に往復しながら少しずつ下りていくようになっていたのだ。  そう考えると、美知子は車から投げ出されたことになる。小夜香はどうだろう。  彼女は死ぬ気があったのだろうか?  もしかしたら、美知子の一存ではなかったのか。  こう考えたらどうだろう。  泉家で火事があったあの日、夫婦間でけんかが起こり、なんらかの形で父孝幸を死なせてしまった。理性を失っていた美知子はそのまま家に火をつけた。  たまたま、そこに居合わせていた小夜香はとっさの判断で美知子を連れ外に出て、動揺する母に車を運転させそこを離れた。  そして、転々としていた二人は四日後、美星町の鬼ヶ嶽を通りかかる。  しかしそこで、落ち着いていたはずの美知子が突然車のスピードを上げた。  そこは、道が曲がりくねっていて、非常に危険な場所だ。美知子は自分の体に付けていたシートベルトを外し、そのままカーブをまっすぐ突っ切った。  そう考えれば話の筋は通る。  現代の車はよくできている。車体の前後にはクラッシュブルゾーンなるものが存在し、衝突時、その部分が潰れることによってショックを吸収する。そしてスペースフレーム、すなわちコクピットを頑丈に作り、人のいる空間を保持し、車体に挟まれることの無いようにできているのだ。  シートベルト着用とエアバックシステムの両立により、かなりの確立で死亡事故を防げるというのは、こういったことがあるのだ。  野上も昔、松山の事故で谷底に落ちたことが何度もある。松山は中学校時代から無免許で車を運転していた。確かに速かったものの、いかんせん経験不足だったために何度もそういった目にあったのだ。  しかし、シートベルトを着用していたために大きな怪我をした憶えはない。  だが、普通に考えたら、そんな事故を何度も起こして生きているわけはない。  実は松山が走っていた場所には、あるもう一つの要因があった。それは無理心中のあった場所にも共通している。  それは何かと言うと、崖の形状である。松山が走っていた場所も、鬼ヶ嶽も確かに急な場所なのだが、そこは岩がむき出しになっているはげ山ではない。  木が鬱蒼と生え、ブッシュなどで覆われている。  これが、クッションの役目をしているのだ。だから、たとえ横転したとしても、岩やコンクリートにたたき付けられるよりはボディーの損傷は少ないはずだ。もし、メインフレームの人のいるスペースを確保していて、小夜香がシートベルトをし、なおかつ、彼女が気を失っていなければ、助かっている可能性がある。現に、車が発見されたとき小夜香の死体はなかったのだ。そこから考えられるのは二つ、小夜香が自分の意志で車を脱出しているか、車から投げ出されたのかのどちらかなのだ。  小夜香は生きている。野上はそう思い始めた。  そして小林に、 「車の写真、見せてくれませんか?」 といった。 「ええ、それはいいですけど…」 「だったら、すぐに署に戻りましょう」 と野上がいった瞬間、松山がベットの足を蹴飛ばし一言、 「帰るぞ」 といって部屋を出ていった。  野上と小林は、互いに顔を見合わせ、ため息をついた。 「あっ、そういえば」 と小林が紙袋を取り出した。 「松山刑事からで、野上さんの服が入っています」  小林は、紙袋から服を取り出しながら松山が出ていった入口を見た。 「心配してましたよ、彼」  それを聞いた野上は苦笑した。  野上と松山の関係は本当に古い。なにしろ、二人の母親が仲がよかったことから、二人は生まれた当時から同じベットで寝ていたことがしばしばあった。  しかも、二人が生まれたのは一週間も違わない。とはいえ、いつもはクールで冷たい人間に見えるのだが、マメというか、気を使いすぎというか、見た目とは全然違う。 「とにかく、今日は家に戻りましょう。それでゆっくりと休養を取ってまた仕切り直せばいいじゃないですか」  野上は、小林の言葉に対し、言い返そうとしたが止めた。このままにしておけば、また人が死ぬかもしれない。ゆっくりしている暇はないのだ。  しかし、みんなの制止を振り切って捜査を続ける元気は、野上には残っていなかった。「一つだけ聞きたいことがあります」  野上は、小林の顔をじっと見た。 「なんでしょう」 「県警も含めて警察は、本気でこの事件を解決しようとしているのですか?」  小林は言葉を失った。  その小林の表情を見た野上は、一つの決断を下した。  警察には頼らず、自分の力で事件を解決することを。           3  野上はその後、すぐに退院をした。  野上の愛車、アバルト695SSはキーがないため三村家までレッカーで輸送してくれるそうだ。野上はというと、松山が乗ってきた覆面車、スカイラインGT−Rに便乗して家まで送ってもらうことにした。  二人は車のなかでずっと無言だったが、岡山市街地の地裁の前を通りかかると、野上は大事なことを思い出した。 「悟、真佐美はどうしてる」  別にこの質問に下心があるわけではない。  近くに岡大の医学部があるのを思い出して聞いてみたのだ。  日本第三位の敷地面積を誇る岡大なのだが、医学部は歯学部、薬学部とともに岡大キャンパスと全く違うところにある。  とにかく、変死体の検死をするところといえばそこしかない。 「今、岡大だ。祖母と一緒に線香でも上げてるはずだ」 「悪いけど、岡大によってくれないか?」  野上は、なるべく角を立てないように言ったつもりだが、松山は一言、 「だめだ」 と言い切った。野上も、少し向きになって、 「いいだろ、少しぐらい」 と言い返したのだが、松山は野上の胸倉をつかんで、 「いい加減にしろ。お前は、怪我人だぞ」 と言って威嚇してきた。  しかし、野上も手の速いほうだから、松山の胸倉を掴み返し、 「てめぇ、やる気か」 と食ってかかった。 とは言っても野上は怪我人だ。 「やめとけ、その体で俺に勝てるわけがないだろう」 と松山が言うと、彼を掴んでいる野上の右手を握った。  野上の右手の指は骨折しているのだから、痛くないわけがない。野上は、小さな悲鳴を上げると、右手を引っ込めた。 「とにかく、今日はあきらめろ。彼女のほうは祖母がついているんだ。心配無い」  野上は恨めしそうな目で松山を見ると、 「彼女に肉親がいたのか?」 とふて腐れていった。 「ああ。事故があってから、真佐美が高校を卒業するまでの三ヵ月間を祖母の家で暮らしたようだ」 「どこに住んでいたんだ」 「美星町だ。鬼ヶ嶽の近くのはずだが…」  それを聞いた野上は黙りこんでしまった。   もし、小夜香が生きていたとしても、当然怪我はあったはずだ。  そんな状況で、小夜香ならどうするか。  野上なら、知っているところで一番近い家を捜すだろう。現に彼はそうした。  小夜香だって祖母の家に助けを求めたはずだ。  野上は一瞬、昨日に鬼ヶ嶽ダムの近くであった老婆を思いだした。あそこなら、事故現場からそれほど離れてはいない。  そうなれば、真佐美だってそのことを知っていたのではないだろうか。  野上はそんなことを考えながら眠ってしまった。  その頃、真佐美は岡大にいた。  結局、真佐美は母の亡骸とは会わせてもらえなかった。  それどころか、検死はとっくに終わっているのに茶毘に伏すことすらできなかった。  当初、警察でも検死後茶毘に伏す予定だったのだが、あいついだ行方不明事件のこともあり、遺留品と血液型だけでは美知子と断定しかねているのだ。  何よりも、歯の治療後が発見されているので、それを照会した後でも遅くないというのが警察の見解だ。  昨日の晩までは不安と悲しみでいっぱいだった真佐美も、祖母と再会し、回りの状況が落ち着いて見え始めた今では、警察の要領の悪さが目に映り、腹立たしささえおぼえていた。  そんな感じで昼を廻ってしまい真佐美と祖母はいったん家に帰ろうとした。  そんなところに見知らぬ刑事が現れた。 「矢掛署刑事課の小林というものです」  小林はそういうと警察手帳を見せた。 「刑事さんがなんのようです?」  真佐美は刑事と聞いて敵対心をむき出しにした。母は自殺をしたわけで、殺されたのではない。父のことだって、田舎の警察には関係無い。 「実は、ある法律事務所の方が妙なことを言っていましてね。小夜香さんが、その方の所に会いに来たといっているんです。我々は、当時自殺として処理した事件ですが、もし小夜香さんが生きているとすれば、我々としても…」  小林が口ごもった。この刑事はなにか、とんでもないことを言いそうだ。真佐美は何か小林が言い出す前に、こっちから言ってやろうと思ったが、祖母のほうが一歩速く、 「あんた方に話すことは何もない。小夜香はもう死んじょる。そりゃぁ、なんかの間違いじゃ。帰えっとくれ」 といった。小林は祖母の迫力に圧倒されながらも、 「いえ、ですから…」 と続けていおうとした。しかし真佐美が突然、 「法律事務所の方って、もしかして野上さんのことですか?」 と聞いてきた。 「あっ、ご存じでしたか。野上さんのこと」 「ええ、一度会ったことがありますから。あの人は、いったいなんなんですか?」  小林は困った顔をしてしばらく考えると、 「三村代議士はご存じですか? 岡山一区で三季連続トップ当選している」 と聞いた。 「いえ、橋本龍太郎なら知ってますけど」 と真佐美は言い返した。その言葉に小林は納得した。真佐美の住む倉敷は二区になっている。橋本龍太郎はその二区選出だ。  それに、今時の若い女性が選挙の時、投票に行っているとはとても思えない。  この年頃の女性に政治家の名前を聞くのは無理ということか。  元法務大臣の三村に比べて、元外務大臣で、五十五年体制の頃は次期総理と言われていた橋本代議士のほうが知名度は高い。  それに橋本代議士はなかなかいい男で、しかもテレビによく出ていることから、若い女性に人気だそうだ。 「まあいいです。その閣僚入りしたこともある三村先生の弟さんが弁護士をしているんですよ。野上さんはそこの弁護士さんです」 「でも、本人は違うって…」 「実は三ヵ月前にトラブルがありましてね。今回と似たようなもんなんですけど、ある事件を捜査中に死体を発見しまして、警察のはやとちりで彼を拘留してしまったんです。裁判の判決にたいして過激な暴言を吐いてマスコミに叩かれた直後だったので、再三忠告していた弁護士会が二年間の営業停止処分にしたんですよ」 「は…、はあ、そうなんですか…。えっ! 今回と似ていたって…?」 「美知子さんを発見したのは野上さんですよ」  真佐美の動きが止まった。  そしてゆっくりと、 「ほ…本当なんですか?」 「ええ、本人はそれで大怪我をしましたけど」 「怪我って?」 「落ちたんですよ。鬼ヶ嶽の崖から」 「そうなんですか! 怪我の具合は? 今病院なんですか? どこの病院なんですか?」「え?」  小林は一度にいろんなことを質問されたので、わけが分からなくなってしまった。 「私、これからその病院に行きます」 「あ…、いや、三時間くらい前に退院しました。今、自宅だと思いますけどねぇ」 「だったら、自宅に行きます。名刺に書いてる門田本町に住んでいるんでしょ」 「まあまあ、落ち着いてください。彼は昨日いろいろあってかなり疲れているんですよ。とりあえずは、今日一日休ませてあげてください」 「でも…」 「多分後日、彼が会いにきますよ。そんなわけで、私はこれで失礼させていただきます」 小林はこれ以上質問されてはかなわないと、逃げるように消えていった。結局、真佐美には、小林がここにきた本来の目的がわからなかった。  しかし、祖母にとって小林の言葉はかなりインパクトがあったようだ。  祖母は険しい表情で、 「野上という男には会ったんか?」 と聞いてきた。 「うん、何日か前に…」 「あの刑事の言っとることはホンマか?」 「本当よ。お姉ちゃんの高校時代の写真なんか持ってきて私を捜して欲しいって。確か、私が死ぬかもしれないって書き置きを残したとか言ってた」  祖母の表情が変わった。なにかに脅えているようだった。  真佐美は祖母の表情に気付き、 「まっ、まさかおばあちゃん。お姉ちゃんは本当に…」 と信じられないという顔でいった。しかし、祖母は、 「そんなはず、あるわけねぇだろう。小夜香は死んだんじゃ」 とピシャリといった。  しかし、 「そんなはずはねぇ。小夜香だけじゃぁあきたらず今度は…。運命じゃなんて…、血じゃなんて…、これが呪縛なんか…」 と祖母は震えながら一人言のように言い、一人すたすたと廊下を歩き始めた。真佐美は、祖母の態度にただならぬものを感じ、走って祖母の後を追った。  その後、真佐美と祖母はいったん、美星町の祖母の家に戻り、それから夕方過ぎに真佐美は一人倉敷に戻った。           4  野上は、自宅に戻ると寝た。  今度こそ、自分の意志で寝ることができた。  夢を見ることすらなかった。  そして、六時過ぎにお腹を空かせて目を覚ました。  野上が家に戻ったとき、その姿を見た三村夫婦は発狂した。妻康子は気絶しそうになったくらいだ。  お手伝いのあずさが顔色を変え、家の中は大騒ぎになった。  それでも、いつものように松山の、 「うるせー!!」 と一言で、家の中は静かになった。  そんなわけで、夕食は静かに送ることができた。松山は再び署に戻ったので、三村と妻康子、そして野上の三人で食卓を囲んでいた。  しかし、静かだったのもつかの間で、なぜ怪我をしたのか、なにをやってたのか、仕事はどうするのか、三村に口うるさく言われてしまった。  野上も最後にはうっとうしくなり食後の紅茶も飲まず自分の部屋に戻った。  野上はベットの上であれこれ考えてみたのだが、今一つ考えがまとまらない。  本来なら、この段階で参考人くらい現れてもいいのだが、それらしい人物すら見当たらない。  今、捜査上浮かんできた人間は、泉家の人間だけなのだ。  しかも、今の焦点は小夜香が生きているかどうか、この一点に絞られる。  だいたい、泉家の事と美星町での行方不明事件や死体遺棄事件などは接点らしい接点はない。  あるとすれば、事件がすべて美星町に関係していることくらいだ。  行方不明者は美星町の人間ばかりだし、死体遺棄は、鬼ヶ嶽ばかりだ。ダムは美星町と矢掛町の町境にあるので美星町でのことと判断すればいいだろう。  そして、泉親子が心中したのもしかりだ。  松山は真佐美の祖母も美星町に住んでいるといっていた。 (いい町なんだけどな…。いや、あれは村かな?)  それよりも、あの小夜香に案内された家はいったいどこにいったのだろう。  いろいろありすぎて、すっかり忘れていた。  野上はいろいろ考えているうちに気が変になりそうになったので、考えるのを止めた。 自分の気持ちを割り切ると、真佐美のものだと渡された、小夜香筆跡の日記を開いてぱらぱらとめくり始めた。  野上はこの日記にほとんど目を通してない。  なにしろ、半年以上の日付があるのだから読む気も失せる。  しかし読むのも大変だが、これを考え、書き上げた小夜香も大変だったであろう。  野上は小夜香の苦労を労いながらも、相変わらずいい加減な気持ちで日記に目を通していた。  しかし、野上はふと気になって、あるページで手を止めた。  十二月二十五日の日付だ。  今日から学校は休み。とはいってもテスト休みでずっと休みだったんだ。  昼前に友達の家に行った。  友達の家は山の上なので、いつものことながらちょっとキツイ。  その途中、おしゃれな店を見つけた。  テラスのある喫茶店。  あとで、友達と行くためにチェックを入れようと思ったら、テラス席に男の人が一人でいた。  黒いコートを着ていて、さみしそうな瞳で町を見てた。なんだか、すごく気になった。 彼女とでも別れたのかしら…  少し、ねえさんの瞳に似ていた。  野上は、額から脂汗が滲んでくるのを感じた。確かあの日、野上は昼前からずっと行きつけの喫茶店にいた。  例の女にふられた翌日だ。 (もしかして…)  野上は、慌ててページをめくった。  そして、一月十四日のページで手を止めた。  友達の家に行った。  あの喫茶店には、今日もあの人がいる。  同じように町を見ている。  でも、今日は女の人と一緒。  彼女かしら。  あの人は、あまり楽しそうじゃない。  友達に聞くと、近くに住んでいる弁護士さんだといっていた。  弁護士ってあんまり好きじゃないけど、あの人は近所の人気者みたい。  私の頼み、聞いてくれるかなぁ。 となっている。  完璧に野上のことだ。連れの女は美希のことだろう。  彼女はそのころから野上の事を知っていたようだ。 「なんで知ってんだ…」  野上はつい呟いてしまった。  まさか小夜香は、野上の素姓、性格、経歴などすべて調べたうえで彼のところにきたのではないだろうか。  この日記はにせ物だ。しかし、それには現実のことが書かれているし、赤の他人で一度もあったことのない野上の事が書いてある。  野上はまさかと思い十二月二十四日のページを開いた。  今日は終業式。  でも担任からクラスで二人の生徒が退学した事を聞いた。  松田君と康子ちゃん。クラスのみんなにいじめられてたから、それが原因だと思う。  二人とも、一ヵ月近く学校に来てなかったから。  先頭に立っていじめてたのは鈴木。  私、あいつのこと大キライ。  かわりにあいつが退学すればよかったのに。  あの日、鬼ヶ嶽で発見された二人の被害者の名前が載っていた。  全身に寒気が走り、鳥肌が立っているのがわかる。  これは、告知文だ。小夜香が、学校生活にたとえて書いた野上へのメッセージなのだ。 野上は今年の頭ぐらいから、ずっと読んでみた。  かなりの確立で野上の事が書かれている。  そして、日が経つにつれ、なにか悩んでいるような文章が増えている。  何箇所かに野上に助けてほしいというようなことを書いていた。  それが、終わり頃になるとだんだん鈴木という名前が増えてきた。  鈴木というのは何者なのか。  野上は、十二月二十三日のページを見た。  興味深いことを書いていた。  今日、康子ちゃんから電話がかかってきた。  今晩、松田君と二人、鈴木達に呼び出されたって。  私は康子ちゃんと話したことがないんだけど、私が鈴木と幼なじみだってことを知って助けを求めてきた。  でも、幼なじみと言ったって、私は鈴木とは話もしたくないし、なにか言って通じるような相手でもないのよね。  だから私は断わった。  二人が殺害された日だ。  そして、十二月三、四、六、七の四日間のページだ。  今日、学校で休憩時間中、松田君が数人の男の子に殴られていた。  誰も助けようとはしない。  私も見て見ぬ振りをした。  最後には教室から出ていったきり、松田君もほかの男の子も次の授業には出てこなかった。先頭にたっていじめていたのは鈴木。  それに、中尾、栗田、有森の全部で四人。  私はどうしていいのかわからない。  ついに松田君は学校にこなかった。  昨日、あれから松田君も、ほかの四人も学校には戻ってない。  その後、どうなったのか私は知らない。  担任に松田君のことを聞きたかったけど、そんな勇気はなかった。  鈴木達が康子ちゃんになにか言っていた。  今度は女の子も混じっている。  真紀に淳子、それに啓子と麻美も加わっている。ほかのクラスからも、男の子や女の子が五人来ていた。  たった一人の女の子をあんなたくさんの人数でいじめるなんて信じられない。  とうとう、康子ちゃんまで学校に来なくなった。  私は鈴木達が許せない。  学校の先生はなにをやっているんだろう。  先生にこのことを話そうとした。  でも、私にはできない。  そんなことをすれば、今度は私が鈴木達にいじめられる。  去年の死体遺棄事件の被害者、松田一朗と内田康子が拉致された日にちとぴったり一致している。  野上は最初のページからゆっくりと読もうとした。  しかし、その時、小夜香の顔が頭に浮かび、続いて真佐美の顔が頭をよぎった。  最後のページに書かれている言葉、私は死ぬかもしれない。  野上は急に胸騒ぎを覚えた。  きしむ体を起き上がらせ、服を着替えると、急いでアバルト695SSのスペアキーを取り出し家の外に出た。  しかし、車庫で松山に会ってしまった。 「どこに行く」  松山が自分の愛車から降りながら聞いてきた。彼の愛車はフェアレディーZ432だ。「ちょっとコンビニへ…」 と野上は言いかけてやめた。  そして松山に、 「悟、お前飛び道具持ってるか?」 と聞いた。松山は不思議そうな顔をした。 「ああ、持ってる。それがどうした」 「悪いが、ちょっと手伝ってくれ。倉敷に行くから」  野上は松山がなにか言い出す前に、すでに松山の車の助手席に乗りこんだ。  松山は野上に文句を言おうとしたが、嫌な予感がしたので何も言わずに運転席に乗りこんだ。  夜、九時ちょっと過ぎだった。           5 「本当に、うるさい車だなぁ」  野上は運転席で文句を言っていた。  何しろこの車は昭和四十四年に発表、発売された車なのだ。  そんなに古い車が静かなわけがない。  しかも、この車はレースを目的として作られたために、今のラグュジュアリー思考のZとは違いスパルタンに仕上がっている。  排ガス規制などで、五百台程度しか生産されなかったが、根強い人気を持っている。  松山は自分の車の悪口を言われたものだから、 「お前のアバルトよりはマシだ」 と言い返した。野上は結局言い返すことができなかった。野上の車についているキャンパストップ、なにを隠そう騒音対策でついているのだ。  なんにしても、車の話題で松山には勝てない。  野上は結局、これ以上言うのをあきらめた。  その野上の顔を見た松山はため息をついて、 「鑑識の結果、出たぞ」 といった。  案の定、野上は突然態度を変えた。 「それでどうだったんだ?」 「指紋のほうは採取できなかったが、筆跡は小夜香自信のものだ。これで、ツネの所に来たのは本人か、もしくは本人と接触した人間と見て間違いないな」 「んー」  野上はしばらく考え込んだ。  小夜香は生きている。野上は確信した。  しかも、すぐ近くにいる。小夜香は野上達をどこかで見ているはずだ。 「その件で県警は承諾 殺人の容疑で小夜香を捜すらしい」  承諾殺人とは相手に同意を求めて殺したときの罪だ。  ちなみに、自殺教唆は自殺のする気のない人間に自殺をするよう勧めたとき、自殺幇助は自殺しようとした者に道具を貸したりして死にやすくしてやった時、嘱託 殺人は相手から頼まれて殺した場合ですべて心中に適応される。  これらをまとめて自殺関与罪という。  小夜香がどれにあてはまるかは難しいところだが、そんなものは逮捕、起訴、裁判と変わってくるものなので今はどうでもいいだろう。 「ちょっと待て。なんで県警はそのことを知ってんだ」 「バレたんだ。課長に」  山下刑事官のことだ。 「なんでだよ。もう、お前の上司じゃないだろ」 「職権濫用だ。上司もクソもない」  どちらにしても、警察が動くのなら野上の手間ははぶける。いいことなのか、悪いことなのかはわからないが…。 「それから、小林刑事が車の写真を届けてくれたぞ」  松山はそういうと野上にそれを手渡した。  車はフォルクスワーゲン・ゴルフだ。 「悟、お前はこの写真を見てどう思った?」 と野上は写真を見ながら聞いた。 「シートベルトを締めていれば、かすり傷程度ですんだだろう」  車のメインフレームは原形をとどめている。  もし、シートベルトを締めていれば、重傷くらいですんでいるだろう。  しかも、ダムから彼女の遺体が上がっていないし、山狩りで小夜香は発見されてないのだから、車が水没後、自力で脱出したことになる。  そうでなければ、小夜香は生きているわけでどこからも遺体が出てこないはずがない。 小夜香が生きている可能性はより濃厚になった。  野上はそう思った。  そのうち、二人は倉敷の住宅地に入った。  真佐美から手紙が来たので、松山は彼女の住んでいる場所をほぼ把握している。  倉敷市街地からはやや離れている。  二人は、人気のない住宅地をゆっくりとしたスピードで走った。  真佐美のアパートまでは後五分くらいだ。 「ツネ、真佐美にあってどうするつもりだ?」 と松山は疑問に思い聞いてみた。  野上は窓の外を眺めながら、 「いや、べつに…」 とさりげなく答えた。 「どういうことか説明してもらおうか」 「勘だよ」  野上は言い難そうだ。 「勘?」 「そう、ただそれだけ」 「お前らしくないな」 「そうなんだけど…、実は泉美知子を見つけたときも勘なんだよ」 「そうなのか?」  松山は少し驚いた。野上は感を頼るというよりは、独立独歩でじっくりと煮詰めていくやり方をするからだ。 「僕もちょっと信じられないんだ。こんなことは初めてだし。ただ、何かある前ぶれには小夜香の顔が頭に浮かんで、急に胸騒ぎがするんだ」 「小夜香に祟られてんじゃないのか?」 「まさか…。だいたい、彼女は生きていると思うし、まさか、生き霊ってことは…」  野上は自分でいいながら、身震いをしていた。 「相手は何をやっているかわからないんだ。普通に考えるべきじゃ…」 「ちょっとまった」  松山が話しているところを野上が中断させた。  目の前を人が歩いている。  男だ。その五メートルほど前を女が歩いていた。真佐美だ。  二人を追い抜くと野上は、 「どう思う?」 と松山に尋ねた。 「お前の勘はおそろしく冴えてるよ。とにかく車を捨てよう。挟み撃ちにするぞ」 「おいおい、怪我人に…」 「うるさい」  松山はそういうと空地に車を捨てた。  その場所は真佐美が歩いていた通り道なので野上はそこに残り、松山は一本奥の通りを走っていった。  このまま、後ろに回り込んで、挟み撃ちにする寸方だ。  野上はねんざした左足を引きずりながら、今、車できた道を戻っていった。  そして、三十秒ほどして二人を見つけた。  最初、暗くてよく見えなかったが、二人が重なってみえたために抱き合っているように見えた。 (か…勘違い?)  野上は少し動揺した。  しかし、近づくにつれそうではないとわかった。  真佐美は男に抱きついているのではない。しがみついているのだ。  男の両腕は真佐美の腹にあてていた。  そして、そこに光るものが見えた。  ナイフだ。  それがはっきりとわかるくらいに近づいたとき、男は野上に気がついた。 「誰だ!」  男が野上のほうを向いて叫んだ。真佐美は男が動いたためにそのまま倒れそうになったが、男は彼女を抱き抱え、顔にナイフを当て野上を牽制した。  真佐美のブラウスの左横腹辺りが血で真っ赤になっている。 「これ以上近づくと、この女を殺すぞ!」  男はなおも牽制を続けた。  野上は平静を保って、 「僕はただ単にここを通りがかっただけです」 とていねいな言葉を使い、松山が来るのを待った。  いくら野上でも、この体で取っ組み合いはしたくない。  しかし、松山を待ちながらもどんな状況に陥っても対処できるように間合をつめていった。 「ち…、近づくなといってるだろ。本当にこの女、殺すぞ!」  松山はまだこない。 (あいつ、どこまでいったんだ)  野上と男の間隔はさらに詰まった。三メートルくらいだろうか。  野上は決断した。そして顔つきも、言葉づかいも十代の頃に戻った。 「殺れるもんなら殺ってみろ。俺には関係ぇねぇ。その女は俺にとっちゃぁ縁もゆかりもねぇ人間だ。さぁ殺れよ。殺ってみろよ!」  男が野上の迫力に後退りをした。  真佐美はほとんど気を失っている。野上の言葉が聞こえているかどうかはわからないが聞こえていたら二度と野上とは会ってくれないだろう。  その時、松山が拳銃を構えて路地から現れた。 「殺人未遂の現行犯だ。覚悟しろ」 「け…、警察…」  男は松山を見てそう呟くと、再び野上を見た。彼は体中包帯だらけだ。  その瞬間、男は真佐美を放すと野上に襲いかかった。  しかし野上は最後まで冷静さを失わなかった。  絶妙のタイミングで、唯一怪我をしていない右足を振り上げた。  男の手にあったナイフは宙を舞い、地面に落ちた。  どうやら、男の腕が折れたようでナイフを持っていた右腕は間接のないところで折れ曲がり、ブランとしていた。  そして、徐々に痛みが襲ってきたようで男は地面に倒れ込みのたうち始めた。  野上はその骨折部分を右足で踏みつけると松山に、 「救急車を呼んでくれ。真佐美の分、一台だけでいい」 と言った。  そして、右足に力を入れた。  男は悲鳴に近い叫び声をあげた。 「さあ、答えてもらおうか。なんで真佐美を狙った?」  野上の問いに男は、 「ふん!」 と顔を背けた。  野上はもう一度、力を入れた。男が再び悲鳴を上げた。  そして、男の悲鳴にやじ馬が集まり始めた。 「もう一度だけ聞く。なんで真佐美を刺したんだ?」  男はニヤリと笑うと、 「定めだよ、定め。運命ってやつさ。こいつは死ななきゃならん。小夜香のためにも。運命の糸には逆らえないんだよ」 といった。 「話は後でゆっくり聞くよ」 と野上はいうと内蔵破裂をしない程度に男の腹を踏みつけた。  その男はそのまま気絶してしまった。  野上はやじ馬共に、 「お騒がせしました。警察も救急車も呼びましたんで気になさらないでください」 と言い、真佐美のところに駆け寄った。  真佐美はかなり出血しているようだ。完全に気を失っている。  野上は、真佐美のブラウスを胸元から引き裂き傷口を見た。どうやら命に別状なさそうだ。  傷は刺されたというより、切られたという感じだ。ただ単に横腹を掠っただけだったのだ。野上は簡単な応急処置をすると松山が戻って来るのを待った。  野上の勘は当たったがとりあえず最悪の状況は免れた。そう思った。  しかし、その時、車のバックファイヤーかタイヤのバーストのような音が聞こえた。  野上は男を見た。男の額から血が流れ出していた。  その音は銃声だった。       第5章 真実の扉           1  野上は病室にいた。  時間は朝の六時過ぎだ。ベットには真佐美が寝ている。  野上に続いて、真佐美が怪我をするという慌ただしい二日間だったが、それもとりあえず落ち着いた。  野上は一睡もしていない。前日によく寝ているのだが、まさか徹夜で怪我人を看病することになるとは思わなかった。  とはいっても、ずっと小夜香の日記を読んでいたので暇つぶしにはなった。  そして、捜査が進んできた今の段階では、この日記はいろいろなことを伝えてくれる。 まず、小夜香の家庭だが、どう考えても仲睦まじい家族ではなかったようだ。  生前は夫婦喧嘩は絶えず、夫婦の会話はなかった。いつも父親には真佐美が、母親には小夜香がついて、家族を二分にして喧嘩をしていたようだ。しかし、喧嘩の動機は食事の内容や互いの悪口など、たあいのないものだと書いてある。  おそらく本当の動機は別にあったのだろう。  それが何なのか、野上にはだいたい見当が付いている。しかし、どこかでそれを否定している。なかなか事実を受け入れることができないのだ。  さて、日記のことだが、真佐美のものということになっているが、やはり小夜香が書いただけに彼女のことも数多く書かれていた。  しかし、それを読む限りでは姉妹同士での会話もなかったようだ。  小夜香はあまり社交的ではなかったらしい。  真佐美の友達から聞いた話という書き方をしているのだが、小夜香は何度か男に告白されたらしいがすべて断わっているらしい。  まあ、もともと美人なのだからそんなこともあるだろうが、しかしこのことが事件とどう関係しているのかはわからない。  ただ、友達も少なかったようだ。  唯一、由美という女性が小夜香の友人だったようだ。  確かに、小夜香の写真は一人か、同じ女性と写っているものばかりだ。  一枚だけ、六、七人で写っている写真があったが、これも小夜香は一番隅っこで小さくなっている。  後、実家の話だが祖父のことは書かれていない。既に死んでいるのだろうが、実家については祖母のことが中心だ。  祖母は気の強い性格で町内でも有名だそうだ。後は、かなりの物知りだそうで小夜香などは困ったときに、よく祖母に相談を持ちかけていたとのことだ。  そういう事が、まばらに書かれていた。 (物知り…、困ったときの相談相手か…)  野上は真佐美の祖母に教えを説いてもらいたくなった。冗談抜きにだ。  この日記に書いているのだから、事件の事に関してかなり知っていると見て間違いないだろう。  それから鈴木達に関することだが、いじめのことしか書かれていない。  しかも、いじめられた人間は行方不明、そして鬼ヶ嶽ダムで発見された人間の名前ばかりだ。  これは鈴木達の犯罪録と考えていいだろう。  この日記を読む限りでは鈴木という男は主犯ということになる。  野上はため息をついた。  その時、ドアをノックする音が聞こえた。  松山だった。 「例の殺された男、鑑識の結果が出たぞ」 と野上が部屋の外に出ると松山がいった。 「男の頭の中から、弾が検出された」 「あんな所で拳銃ぶっぱなしたのか? 犯人は」 「ああ、どうやらやじ馬の中に紛れていたようだ。目撃者はいない。弾は二十二口径だそうだ」 「なるほどな。身元は?」 「有森憲次、三十四歳。住所は岡山市可知四丁目◇□△、職業は宮塩電気の工員だ」 「真佐美を狙った動機は?」 「わからない」 「背後関係は?」 「わからない」 「小夜香との関連は?」 「わからない」 「要するになにもわからないわけ?」 「まっ、そういうことだ。県警は倉敷署に本部を設置する方針だ。どうやら、県警の捜査二課と防犯課、それに公安が動くらしい」  野上は倒れそうになった。完全にあきれ返っているのだ。 「有森は、そっち系に関係あったわけ?」 「とりあえずはないが、否定はできない。マル暴関係なんてどこでどう繋がっているのかわからないからな。ハジキの件もあるし」  野上があきれた理由は、要するに警察が対暴力団を想定して動いているからだ。 「なるほどね」 「俺は署に戻るから後はよろしく」  松山は疲れた表情で笑顔を作ると、そのまま行ってしまった。  考えてみると、松山は一昨日から寝ていないはずだ。  最初からわかっていたことだが、殺人事件専門の刑事一課捜査一係と、ジャンルを問わず初動捜査が専門の機動捜査隊とは一人一人にかかる負担は比べ物にならないだろう。  それにもかかわらず、野上の手伝いをしているのだ。  野上は松山に申し訳なく思いながら病室に戻った。  とにかく、真佐美を襲った男の名前は、鈴木の仲間として日記に載っていたものだ。  日記に載っている名前が現実に存在していることがはっきりした。  そして、あれこれ事件の事を考え、昼を過ぎた頃に真佐美が目を覚ました。  どうやら麻酔が切れたようだ。 「あれ、ここは?」 と真佐美が寝ぼけた顔で一人言のようにいった。 「病院ですよ」 と野上が微笑を浮かべて答えると、真佐美は野上を指さし幽霊でも見たような顔をした。「なんで、野上さんがここに?」 「さあ? なんででしょう」  野上はとぼけて見せた。 「えーっ、まさか野上さんが!?」  野上はまるで自分が真佐美を襲ったように聞こえたのであわてて、 「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ。いっときますけど僕が襲ったわけじゃありませんから」 と否定した。真佐美は呆れて、 「なに言ってんですか。私はちゃんと犯人の顔を覚えてます。野上さんじゃありませんでした」 といった。 「ははは、そうですか。真佐美さんを助けたのは松山刑事ですよ。僕じゃありません」  野上はとりあえず嘘をついた。乱暴者の野上はなるべく他人に知られたくない。 「そうなんですか? でもどうして?」 「たまたま通りがかったそうです。病院で身元を調べたら真佐美さんだったので僕のところに連絡が入ったということです」 「じゃあ、野上さんは一晩中ここで?」 「はあ、まあそういうことになりますか」  真佐美は申しわけなさそうな顔をして、 「本当にご迷惑をおかけしました」 といって頭を下げた。 「いえいえ、そんなことはありませんよ」 と野上はニコニコしながらいった。 「でも、怪我はいいんですか?」  真佐美は心配そうな顔をしている。  野上は自分の体をチラッと見て、 「僕は大丈夫です。それよりも、あなたは自分の怪我を治すことを考えてください」 といった。 「でも、まさか刺されるとは思いませんでしたよ」  真佐美は不安そうな表情をした。 「そうですね。僕もびっくりしましたよ」 「でも、わたし、なんで狙われなければならないんだろう」 「ですよねぇ。なんで狙われたんでしょう」  野上は腕を組んで考え込むふりをした。  そして、 「一つ聞きたいんですけど、鈴木という名前の男は?」 と聞いてみた。  真佐美は首を横に振りながら、 「いえ、知りませんけど」 といった。 「そうですか。実はですねぇ、小夜香さんが残した日記の事なんですけど、ちょっと気になったことがありまして…」 「なんですか?」 「はあ、ちょっと読んでもらえませんかねぇ」  野上は真佐美に日記帳を渡した。 「十二月二十五日のページなんですけど」  真佐美は日記を受け取るとそのページを開いて読んでみた。 「これって…、まさか…」  野上はコクリとうなずいて、 「そのまさかです。これは僕のことです。あなたが意識を失っている間、僕はずっとこの日記を読んでいました。その前日のページを読んでくれませんか」  真佐美はそれを読むと、 「これがどうかしましたか?」 と聞いてきた。 「そこに出ている松田という名前を覚えてください。そのうえでこの資料を読んでください」  野上はそういうと、ついでに持ってきていた事件の資料を真佐美に渡した。 「なんなんですか? これは」 「去年のクリスマス、鬼ヶ嶽で起きた死体遺棄事件の資料です。被害者の名前を見てください」 「松田…一朗…」 「小夜香さんはこの事件の事を知っていました。そして僕のことも知っていました。彼女はこの日記を僕に渡して、あなたを捜してくださいと言ってきたのです。あなたの身になにかあると…」 「………」  真佐美はうつむいたまま、なにも言わなかった。 「日記の最後のページ『私は死ぬかもしれません、ごめんなさい』と言う言葉が、僕はこの言葉を小夜香さんではなく、真佐美さんに対するものだと思っています。小夜香さんが真佐美さんに向けて発した警告なのです」 「でも…」 「現にあなたは狙われたでしょ」  真佐美は小さなため息をついた。 「え…ええ」 「とにかく、小夜香さんは真佐美さんの身の上に起きうることを予測していました。だからこそ、彼女は僕のところに来たんです」 「でも、なんで私が狙われなければならないのです?」 「それは、あなたの方がよく知っているのではないですか?」 「なんでわたしが?」 「それでは聞きますが、あなたのお母さんと小夜香さんは、なぜお父さんまで巻き込んで心中をしなければならなかったのですか?」 「そ…それは…」  真佐美は何かを言おうとしたがそのまま、口ごもってしまった。 「お父さんとお母さんは仲が悪かったそうですね」 「だからなんだっていうんですか」 「日記には食事の内容や互いの悪口が喧嘩の引き金になったらしいですが、そんなことが無理心中を誘発しますか? 別に動機があったとしても、たとえば経済的問題なら二年前の捜査で発覚していただろうし、それが動機だとしても、この一連の出来事の説明はできません。それになぜ真佐美さんだけ生きているのですか?」 「どういう意味ですか!?」 「あっ、失言でした。言い直します。家族で喧嘩をしていたとき、小夜香さんはお母さんに、真佐美さんはお父さんに付いていたそうですね。しかし火事になったその日は真佐美さんは友達の家に外泊していましたよね。なぜ、真佐美さんがいない時だったんでしょ。お父さんの味方がいなかったからですか? あなたがいなかったから最悪の事態を迎えたのでしょうか。しかし、いくらお母さん側についていたとはいえ、小夜香さんが感情的になるのですか?」  真佐美は首を横に振った。 「僕にはこの事件が突発的というより、計画的なものであると思います。お母さんと小夜香さんはあなたが外出するのを待って、計画を実行したのでは? もちろん、あなたを巻き込まないために」  真佐美は仕方なくしゃべり始めた。 「そうかもしれません。母と姉はよく真夜中に二人で外出していました。当然の事ですが父は怒っていました。結婚直後からそういう状態だったそうです。その当時は祖母と出かけていたので父もなにも言いませんでしたが、姉が十歳を過ぎた頃から、母は祖母とではなく姉と出かけるようになりました」 (やっぱり!)  野上は真佐美の言葉に確信した。やはり、真佐美の祖母は事件に大きく関わっているようだ。 「なにか、裏に団体が動いてますよ」 「団体?」 「なにかはわりませんがね」  真佐美はうつむいて、黙ってしまった。 「考えられるとすれば宗教関係。しかも今、マスコミに騒がれているような新興宗教や、世間一般に浸透しているカトリック、エホバのようなものとは違う。なにかもっと、根深いもの。そんな気がするんです。とくに、殺しの手口。あれはまともな神経の持ち主のやり口ではありません。人身御供、生贄のやり口そのものです」 「生贄? そんな…。人を生贄にするなんて、そんな事ある分けないでしょ」 「どうなんでしょうね。そりゃ確かに僕だって思ってませんよ。今の世の中に、人間の生贄なんて、そんな馬鹿な話があってたまるものですか。でも、現実にあの殺しのテクニックは普通じゃない。いや、テクニックなんて呼べた代物じゃない。犯行自体はどう考えても素人です。知能犯のやる事じゃない。でも、彼らは自信に溢れている。絶対に警察には捕まらないという。なにか、強力なバックグランドがあったとしても、こんな無計画な事はしないでしょう。しかし、奴等は拳銃も持っている。それに仲間がミスを犯したりして警察の手に落ちるようなことがあれば、その仲間は消されてしまう。秘密主義は徹底していますよ」  真佐美はうつむいたまま、しばらく黙っていた。そして、ゆっくり顔を上げると、なにか勇気を奮うように、 「確かにそうかもしれません。母も姉も普通じゃありませんでしたし…。私も薄々感づいていました。黒魔術ですか」 と野上の体から、血の気が引いた。 「魔女の引継がどうとか…」  野上は大きくため息をついて窓の外に目を向けた。 「考えられることは一つです。お母さんと小夜香さんは、なにかの団体に加わっていた。なんとか二人だけの秘密として守り通そうとしたのですが、お父さんにばれてしまった。そして、ふたりは脱会しようとした」 「脱会?」 「そうです。脱会です。しかし、あの手の団体は不良グループと同じですからね。簡単には脱会させてもらえませんよ。それどころか、逆に奴等は二人を消そうとした。もし、この事が真佐美さんの耳に入ればあなたまで殺され兼ねない。どうすることも出来なくなった二人はその事が真佐美さんの耳に入る前に、お父さんを殺して心中したのではないでしょうか。あなたを巻き込まないために。しかし、犯人は真佐美さんが、奴等の犯罪のことを二人から聞いているのだと思っているのです。だから、犯人はあなたを狙った」 「でも、なんで今頃…。もう二年もたっているんですよ、事件から…」 「それはあれでしょう。小夜香さんが生きてるから」 「えっ?」  真佐美の表情がみるみる変わっていた。           2 「でも、根拠はあるのですか?」  真佐美はどうしても認めたくないようだ。  当然だろう。二年も前に死んだ肉親が生きているなんて、うれしいよりは不気味だ。しかも、普通の死に方ではなかったのだから。 「それは日記でしょ。筆跡鑑定の結果、小夜香さんと同一人物でした。それに僕は現に彼女と会いましたし」  真佐美はもうなんて言っていいのかわからなくなった。 「それと警察でも小夜香さんが生きていると断定したようです。今日、重要参考人として指命手配されると思います」 と野上は言い難そうにいった。 「指命手配? でもなんで?」 「殺人、放火、もしくは共同正犯。承諾殺人、よくて自殺教唆、とにかく何だって容疑になますから。ようは捕まえることが目的なんですよ、警察は。だから今、真佐美さんを襲った男と小夜香さんとの接点を捜査しているみたいです。多分そろそろ警察が来る頃だと思いますけどね。すいません、長話になって。看護婦さんを呼びましょう」  そういって野上が立ち上がると真佐美が、 「ところで、私を刺した人はどうなったんですか?」 といった。 「死にました」 「えっ!?」  真佐美は信じられい顔で野上の顔を見つめた。 「どうして…?」 「撃たれたんです。多分、その男から秘密が漏れることを恐れた仲間が殺ったんでしょう」  その時、ノックの音が聞こえた。 「どうぞ」 と野上がいうと二人の男が入ってきた。一人は中年、もう一人は若い男だ。 「もう気がついていたんですか…」 と中年の刑事が不服そうに言った。  野上は二人を見るとすかさず、 「刑事さんですね」 と聞いた。二人の男は当然ながら驚いた。  中年男性のほうが、 「どうしてそれが?」 と聞いてきた。 「いや、そろそろ来る頃だろうなぁと思いまして。それに僕の身内にもいますから。僕は三村法律事務所の野上です」 「ああ、君がそうか」  相手は、野上のことを知っているようだ。警察には厄介になることが多いのですっかり有名になってしまった。 「ほう、なんで君がここに?」 「いえね、彼女の前の家の土地が宙ぶらりんになっているんですよ。それで、三村先生の命により動いていたんですけど、事件の連絡があって急いで来たんです」  野上は嘘八百並べた。 「なるほど」  中年の刑事はニヤリと笑った。 「昨日、現場の聞き込みをしていておもしろい話を聞いたんだよ。岡署の刑事と一緒に派手な乱闘やっていた男がいたらしい。なんでもコートを着ていて体中包帯を巻いていたそうだ。野上君は知らないかね?」 「さ…さあ…」  野上は引き釣った笑顔を作って答えた。  真佐美が驚いた顔で野上を見ている。 「なんでも犯人の腕を蹴り上げて骨折させたらしいんだ。しかも、その手を踏みつけながら何だか怒鳴ってたっていうんだよ。犯人が殺されたから良かったものの、生きてたら過剰防衛になっていた。まっ、誰だかわかっていないんだけどな!」  刑事は野上を睨めつけながら言った。  野上はあわてて、 「刑事さんは事情聴取ですか?」 と話題をそらした。 「まあ、そんなところだ」 「それでは僕は邪魔でしょうから引き上げます」 といって真佐美に小さく手を振った後、刑事に向かって、 「そうそう。この事件、通りすがりの愉快犯や物取りとは違いますよ」 といった。 「ん?」 「明らかに真佐美さん本人を狙っての犯行です。ですから、警備は厳重にしておいてください。それから、看護婦を呼んでやってください。真佐美さん、意識が回復したばかりだから」 といって逃げるように部屋を出ていった。  全く嫌味な刑事だ。  野上はタバコに火をつけた。  何日ぶりのタバコだろうか。さっきの嫌味な刑事のことも、タバコのおかげで水に流すことができた。  タバコが吸い終わるとタクシーで倉敷駅まで行き、そこから列車で岡山まで戻った。  自宅に戻って自分の車に乗り換えると、その足で西大寺高校に向かった。  野上が西大寺高校に向かった理由はほかでもない、小夜香の友達の由美という女の所在地を突き止めるためだ。  野上は担任に会うと早速小夜香の写真を取り出し由美という女性のことを聞いてみた。 案の定すぐにわかり、高校時代の住所を教えてもらった。  ついでに鈴木たちのことも聞いてみたが、結果は空振り、日記に書かれているような事実は一切なかったということだ。    野上は担任に別れを告げると、とりあえず由美に会ってみることにした。  山口由美、二十一歳。調べた結果、現在は岡山市高島のアパートに住んでいた。  五時過、野上が尋ねていくと由美はアパートにいた。 「だーれ?」 といいながら出てきた由美は男物の巨大なワイシャツだけという刺激的な格好だった。 「なんのよう?」  由美は、眠そうな顔で頭をかきながらいった。見るからに水商売風の女だ。実際の年令よりも老けてみえる。 「僕は、三村法律事務所の野上というものです」 といって名刺を渡した。 「弁護士?」  眉間にしわを寄せながら不思議そうな顔をした。  野上は弁護士と思われているのをいいことに、 「ちょっと、お伺いしたいのですが、学生時代に泉小夜香さんという女性がいましたね」とそのまま何の訂正も入れずに質問を始めた。  正直に言うと訂正を入れるのが面倒臭くなってきたのだ。 「ええ、いたわよ。事故で死んじゃったけど。でも、なんで今更そんなに古い話を蒸し返すのよぉ、べ、ん、ご、し、さん!」  由美は色声を使ってきた。野上は動揺しながら、 「いえ、ちょっと。ところで泉さんは占いとかが好きだと聞いていたのですけど、実際のところはどうだったんですか?」 といった。どうも野上はこの手の露骨な女性は苦手だ。 「そうそう。好きだったのよ、あの娘。ほら、雑誌なんかにあるじゃない、星占い。あれなんか本気で信じてたし、本屋にいったら必ず占いコーナーにいっちゃうんだもん。もし生きてたら、最近流行の新興宗教だって入ってるわよ、きっと」 「へぇー」 「なにしろ、それが原因で家庭の中にヒズミができてたぐらいだもん」 「ヒズミ?」 「そう。実はね、彼女のお母さんもそっちのほうで狂ってたのよ」 「そっちって、占いですか?」 「それもなんだけど…」  野上は、由美の表情を見て、 「呪い、黒魔術ですか?」  由美はうなずいた。 「それでお父さんのほうもそれは知ってたわけよ」 「反対したわけですね」 「そう。結構深刻だったみたいよ。夫VS妻と娘 の対立は」 「ふ〜ん」  女性が人の噂話しを好むのは、年齢職業問わず共通しているようだ。 「しかし、そこまで話がはっきりしていて、なぜ二年前事件が起きたときにその事がマスコミで取り上げられなかったんでしょうか? ワイドショーとか女性週刊誌みたいなお下劣な奴等だったらすぐに飛びつきそうですけど」 「あっ、これ? 全部推測なのよ」 「推測…」 「そっ! 何かそんな感じしただけなのよ。だって、小夜香が嫌いだっていってた奴、みんな病気になったり事故にあったりロクなことなかったし、良く彼女の母親と夜中に出かけてたし。学生時代なんか、生物の授業で蛙の解剖があったとき、女の子なんかみんなでキャーキャー言ってたのに小夜香一人平気な顔してたのよ。変だと思わない?」 「はぁ、たしかに」 「ほかの女の子なんか、ニワトリや兎を生けにえにして黒魔術でもやってんじゃないのって悪口言ってたのよ。私、小夜香と仲良かったからよく喧嘩になってたんだけどね。なんにしても、どんな親友にだってこんな話はしたくないわよ」 「でしょうね」  野上が相づちをうつと由美は野上の顔をのぞきこんで、 「それにしても弁護士さん、あなたなかなか可愛いわね。どう、今晩付き合わない。私、今日は同伴出勤なのよ」 とあやしい目付きでいった。やはり水商売系のようだ。 「いや、遠慮させていただきます。どうも失礼しました」  野上は急いでその場を退散した。           3  翌朝、野上は矢掛署の小林に電話をして、すぐに矢掛町に向かった。  野上の車はマニュアルミッションだ。昨日は捻挫をした左足でクラッチを切るのに苦労をした。  しかし今日はバッチリと左足首にテーピングを巻いたのでそれほど負担にはならなかった。  シフトのほうもイタ車ということで、左ハンドルになっていて左手でシフトをすることもない。  脱臼の痛みはほとんどないのだが、何しろ鎖骨にヒビが入っているので左腕を上に上げることすらままならないが、右手でステアリングを切り、右手でシフトチェンジをすれば車を運転には支障がなかった。矢掛署についたのは一時前だ。 野上が刑事部屋に入るなり、小林が笑顔で迎えてくれた。 「もう怪我のほうは大丈夫ですか?」 「ええ、もう」  「そうですか。昼飯、まだでしょ。外に出ませんか?」 と小林はほかの刑事の目を気にしながらいうと、野上の返事を聞かないうちに外に出た。 そして、署の近くのラーメン屋に入った。  歩いて三分くらいのところだ。  まだ一時来るか来ないかという時間だったが、ラーメン屋は空いていた。流行っていないのか、それとも昼間のピークが過ぎたのか野上にはわからなかった。  二人は一番奥のボックス席に座ると、ラーメンを注文した。 「なんだか、僕はお邪魔のようでしたね。本当にすいませんでした」  野上は刑事たちの冷たい目線を思い出しながら小林に謝ったが彼は、 「野上さんのせいじゃないですよ。私の責任です。上の方針に納得できませんでね」  野上は少し驚いた。野上が見た小林のイメージはまじめで堅実な人柄だからだ。とても上の方針に歯向かうようには見えない。 「実はですね、去年の暮れに起きた例の事件なんですけど、捜査本部は事実上解散してしまったんです」 「そうなんですか」 と野上は言ったものの、別に不思議はなかった。なぜなら、事件が発生してから既に四ヵ月がたっているのだ。  本部の看板を残したまま、所轄の殺人課に任務を一任するというのが本来の形だろう。 その辺は小林も十分理解しているようで、 「それは別にいいんですよ。それが本来の形ですから。しかし、私が言いたいのはそれまでの捜査態度です」 「捜査態度?」 「ええ、なにしろ聞き込みのときなどはろくに話も聞こうともしない。泉小夜香の件だって、逮捕状を請求してそれが裁判所に却下されるとそれっきりですよ。なんにしても本気で捜査する気があるのかどうか」  と小林がそこまで言うと、店員がラーメンをもってきた。  野上はコショウを手に取ってラーメンに振りかけながら、 「確かに変ですよね。県警だって真佐美さんが襲われた件で、彼女を刺した男は暴力団関係ではないかって言ってますし、現に三課や防犯が動いているわけだし。小夜香さんの件だって彼女の犯した罪がどうこう言う前に彼女を見つけ出すことによってわかることが沢山あるはずですからねぇ。それを捜そうともしないというのは変な話ですね」 といいながら、小林にコショウを渡し、怪我をしている右手で辛そうに箸を持ちラーメンをすすり始めた。 「野上さんもそう思いますよね」  小林は野上が自分と同じ意見に安心して、満足そうにラーメンをすすり始めた。 「そういえば、鬼ヶ嶽温泉のおかみさんが妙なことを言っていましたけど」  野上が言うと小林は手を止めて、 「妙なこと?」 とおうむ返しに聞いてきた。 「ええ。なんでも鬼の人さらい伝説で警察も本気で捜査が出来ないといってましたけど」「ああ、そのことですか。全く馬鹿げた話ですよ」 「それじゃあ、本当の話なんですか?」  野上は少々あきれた。 「たしかにそんな話もありますよ。この一連の失踪事件に関わった人間は呪われるっていう目茶苦茶な話でして、現に死人も出ましたから。冗談や迷信としては受け止められないようです」  小林が言い難そうにいった。こんな事、警察の恥じ以外のなんでも無いからだ。 「殺しですか…」  野上が真面目くさった顔で言うと小林が笑い出した。  そして真顔に戻って、 「失礼。笑い事ではないですよね。ただ、殺しだったら警察は黙っちゃいませんよ」 といった。  たしかに警察というところは身内の件になると異常に情熱を燃やす。 「まあ、あれですな。怪談の芝居をやっていて怪我人が出たというようなのりです。この事件に関しても既に二人の人間が怪我や病気になっています。それに憶えてますか野上さん、一年前、県警の刑事部部長が暴力団との癒着で逮捕された事件」 「ええ」  忘れるわけがない。なにしろ、その事件には野上も関わっていたのだから。 「その部長も、失踪事件ではまじめに取り組んでいたんですよ。それが逮捕されたんだから洒落になりませんよね。挙句の果てに野上さんまで怪我をしたんだから」 「確かに」 「ところでどうなんですか。怪我をしてまで続けているのだから、当然捜査は進んでいるのでしょうねぇ?」 「はぁ、進んでいると言えば進んでいますし、進んでいないと言えば進んでいません。どちらにしても、空論と推測ばかりです。確かに事件の全貌のようなものは見えてきましたが、いまだに犯人の手がかりらしい物はつかんでいません。容疑者らしい人間はわかれども、そいつがどこにいるのかも、なにをやっているのかも、男か女なのかも全くわからない状態です。おそらく、そいつを見つけてきたとしても起訴はおろか、逮捕すら出来ないでしょうね」  小林は少し驚いていた。 「しかし、現実にそこまでわかっているのならたいしたものですよ。私も事件の真相とやらを聞きたいですねぇ」 「しかし、人に話せるような状態ではないのですよ」 「それはまた何故」 「さっきも言ったように推測とそこから来る状況証拠ばかりですから。それこそ、役に立つかどうかわからない情報もありますし、情報自体が真実かどうかという裏づけすら取れてないのが現状です」 「そうなんですか…」 と小林が残念そうに言った。 「それより小林さん、これからちょっと付き合ってくれませんか? 行きたい場所があるんですよ」 「ええ、それはかまいませんがどこですか?」 「美星町です」  そういうと野上は蓮華を使ってチャプチャプとスープを飲み始めた。           4  二人はラーメンの勘定を済ませると、小林の覆面車で美星に向かった。  野上が怪我をしていて運転しずらいので、小林が気を使ってくれたのだ。  矢掛から美星まで車で十五分くらいだ。  なにをしに美星に行くのかというと、それは真佐美の祖母に会いに行くためだ。  野上は真佐美の祖母がどんな人間かは知らないが、事件の鍵を握っていると確信していた。  そんなわけで小林は祖母に一度会っているし、遺体確認で自宅に連絡を取っているので道案内を頼んだのだ。 「黒魔術?」  車内に小林の声が響いた。 「ええ、そうです」 「しかし…、私はよく知らないんですよ。その黒魔術っていうのは」 「呪術の一つですよ」 「呪術ですか…」 「呪術というのは一般的に非人格的な力、たとえば自然のような存在に対し強い信念と欲求でそれを思いのままに利用し、目的を達しようとする一連のテクニックの過程をいいます。あれですよ、呪文や儀式を使ってやるやつです」 「へぇ」 「基本的に呪術には白呪術と黒呪術があります。白呪術は世間的には社会のために善用され、薬草などを使ったりします。それに相反するのが黒呪術、つまり黒魔術というわけです。特に黒魔術だけを使う人間は邪術師、妖術師なんて呼ばれて恐れられています。一般に異常な精神的素質を持つ人が、一定の厳しい訓練をへて、専門のテクニックを収得して術師になるといわれてます」  小林はため息をついた。 「しかし、それと事件とどう関係があるのですか?」 「あの事件は組織的なものですよ。なにかの団体、しかも狂気じみたものを感じます。ある意味では宗教みたいな、なにか超常的力に対する崇拝です」 「今度は宗教ですか?」 「ええ。宗教と呪術は同類ともいえるし、違うともいえます。呪術から宗教が発展したともいえるし、宗教が退化した結果ともいえます。実際に、黒魔術というのは悪魔を呼び起こして、なにかを引き替えに悪魔に願いを叶えてもらうといわれていますが、その悪魔というのは宗教の思想からきているんです。オリエント地方では古来星辰崇拝や動物崇拝が盛んで、そこからユダヤ、キリスト、イスラムなどの世界宗教を生むことになるんです。しかし、その豊かな想像力が、霊だとか精霊を生み出す結果になりました。そこから派生したのが悪魔です。悪魔が最初に記録として残っているのが旧約聖書の創世記の中でアダムとイブを誘惑して罪を犯せた天使といわれています」 「なんで天使なんですか?」 「本来は神と人間の仲介者だったのですがそれが試練の時に神にそむき悪天使になったそうです。今の悪魔の形になったのはキリスト教がヨーロッパに広がった十五世紀以降だそうです」 「なんだかわかんなくなってきましたよ」 と小林は苦笑いをしながらいった。  野上もそれに合わせ苦笑いをした。 「これがどう事件とつながるのかというと、悪魔と魔女の関係なんですよ」  小林は困り果てた顔で、 「魔女ねぇ」 といった。 「一般的に魔女というのは二通りいわれてまして、一つは黒尽くめで三角帽子、鷲のくちばしのような鼻を持ったしわくちゃの老婆、そしてほうきに乗って空を飛び、人間に悪さをするというもの。もう一つは不良少女に対してだそうです。今でいう、チーマーに混じって薬やシンナーを吸ったり、悪さをしている女子高生のようなものです。まあ当時、十六、七世紀頃はすべてが宗教を中心に世の中がまわっていましたので、不良少女はとんでもない罪人だったわけですよ。魔女狩りというのも実際にはそういった関係があったようですね。当時は未成年なんて観点もなかったし、今と罪の重みは違っていましたから」 「野上さん」 「はい?」 「不良少女と悪魔が本当に事件と関係あるんですか?」 「あっ、すいません。余談でしたね。奴等がいう悪魔というのはもっと宗教的なものでしょう。そういった観点から考えられた魔女とは悪魔の仲間ではなく、悪魔と契約を交わした女性のことを言います。基本的には、悪魔との契約、悪魔礼拝、悪魔との性交、空中飛行、その他諸々だそうです。すなわち、黒魔術というのは魔女が悪魔を呼び、悪魔になにか頼むかわりに悪魔を喜ばれるようなことをするわけです。これは宗教的考えと一緒で、魔女が教祖であり、悪魔が神ということです」 「てことは…、奴等はお供えとして、人を殺していたという事ですか?」 「おそらく」 「なんだかむちゃくちゃな話ですね」 「確かに。しかし、黒魔術の儀式に、動物の内蔵を捧げることは間違いありません。この事件はそれが人間に代わってという事ですか。実際に真佐美の口から、魔女がどうとかという言葉を聞いています」 と野上はいいながら全身に鳥肌を立てていた。 「しかし野上さん。ずいぶん詳しいですね」 「えっ、ああ、勉強したことがあるんですよ。学生時代に」 「えーっ!?」 「なんだか勘違いしていません? 僕がいっているのは犯例のことですよ」 「そうなんですか?」 「ええ。実際にあるんですよ、こんな事件が。日本ではなくヨーロッパで」 「へぇ」 「それに、この問題は新興宗教に近い物がありますから。この手の事件はたいがい弁護士を中心に被害者の会が結成されます。特に、最近増えているので、岡山弁護士会でも再三にわたって勉強会が開かれていますよ」  そんな事をいっているうちに、二人は祖母の家に着いた。  野上はその家を見た瞬間、苦笑いをした。なんと先日、山の中で迷子になったときに発見した家だったのだ。 「ごめんくださーい」  野上が玄関の前で叫ぶと真佐美の祖母はのっそりと出てきた。  やはり、迷子になった時にあった老婆だ。 「なんじゃ」  祖母は冷たい口調で一言いった。 「ぼ…僕は三村法律事務所の野上というものです。少しお話をうかがいたいのですか…」 野上は少々腰がひけた状態で聞いた。野上にとって百戦練磨の年寄りほど苦手なものはない。前日には露骨な女性が苦手だといっていたし、その前には女子高生が苦手だと言っていたのだが…。ようするに女性が苦手なのだろう。  祖母はそれを見て取ったのか、それとも野上を試しているのか、じっと野上をにらめつけた。  そして、 「あんたか、真佐美の言うとった野上というのは」 といった。この前会った時、野上は名乗らなかった。ということは、どうやら野上のことを知っているようだ。 「はぁ、多分そうでしょう」 「小夜香と会ったそうじゃな」 「ええ、そうです」 「あんたが来るのを待っとった。あんたと話がしたい。中へ入ってもらおうか」  そういうと祖母はクルッと回って家の中に入っていった。  その言葉に野上と小林は互いの顔を見合わした。そして、中に入ろうとした。  その時、 「あんたは入らんでええ」 と祖母は小林にいった。 「あっ、そうなんですか」  野上が手で申しわけないと合図すると小林はしぶしぶと車に戻った。  野上はそのまま居間へ連れていかれると、 「座れ」 と一言いわれた。  居間は電気もついていない。大変薄暗い。  しかし、部屋自体は小ぎれいに片付いている。  野上は言われるがままに座った。 「僕に話というのは?」  野上は恐る恐る聞いてみた。  実はこの婆、鬼女で人を食っているのかもしれないなどと野上は普段では思いも寄らない考えを巡らせた。  このシチュエーション、そしてこの事件の展開とそんなことを考えてもおかしくない状況だ。 「あんた、真佐美を助けてくれたそうじゃな」 「はぁ? ええ、そういわれてみれば助けたことになるかもしれません」  野上は意外な展開に少し戸惑った。 「それに美知子の遺体を見つけてくれたそうじゃな」 「あっ、それは偶然です」  野上はそれに関しては自信を持ってきっぱりといった。 「なんにしても、あんたにゃお礼を言いたい」  祖母は深々と頭を下げた。  野上は慌てて、 「い、いや、そんなあらたまって言われても。顔を上げてください」 というと祖母は頭を上げ、 「小夜香はなんといっとた?」 といってきた。 「は?」 「じゃから、小夜香はなんといっとたか聞いとんじゃ」 「ああ、そのことですか。実はですね…」  野上は祖母に小夜香の日記を渡した。 「この日記を僕に渡して、真佐美さんを捜してほしいといってきました」 「ほう、なんと」 「なんでも前日に家を出てから帰っていないとか。最後のページに死ぬかもしれないと書き置きじみたものも残していましたし、とにかく真佐美さんに万が一のことがあったら大変だから早く捜し出してほしいと」 「それで真佐美はなんといっていた?」 「信じていなかったようです。僕自信も信じていませんでしたから。なにしろ小夜香さんは女子高生の真佐美さんを捜してほしいといっていましたし、実際に行方不明になっていたのは真佐美さんではなく小夜香さんでしたから」 「そうか、小夜香がそんなことを…」  祖母はしばらく考え込んだ。そして一言、 「小夜香はやはり生きておったか…」 といった。 「や…やっぱりって…、えーっ?!」  野上は思わず叫んでしまった。  普通なら、違うとかそんなはずはないと反論するはずだ。  しかしこのハバアは野上の言葉で、小夜香が生きていることを断言してしまったのだ。「どういうことなんですか?」  野上は祖母に食いつくように聞いた。  しかし祖母は落ち着き払って、 「それを話す前に一つ聞きたいことがある」 といった。 「なんでしょう」 「何故、この事件を調べているんじゃ。この事件を調べてどうする。何が欲しいんじゃ。金か、それとも名誉か。なんじゃ」  野上はしばらく考えた。このハバアにはハッタリやタテマエは通用しそうにない。  あの眼光の鋭い目はすべてを見抜いてしまいそうだ。  野上は覚悟を決めて本音をいうことにした。 「復讐です」 「復讐? なんの復讐じゃ」 「僕はこの事件に限らず、すべての事件、いや人生そのものを復讐のために生きているのです」 「なぜじゃ」 「僕の幼少時代はひどいものでした。父親はどこの誰かもわからず、母親は水商売の女。そして僕自身、喧嘩や盗みに明け暮れていました。僕は要するに人間失格の烙印を押されていたわけです。それを救ってくれたのが、今、僕が務めている法律事務所の先生です。僕の生い立ちがどうであれ、先生は僕本人を見てくれました。そして、ここまで育ててくれたのです。先生は野上経義という男を一人の人間として扱ってくれた数少ない人なのです。僕は神様に対して復讐したいんです。そして、父と母にも…。僕は間違って作られた不良品です。でも、不良品だからこそ人生に対するプライドがあるんです。作ってしまったことを後悔している神様に対して、てめぇの作った不良品は、微力ながら社会のために尽くしていたんだって、この不良品を必要としてくれた人がいたんだって死んだ後言ってやりたいんですよ」  祖母の口もとが緩んだ。そして笑い始めた。 「面白いことをいう青年じゃ。神様に復讐か。実際に神様を信じているのかどうかは別にしても、気に入ったぞ。よかろう、話してやるぞ」 と言ってくれた。 「ありがとうございます」  野上は頭を下げてお礼をいった。  そして、祖母は野上を見るとおもむろにしゃべり始めた。  二年前に老婆によって閉ざされた真実について…。      第六章 開放された呪縛           1 「小夜香は生きておる。そして近くにおる。私にゃわかるんじゃ。あいつは鋭い感性と人とは違う能力を持っておるんじゃ。あんたがそのうちここに現れるから待っておれと言ったのもあいつじゃ。そして、予言通りあんたは来た」 「えっ!? 小夜香さんに会ったんですか? いつ?」 「そうじゃない。夢枕じゃ」 「………」  野上は完全に言葉を失った。 「あいつは、夢によって、他人に自分の言いたいことを伝えることができる。夢に入り込んでくるんじゃ」  野上は、この前の旅館で見た夢を思い出した。 「二年前、事故のあった夜のことじゃ。私ゃ警察に呼び出された。おたくの娘 さんと孫娘さんが無理心中をやったと。しかし、私ゃそのことを一週間前に聞かされておった」 「と…いうと」 「小夜香があの事故の一週間前に私の所に会いにきたんじゃ。ある男が孝幸を殺せといってきたそうじゃ」 「鈴木という男ですか」  祖母はうなずいた。 「そうじゃ」 「しかし、他人の男に自分の父を殺せと言われて素直に殺せますか? それがどんな事情があったとしても」 「直接言ったのは小夜香にではない。美知子にだ」 「そうなんですか。まさか、不倫てことはないでしょ」 「そんな、陳腐なものなら私だって悩むことはない」 「だったら…」 「まあ、あわてるな。追々話す」  そういわれて野上は黙った。 「鈴木の狙いはすぐにわかった。孝幸は美知子と小夜香がやっていたことをやめさせようとしていた。警察に自首するように説得しとったんじゃ。しかし、いっこうにやめようとしない二人を見て孝幸は警察に伝えて助けを求めようとした。孝幸がどこでそのことを知りえたのか私にゃわからん。しかし、私にしても美知子や小夜香にとっても、そして奴等にとっても孝幸はもっとも邪魔な人間じゃったのじゃ。しかし、この決断には非常に難しいものがあった。たとえ、婿養子とはいえ、私にとっては大切な息子じゃ。それよりも、美知子と小夜香がどれだけ苦しみ、どれだけ悩んだか…。私にゃ到底想像できん。しかし二人は決断した。これは泉家だけの問題ではないからじゃ」 「そして、殺した」 「そうじゃ。二人は孝幸を殺して逃げていた。この後、二人がどうするのか私にゃわからなんだ。だかのぅ、鈴木は孝幸を殺せと言ったのとは別に美知子にもう一つ言い渡していた」 「孝幸さんを殺した後に小夜香さんと心中しろと?」  祖母はコクリとうなずいた。 「だが、美知子は鈴木の命令にそむき、小さな反乱を起こしたんじゃ」  「反乱?」 「死ななんだんじゃ。本当なら孝幸を殺した後、小夜香を殺して家に火をつけ、美知子自身も死ぬことになっておった。しかし、美知子はそこでは死なずに逃げた」 「あっ、それでてすか。孝幸さんが死んで四日間も行方をくらませていたのは」 「しかし、鈴木らぁも二人を必死になって捜した。そりゃそうじゃろ、もし二人が警察の手に落ちるようなことがあれば、鈴木たちの犯罪は明かるみになってしまう。結局、美知子は逃げ切れないと感じ、せめてもの鈴木たちへの見せしめとして鬼ヶ嶽へ車諸共、身投げしたんじゃ」 「しかし、それでは…」 「たしかにそうじゃ。私も二人は死んだものと思っとったのじゃ。だか私が警察から戻ってきたとき、傷だらけになった小夜香が家の玄関の前で倒れとった」 「やっぱり…」  やはり小夜香はクラッシュした車の中から生還していたのだ。 「その時、小夜香は生きておった。致命傷の怪我もなかったんじゃ。私ゃ病院に連れていこうと思ったが、もしそんなことをすれば、小夜香は逮捕されたんじゃろ、野上さんよ」 野上はしばらく考えて、 「もし、おばあさんが警察に連絡を怠っていれば、おばあさんにも罪はあります。おそらく小夜香さんの場合、殺人が適用されるでしょうから、普通に行けば極刑でしよう」 「そうじゃろうな。そう考えて私ゃ小夜香を部屋へ運んで手当てをした。不幸中の幸いというやつかのぅ。翌日には意識も回復して、起き上がることもできるようになった」 「そうなんですか」 「じゃが、鈴木たちは私の所へ必要に連絡を取ってきた。なにしろ、車の中からも周辺からも二人は見つからんかったんじゃ。当然じゃろうのぅ。小夜香は鈴木たちが自分のことを捜していると敏感に感じ取った。それに真佐美の行く宛がなくて私が引き取ることになったんじゃ。小夜香も、自分が生きていて両親だけが死んだとなれば真佐美がどう思うか気掛かりでしょうがなかったはずじゃ。葬式のあった晩、姿を消した切り二度と姿を見せんようになった」 「そうだったんですか…」 と野上は沈痛な面持ちでいった。 「そこまでしてみんなが守ろうとしていた秘密とはやはり黒魔術なのですか」 「その通りじゃよ」  野上は目をつむった。もう、これ以上、事件のことを聞くのがユウツでしかたがない。 確かに野上の推理は的中した。しかし、現実にはそんな事件の捜査などしたくない。なにかにたいし、異常なまでの崇拝心を持った人間にはなにをいっても無駄だし、なによりも彼らにとって絶対的存在と、それを崇拝している自分こそが正義なのだ。犯罪を犯すにも悪意というものがないのだからたちが悪い。  だが、ここまできて後戻りをすることはできない。野上は意を決して再び目を開くと、「鬼の人さらいの伝説というのはやはり…」 と聞いてみた。 「そうとも言えるし、違うとも言える」 「というと?」 「私も昔のことはよう知らん。じゃが、私は物心がついた頃からミサに参加しとった。しかし、私らの頃は動物を使っておった。実際に人間を使い出したのは、十年くらい前からじゃ。鈴木は動物だけでは飽き足らず、人間を生けにえにしとったんじゃ」 「しかし、だとすると今までの人さらいはなんだったんですか?」 「単なる言い伝えじゃ。考えてみぃ。美星町といっても三千人近くの人間が住んでおるんじゃ。身を隠さなければならない人間や人知れず行方をくらまさなければならない人間だっておるじゃろう。それをみんなは鬼の伝説などと下らぬ迷信を作り、そういった人への中傷を避けておった。鈴木はその迷信を使ってひとだくらみしたんじゃ。ここだったら、人を殺しても鬼の伝説ですむとな。全くあほうじゃ。それにひどいところで黒ミサなんぞやっていたもんじゃ」 「ミサをやっているのはこのあたりなんですか?」 「ああ、そうじゃ。この裏山じゃ。百年以上、そこでやっとるらしい」  野上は驚いた顔で祖母を見た。 「当時はなぁ、私の母様が魔女をやっとった」 「魔女ですか…」  真佐美が病室でいっていたやつだ。 「そうじゃ。なんと言ったらいいのかのぅ。ミサを行う人間といえばいいじゃろうか…。要するに、呪いをしたりしてミサを仕切っとった人間じゃ」 「まさか…」  野上はさっき、車の中で小林に自分が言っていたことを思いだした。呪術師は天性と訓練によってなることができ、魔女は悪魔との交信をするのが役目だということを。 「まさに、そのまさかじゃ。あれには血があってのう。私は母様の後、魔女をやった。私が隠居してからは美知子が引きついどった。事件が起きたのはまさに美知子から小夜香に魔女の引き継ぎを行うときじゃ」 「どういうことですか?」 「美知子も小夜香もこの呪われた血を断ち切ろうとしたんじゃ。しかし、辞めたいといって辞めれるようなもんじゃねぇ。じゃから、二人は死ぬことを考えたんじゃ。私は最初、美知子と小夜香が二人で孝幸を殺したといったな」 「ええ」 「確かに孝幸は殺された。じゃがのう、孝幸も覚悟を決めていたはずじゃ。鈴木達に殺されるくらいなら二人に殺されたほうがましじゃといってな。あれは無理心中なんじゃよ」「しかしそれでは何故、真佐美さんだけは?」 「知らなかったんじゃよ。真佐美はそのことを一切。それに魔女の血が流れているといってもしょせんは素人。何をやっても無駄じゃ。私らぁ、子供のころからミサに参加していた。いろんな儀式も受けた。そういった経験を積んで魔女としての能力が芽生えたとき、初めて後継者としての儀式を受けることができるんじゃ」 「しかし、本当にそんなものに血や経験が必要なのですか?」  祖母はあきれた顔で野上を見るとため息をついた。 「魔女というのはただ単にミサを行なえばいいというものではない。悪魔との性交によって初めて悪魔に礼拝を受け、契約が成立するんじゃ。もちろん処女の生娘でなけりゃならん。魔女は、悪魔を呼び、会話をし、悪魔に血と快楽を与えなければならない。とても、飛び込みの素人に出来るものじゃない。そうゆう意味じゃぁ、鈴木らぁにとって真佐美はなんの価値もなかったはずじゃ」  野上は完全に動揺して、祖母に食って掛かった。 「まさか、もし事件がなければ小夜香さんは、悪魔に処女を奪われていたんですか。そんなもん、神様が許したって、この僕が許しませんよ!」  この言葉には悪魔のくせに、あんな美人とエッチをするなんて許せないと言う気持ちの裏返しだ。だいたい、悪魔に犯されるぐらいなら死んだ方がましだと小夜香が思ったのも当然だ。野上の所にそういった相談があったとしても、当然自殺を進めるだろう。  しかし、野上の考えは的を得ていなかったようで、 「おまえは阿呆か! これはあくまでも精神的なものじゃ。」 と祖母は怒鳴った。  その言葉に野上は少しホッとした。  確かに目の前に悪魔が出てきて………をするなんて、そんなことが本当にあったら人類の今までの積み重ねはどこかに吹っ飛んでしまうだろう。 「しかし、それではなぜ、真佐美さんは命を狙われなければならなかったんですか?」 「そりゃぁ、そうじゃろ。小夜香との接点は真佐美しかおらん。鈴木らぁも本気で小夜香が生きとると思うとんじゃ。じゃが、小夜香は死んどる事になっとる。自分から表に出るわけにはいかん。そうなりぁ、真佐美からミサのことが漏れると考えるのが普通じゃろ」「なるほど」 「しかし、よもや鈴木らぁも、このババアから事件の真相が漏れるとは思ってないじゃろうからな」 「確かに」 「鈴木にとっちゃ、二人がおらんようになることは願ってもないことじゃったんじゃ。もし、二人がおらんようになりゃぁ、鈴木の独壇場じゃからな」 「ところで、鈴木というのは何者ですか?」 と野上が聞くと祖母は、 「それは自分で調べてみぃ。お互いに身元は明らかにさせないようにしている」 といった。 「じゃあ、どうやって連絡を?」 「ミサをやる時期は決まっておる。ほっといても自然にみんな集まる。しかし、それは暗黙の了解じゃから、緊急時には知らせ合っているじゃろう。今じゃ、信者全員が互いの身元を知っているはずじゃ。美知子も、鈴木に知らせたはずじゃて。隠居したわたしにはわからん」 「なるほど」 「それよりも私ゃ、人の世の仁義とやらを通す。野上さん」 「はい」 「私を警察へ連れていってくれぬかのぅ」 といって立ち上がった。  しかし、野上は首を横に振った。 「おばあちゃん、法律には時効というものがあります。なぜ、そんなものがあるのか知っていますか?」  この老人がそんなことを知っているはずがなかった。 「もし、殺人を犯し警察に捕まったとします。当然自由は束縛され、前科というレッテルを貼られることになります。しかし、たとえ警察から逃げ切ることができても場合によっては刑務所に入るより、もっと苛酷な人生が待っているかもしれません。身分を偽り、名前を偽り、警察から逃げ回ることがどれほど辛いことか。だからこそ、罪に対して時効を設け、その設定された年月を逃げ切ることができれば、懲役刑を受けたのと同じくらいの苦痛を味わったとして、罪を抹消されるのです。確かにあなたは時効を迎えていません。しかし、あなたは懲役を受けたのと同じくらいの苦痛を味わっているはずです。僕はあなたを警察に突き出すようなことはできません。だから、もし小夜香さんが警察に捕まって裁判で不利になったら名乗り出てください。それまでは沈黙を守ってください。お願いします」  祖母はうなずくと、 「野上さん、あんたに渡したいものがある」 といって桐箱を差し出した。  野上はそれを手に取ると蓋を恐る恐る開けてみた。中にはナイフのようなものが入っていた。鍔の部分には模様として繊維のようなものが貼ってあり、どす黒くなっている。  ナイフのデザインからいって、西洋物だろう。 「これはいったい?」 「小夜香が事件の数日前、私の所に来て渡してくれたもんじゃ。人を殺すのに使っておったそうじゃ」  野上は手に取ろうとしてナイフに近づけていた手をスッと遠ざけた。  何しろ、唯一の証拠物件だ。もし、これから鈴木の指紋とルミノール反応が出れば、凶器として裁判で力を持つ。  祖母は野上をじっと見ると、 「小夜香と真佐美をお願いしますぞ」 といって頭を下げた。           2  西の空は紅に染まり、太陽が真っ赤に見えている。時間は六時前だ。  野上が玄関から出てくると小林が駆け寄ってきた。 「どうでした? 食われませんでしたか?」  小林も野上と同じ心配をしていたようだ。  野上は、 「僕も最初は同じことを心配しましたよ。でも、以外と普通の人でした。以外といったら怒られるかな」 と笑っていった。 「じゃあ、話をしたんですか?」 「ええ、いろいろと聞かせてもらいました」 「なに話してもらったんです? 事件の鍵になるようなことは話してくれたんですか?」「そうですね。後は裏を取るだけですか」 「そうなんですか? 野上さん、教えてくださいよ。なにを話たんですか?」 「小林さん、慌てないでくださいよ。あと裏を取るだけといってもこの事件、本当に裏を取るのが大変ですよ。犯罪そのものは立証できたとしても、なによりも犯人達に逮捕状が下りるかどうか。頼れるのは自供だけって感じになりました。例え起訴まで持ちこめたとしても裁判で逆転される可能性もあります」  野上はナイフのことを黙っていた。もし、小夜香の指紋だけで、鈴木のものが出なかったら洒落にならないからだ。 「そんなに大変でしょうか…」 「大変でしょうね。なにしろ、過去の事件からさかのぼれば、いったいどれだけの人数の人間が事件に関わっていたかわかりません。はっきりいって、この事件を担当することになる検事を同情しますよ」 「それでどうするつもりですか?」 「とりあえず…」  野上は十秒くらい黙りこんで、 「おばあちゃんが呼んでいるんですよ。もう一度、家の中に戻りましょう」 といった。小林は少々戸惑った表情で、 「えっ、私もですか?」 と聞いた。 「ええ、小林さんもです」  野上はそういうとスタスタと玄関の中に入っ ていった。 「ちょっ、ちょっとおいてかないでくださいよ」 と小林はいうと急いで野上の後を追いかけていった。 「野上さん、食われたりしないでしょうね」  小林は野上の後ろに隠れるように、びくびくしながらいった。 「大丈夫ですよ。誰も食ったりなんかしませんよ」 「しかしですねぇ」 「大丈夫」  野上は居間に入ると、 「おばあちゃん、つれてきましたよ」 といった。  すると、閉じていた目をカッと開いて、 「来たか。二人とも座りなさい」 といった。  小林はまだおびえている。これが、刑事課の刑事かと野上は情けなくなった。 「さぁ」  野上は小林を座らせると、自分も彼の隣に座った。 「おばあちゃん、見せたいものってなんですか?」  野上はさっき見せてもらったナイフのほかに、まだ証拠品があるのではないかとわくわくしていた。  小林のほうは、この老人が本当の姿、すなわち鬼婆になった姿を見せられるのかと脅えていた。 「じつはな、今日ミサがあるんじゃ」 「ミ…サって?」  野上と小林の声がハモった。 「今晩、鈴木たちが来るんじゃ。それをあんたたちに見てもらいたい」  小林は不思議そうな表情で、 「鈴木って?」 と聞いた。  野上は小声で、 「主犯です」 といったのだが小林はそれを聞いて大声を挙げてしまった。だからといって小林が鈴木を知っていたのではなく、ただ単に主犯の名前が具体的に、会話の中から出てくることを驚いただけだった。  祖母はその声を聞いて、 「やかましぃ!」 と怒鳴ると小林は静かになった。 「また、人間を生贄にするのですか?」  野上は一番気になっていることを聞いてみた。 「いや、今回は違うじゃろう。しかし鈴木たちが何をやっているのかを見てほしんじゃ。あんた方はそこに行きさえすればええ」 「しかし、どこでやるのかは知らないんですけど」 「心配ない。私の家の裏に一本の道があるんじゃ。そこを通れば、三十分ぐらいでつく」「そうなんですか?」 「ああ、そうじゃ。鈴木たちもミサを行うときはその道を使う。いつも、鈴木たちは家の庭に車を止め、私の家によって行くんじゃ」 「何時頃ですか?」 「十時過じゃ。じゃから、あんたら二人はどこか別の場所にいてくれ。鈴木たちが家を出たら、あんたらを電話で呼ぶ」 「そうですか。だったら鬼ヶ嶽温泉に電話をください。僕たちはそこで待機しておきますから」 「よかろう」  野上と小林の二人は立ち上がると、祖母にあいさつをして外に出た。 「野上さん、本当にいくつもりですか?」  小林が不安そうな表情で聞いてきた。 「ええ、そのつもりです」 「しかし、ミサってことは人なんかを生贄にするんでしょ?」 「さっき、しないっていってたでしょ」 「確かにそういいましたがやっぱりやばいですよ。署に連絡して県警の機動隊にでも…」「小林さん、いくらなんでもオーバーですよ。大丈夫です。ところで飛び道具は持ってますか?」 「いや、持っていませんけど」 「なんとか、持ち出せませんか?」 「ほら、やっぱり危ないでしょ。機動隊を呼びましょう」 「いや、万が一ですよ。見つかったときの威嚇です」 「そうなんですか?」 「べつに嫌ならいいですよ。僕一人で行きますから」 「あっ、いや、私も行きますよ。怪我人一人を行かせるわけには行きませんから。本当に野上さんは命知らずだな」 と小林はため息をつきながらいった。 「とにかく署に戻りましょう」  野上がいうと二人は車に乗りこみ、矢掛署に戻った。  小林は署で、ありとあらゆる言い訳を使い、 なんとか刑事課長から拳銃持ち出しの許可をもらった。ついでに刑事課鑑識係へいき、鑑識に赤外線カメラを借りた。  ミサの現場を撮影しようというのである。  そして、鬼ヶ嶽温泉へと向かった。  旅館には野上の車と小林の覆面車の二台でいった。野上の車をいつまでも署に置いておくわけにはいかないからだ。野上は旅館につくとチェックインをしたのだが、おかみさんにずいぶんな歓迎を受けた。 「お客さん、来てくれたんですか? お怪我の方はよろしんですか?」  おかみさんのいつもの笑顔に野上はほっとした。 「ええ、もともとひどい怪我ではありませんでしたから」 「またまたぁ、謙遜なんかしないでくださいよ。倒れたときは、どうなるかと思いましたよ」 「あっ、あれはただの貧血ですよ。山の中をずっと歩き回っていた上に血がいっぱい出ちゃいましたから」 「そうなんですか」 「ちょっと僕、夜に小林さんと出てきますんで」 「これから捜査ですか?」 「ははは、そんなものですか。十時頃に出ようと思うんですよ。多分、電話がなると思うんですけどね。ちょっとそれまでは小林さんと、ゆっくりさせていただきます」 「どうぞ、どうぞ。夕食はまだでしょう。今から準備しますんで」 「本当にすいません」  野上と小林は、旅館で食事を済ませてくつろいでいた。そして、十時半頃、電話が入った。  真佐美の祖母からだった。  二人が小林の車で祖母の家に行くと、庭に大きなバンや乗用車が三台止めてあった。  二人は祖母にあいさつをすると、山の中を歩き始めた。  しかし、こんな所にこんな道があったとは知らなかった。普通の人間には見つけることができないかもしれない。  そのうち、光が見えてきた。  その光が焚き火の光だとわかるまでに、それほど時間はかからなかった。  そして、声も聞こえてくる。  何やらあやしげな、歌とも叫びともいえぬような声だった。  人も見えてきた。  しかも普通の格好ではない。頭の上から、足の先まで黒ずくめだ。  三角帽をすっぽりと被り、顔も見えない。  十三人の人間が大きな焚火を囲っている。何か呪文でも唱えているのだろうか。  そのうち、一人が頭からかぶっていた三角のマスクを取った。その中から出てきたのは金髪の美しい外人女性だった。そして、全身をおおっていた黒いマントをスルリと脱ぎ捨てた。その下には服はもちろん、下着すらつけていない。完全な裸だ。  焚き火の光に浮かび上がったその姿は怪しい美しさを全身から放っていた。  野上と小林が、その女性の体に見とれているのもつかの間、その女性がなにか大声で呪文のようなものを唱え始めた。それが終わると、今度は彼女の後ろに立っていた人間が鶏を取り出した。そして、広場の中央に置かれた木製の長椅子のようなものに女性を寝かせると、鶏を彼女の体の上にもっていき、それの首もとをナイフで切りつけた。  血が流れ、美しい体をみるみる紅色に染めていった。そして、血が止まると、ほかの二人がその女性の体に塗り付けるように手で血を伸ばしていった。鶏を殺した男はそれを見ると、今度は鶏の腹部を裂き、内蔵を取り出し、それを模様のはいった器に乗せ、女性の頭の先に置いた。  それを確認すると、横になった女性以外、全員がその女性を囲み、呪文を唱え始めた。 そのうち、呪文の中から女性の吐息が聞こえてきだした。それはだんだんと激しくなってきて、最後には悲鳴のようになっていた。苦しんでの悲鳴というよりは、男に抱かれ、絶頂を迎えようとした淫乱女の叫びに聞こえる。  囲んでいる人間の間から見える、女性の姿はまさに祖母のいっていた悪魔との性交だろう。しかし、野上ら一般人にいわせれば、変態じみたマスターベーションとしかいいようがない。野上にとっては、小夜香がこれを行わなかったことが唯一の救いだろう。  小林は必死になってそれを写真に写している。  黒ミサは三時間くらいで終わった。  野上と小林はこんなものを見たのは初めてだ。しかし、二人が言えることは、これが普通の神経の持ち主のすることではないということだ。  野上も小林も、鶏の血の臭いと気味の悪い呪文のようなもの、そして裸の女が血塗れになって叫び狂う姿のせいで、吐き気を感じていた。  そして、ミサは終了した。  小林は小声で、 「野上さん、もう帰りましょう。十分でしょ」 といった。しかし野上は、 「もう少しだけ待ってください。あいつらの顔を写真に写しておきたいんです」 といって小林を待たせた。  ミサの方は片付けも始まった。そして、みんなが今まで着ていた黒ずくめの衣装を脱ぎ始めた。  小林は彼らの顔をすべて写真に取ると、野上と二人で一目散に山を降りて行った。           3  二人とも表情が暗い。なにしろこの世のものとは思えないようなものを、見せられたのだ。気分がいいはずはない。あれはどう見ても信仰心とはいいがたく、たちの悪いMSにしか見えない。二人は疲れはてた顔で解散をした。  おかげで野上は旅館に帰ってもなかなか寝つけなかった。  そして朝を向かえた。  野上は小林と共に、もう一度ミサの場所へと向かった。  昨日と同じルートで山道を歩き、三十分ほどでそこに到着した。そこは今までの獣道とは違い、ブッシュもなく、小さな広場になっていた。どう見ても人工的につくられたようにしか見えない。木は切り取られ、雑草もきれいに刈られている。  野上はしばらく回りを見渡し、思いついたかのようにタバコに火をつけた。  まずは一服、それをしなければなにも始まらない。  野上は、座れそうな切り株を捜し、そこに座って、ホープの味を堪能した。  小林はゆっくりと回りを見た。 「野上さん、私は昨日のことを思い出すと、また吐き気がしてきましたよ」  小林は、本当に気持ち悪そうだ。顔色が悪い。  しかし野上は、 「そうですねぇ、昨日のことですか…。確かにパツキン美人の、しかもナイスバディーを見れるなんてラッキーでしたよね。あのおねえさん、胸、大きかったなぁ」 と遠くを見つめるようにいった。それを見た小林は呆れ返っている。 「野上さん、もしかして変態趣味がありません?」 「僕がですか? まさかぁ。だいたい考えてみて下さいよ、小林さん。あんなにえぐいものを見せられたんですよ。それを記憶の奥底に追いやるには、その前にあったおねえちゃんのストリップを思い出すしかないでしょ。その後の変態オナニーは忘れる。きれいだったお姉ちゃんの体だけ覚えておく。そうでもしなきゃ、食事も喉を通りゃしない」 「若いですね」 「当然です。でも、まわりからは爺呼ばわりされてますけどね」 野上がそういうと、ゆっくりとまわりを見た。  広場は、十メートル四方位の広さだ。中央には長椅子のようなものがある。  昨日、血染めのマスターベーションをしていた場所だ。  その外にはなにもなかった。  野上はタバコの火を消すと中央の長椅子の所に行ってみた。長椅子は横に二メーター、縦に一メーター位だろうか。確かに今考えると、椅子というよりはベットだ。  それに使われている木は、かなり古く、腐りかけている。  昨日の鶏の血は、完全に乾いているようだ。鶏一匹の血ではたかがしれているのだから当然といえば当然か。  実際にその木は、どす黒い色をしている。その木の色というよりは、何かで色を塗ったようだった。しかし、それがきれいに塗られているのかというとそうでもない。  野上は顔を近づけてみた。  よく見ると、表面には細かいヒビ割れが入っている。爪を立ててみると、ぽろぽろとはがれ落ち、木の表面が現れてくる。しかし、その木にも、たっぷりその塗料を吸い込んでいた。  野上は、そのはがれ落ちたものを手にとって見た。指でなでてみると、さらさらと砕けて粉になっていく。  野上は、その長椅子から離れ、空を見上げた。どうやら、ずっとここで生贄を殺してきたらしい。  これは血だ。  あのどす黒い塗料のようなものは、間違いなく乾燥した血液だ。  この中に人間の血も混ざっていると思うと野上の全身に寒気が襲った。  野上はそれを見ながら、 「小林さん、この中から人間の血が混じっていると証明できませんか?」 と聞いてみた。 「いろいろ混じっているようですが、できないことはないですよ。ただ、DNA鑑定になりますがね」 「どの位、時間がかかりますか?」 「早くて三ヶ月、普通にいけば半年です」 「ダメですね。遅すぎる」 といいながら、再び長椅子を見た。そこで奇妙なもの見つけてしまった。その、長椅子の回りになにか線のようなものが書かれているのである。  よく見ると、それが何なのかはすぐにわかった。  魔法陣だ。魔法陣は星印の中に丸を書いたような、魔術でよく使われているマークだ。「野上さん、DNA鑑定は無理でも、とりあえず鑑識を呼んだ方がいいですね」  小林が長椅子を見ながらいった。  野上は魔法陣を眺めながら、 「それはやめときましょう」 といった。 「どうして?」 「僕らが昨日見たのは、動物を殺しているところです。鑑識が動きますか? それに、今本腰を入れて動いたとしても、鈴木一味の身元が分からない以上、どうすることもできませんよ。顔が割れているといっても、難しいでしょうね。それと、ここの山は私有林でしょ。令状がいるだろうし、裁判所がなんていうか…」  野上は山を見回した。その瞬間、肝心なことを思い出した。 「小林さん、この辺り一帯の山は国有林ではないんでしょ」 「ええ、たしか。どこで区切っているのかわかりませんが、このあたりの山はすべて個人の物です。もちろん、場所によって所有者は変わっていきます」 「ちょっと待って下さいよ。おばあちゃんはずっとここでミサをやっているといっていましたよねぇ。国土調査で五年に一回、土地の測量があるでしょう。あれは、測量事務所の人間が直接計るわけだし、来る前には所有者が境界線の草刈りをしたり、ポイントを打ち込んだりするんです。当然、山に入るわけですから、どんな事情があるにせよ、放置して置くわけには行かないんです。それなのに山の所有者が何十年、何百年と気付いていないはずはないのでは?」 「あっ…」 「小林さん、すぐに山を下りましょう。うまく行けば、犯人の身元が明らかになるかもしれませんよ」 「そうですね。急ぎましょう」  二人は急いで山を下りるとすぐに公衆電話に向かった。あのミサの会場のことは警察に黙っている事にしたので、警察機関を使って調べることはできない。  二人はまず、あの場所がどこになるのかを調べることにした。野上は電話で京都大学に電話をかけると学生時代に世話になった法学部の教授につないでもらい、考古学教室の教授を紹介してもらった。そして今度はその教授に岡山大学の同じく考古学の教授を紹介してもらったのだ。  野上は、その教授に話を付けると、すぐに小林と共に岡大へ行きGPSを借りて再びミサの会場へ戻った。  GPSとはグローバル・ポジショニング・システム、全地球測位システムの略で、アメリカ国防省の打ち上げた衛星を使い、自分の位置などを調べる物だ。今では地図などと組み合わせて車などの道案内に使用するカーナビゲーションの普及で一気に広まった。本来は船舶の航海や航空機などで使うのが一般的で、経度、緯度の座標しか現われない。  野上が借りてきたのは後者のタイプで遺跡の測量に使っているやつだ。  野上は元来、機械音痴でこういった物は苦手だ。そこで小林に任せることにした。  小林は、そのGPSで座標を計ると、二万五千分の一の地図を広げ、さしとエンピツを使ってこの場所に印を付けた。  それが終わると、また山を下って、今度は法務局に向かった。  ここの登記課でさっき使った地図と全国地番地図で地番を調べ、二百円を払って土地登記簿を見せてもらった。  これであの山の所有者がわかる。  地番地図を見る限りでは、あの山一体が一人の所有になっている。あの山は別になにかの用途があるわけではなく登録も植林地になっていて、土地評価格はただ同然のようだ。あの山一体を買ったとしても三十万円にもならない。これだと、たとえこの土地を相続したとしても、相続税は必要ない。  それはともかくとして、登記簿に載っていた所有者の名は鈴木正直となっていた。それを見た二人は、まだ裏もとっていないのに大声を出して喜んでしまった。二人は鈴木の住所と名前をメモると、真佐美の祖母に連絡して、その土地の鈴木正直と、ミサに参加している主犯格の鈴木が同一人物であるかどうか確認をとった。その結果、同一人物であることが確認された。野上は土地のことも聞いてみたが、祖母によると、三十年ごとにミサのメンバーよって名義変更が行なわれているらしい。  そして、二人は岡山に戻った。  鈴木の住む、マンションにむかったのだ。  野上のアバルト695SSは旅館に置き去りになっている。再びここに戻って来るつもりだ。  小林の車で鈴木の家についたときには夕方五時を少しまわっていた。  鈴木はまだ戻ってきていないようだ。  小林は残念そうに、 「出直しますか」 といったが野上は、 「ラッキーですね。中、入りましょう」 と平然とした顔で言った。 「中ですか。えっ? えっー!」  小林は、ドアのノブをごそごそいじっている野上に食ってかかる勢いで、 「何寝ぼけたことを言ってんですか。令状もないのにそんなことはできません。それにどうやって入るんです? 管理人だって鍵は貸してくれませんよ」 と叫んだ。その言葉に野上は、 「こうやって入るんですよ」 といって、ノブを回しドアを開いた。 「どっ、どうやって?」  小林の言葉に野上はニッと笑って針金を見せた。 「今でこそ、こんな探偵まがいのことをやっていますが、元々、追う立場ではなく、追われる立場の人間でしたから。この手のことは十八番なんですよ。嫌なら来なくていいですよ」  野上は部屋に入っていくと、 「行きますよ、行けばいいんでしょ。まったく、野上さんを営業停止にした弁護士会の気持ちもわかるような気がしますよ」 といって、後に続いて入っていった。  1LDKの室内は、非常に物が少なかった。必要最低限の物しか無く、テレビやステレオ、本、雑誌の類などもない。野上はその部屋を見た瞬間、何を楽しみに生きているのだろうかと考えた。あまり、部屋に居着かないタイプの人間なんだろうと、野上は一人で納得して、部屋に不法侵入した目的を達するために捜索を開始した。  部屋には余分な物がないため、捜し物はすぐに見つかった。  捜し物とは鈴木以外のメンバー、十二人の身元だ。その中には外国人の名前も二人、書かれてあった。外人以外は、日記に載っていた名前だ。野上はそれをメモに取ると、鈴木が帰ってこないうちにと、小林と急いで外に出た。  そして、路駐していた車に乗り込もうとしたとき、鈴木が戻ってきた。  痩せ型の長身、眼鏡をかけている。あっさりした顔で、醤油顔とでもいうのだろうか。 昨日、ミサで見た顔だ。  二人は鈴木が部屋にはいるのを確認すると、インターホンのボタンを押した。  一呼吸、間をおいてから鈴木が出てきた。 「なんですか?」  鈴木は不機嫌そうな顔をしている。 「矢掛警察署の小林です」 小林はそういうと、警察手帳を鈴木にみせた。 「刑事さんがなんのようです? それに後ろの人も刑事さんなんですか?」  鈴木は妙なことを聞いてきた。普通はそんなことは聞かないはずだ。やはり、野上のことを知っているのかもしれない。野上は身分を明かすかどうか迷った。しかし、刑事と名乗ったところで追求されるだろう。 結局は、正直に身分を名乗ることにした。 「僕は三村法律事務所の野上というものです。実は少し伺いたいことがありまして…」 「警察に聞かれるような事もなければ、弁護士に話すような事もない。悪いが帰ってもらおうか」  鈴木はそういうとドアを閉めようとした。しかし、小林が制止して、 「ちょっと待ってください。とりあえず話を聞きたいんですよ。もし、嫌だというのなら署にご同行願いますが」 「そんな馬鹿な。なんの権利があってそんなことを」 「実は、権利があるんですよ」  野上はニッと笑っていった。 「公務員の公務を妨害するもの、公務員の協力要請を拒否したものは公務出向妨害の罪にあたるんですよ。このまま拒否し続ける場合、手錠をかけることもできますよ」  鈴木は悔しそうな顔をすると、 「わかったよ。ただし、弁護士と話す権利はないはずだ。席を外してもらおうか」 と切り替えしてきた。野上の予想通りだったが彼はそれに素直にしたがった。  そして小声で、 「小林さん、後はお願いします」 といって車に戻った。  鈴木は野上がいなくなるのを確認して、 「で? 話とはなんなんですか?」 と聞いた。 「ああ、つかぬ事をお伺いしますが、昨晩どこにいましたか?」 「えっ?」 鈴木は予想外の事を聞かれたようで、完全に動揺していた。 「何かあったんですか?」 「ええ、ちょっと。で、どうでした?」 「昨日ですか? 昨日は、家で寝ていましたが…」 「そうなんですか…。何時に寝ました?」 「昨日は疲れていたので早かったですよ。十時前でしたか…」 「おかしいですね、昨日は真夜中に家に戻ってきたのを近所の人が目撃しているんですがねぇ」  ハッタリだ。 「それは何かの間違いでしょう」 「そうですか…、ではちょっと前になりますが去年の十二月三日、六日、二十三日の三日はどこにいましたか?」  鈴木は明らかに表情が変わっている。 「そ…、そんなに前の事を覚えているはずがないでしょ」  鈴木の手がカタカタと震えていた。 「そうですか。ではもう一つ、有森という人はご存じですか?」 「………」  鈴木は完全に言葉を失った。 「どうしたんです」 「いや、なんでもないです」 鈴木は必死に汗を拭い始めた。 「有森なんて男は知りませんよ。誰なんですか、それは?」 「一昨日、射殺された男です」 「どうして、そんな人と私が関係あるのですか?」 「それはあなたが一番よく知っているのではないのですか?」 「なんで私が!」  鈴木が怒鳴った。小林は読み通りの展開に余裕の表情で、 「失礼しました。では泉小夜香さん、真佐美さん姉妹は?」 「いい加減にしてほしいですな。そんな人たちと私とどう関係があるんですか。関係ないでしょう。不愉快です。お引き取り願おう」  鈴木はそういうと、小林がなにをいう暇もなくドアを閉められてしまった。  小林はため息を付いたが、その後ニタリと笑った。  そして、車に戻ると野上に向かって、 「やりましたよ。バッチリです。野上さんの言われた通りでしたよ」 「そうでしたか」  野上もうれしそうな顔をしている。 「あれは間違いなくクロですね。絶対に殺していますよ」 「やっぱりそうですか。後は他のメンバーを調べるだけですね。それは追々ということでいいでしょう」 「それでどうするつもりですか?」 「とりあえず…」  野上は十秒くらい黙りこんで、 「今日はゆっくり休んで、明日考えましょう」 と気合いを込めていった。  小林はこけそうになりながら、 「余裕ですね」 といった。 「そりゃそうです。今まで、気分を張り詰めてたんですから。明日から裏づけをしなければなりませんから、当分ゆっくりできないでしょう」 「えっ、まだやるつもりですか?」 「それって、どういう意味ですか」 「いや、あとは警察に任せるのかと思いまして…」  野上はその言葉を聞いてため息をついた。 「そうですよね、警察に任せることができれば苦労はないんですけどね。それをやると、また有耶無耶のまま終わってしまいそうですから」  野上は完全に小説などに出てくる名探偵になりきっていた。  小林はシラけた顔で、 「怪我人の言うせりふですか…」 といった。  本当なら、野上はこのまま家に帰るつもりだったが、車の事や写真の現像の事もあり矢掛署に戻らなければならなかったので、鬼ヶ嶽温泉に泊まることにしたのだ。  二人はいったん矢掛署に戻ると、小林が現像した写真を持ってきてくれたので野上はそれを預かった。そして、旅館に戻りもう一泊することを伝えると、 「小林さんと出てきますんで」 といった。おかみさんは驚いた顔で、 「これから捜査ですか?」 と聞いてきた。 「ははは、まさか。これから小林さんと飲みにいくんですよ。ちょっと遅くなるかもしれませんが、十時までには帰ってきますから」 「ゆっくりしてくればいいですよ。開けときますから」 「本当にすいません」  野上はそういうと一緒にきていた小林の車に乗りこんだ。  矢掛の町には飲み屋がある。  こんなことを言うと当たり前だと思う人もいるだろうが、飲み屋のない町は岡山県ではざらにある。  特に県北に行くとひどいものだ。飲み屋なんて温泉街以外だと、町内に一件だけ小さなスナックがあるとか、何もないというところすらある。  二人は署の近くにある居酒屋に入った。  最初のうちは事件の事などまじめな話をしていたのだが、酒が廻ってくるとそのうち羽目が外れてきた。  飲み屋で盛り上がる会話といえば、異性のことか、上司の悪口、はたまたわけのわからぬ人生や哲学についての語り合いとなる。  この二人も例外ではなかった。 「上杉の馬鹿ヤロー! 県警なんかくたばっちまえー!」 と小林が立ち上がって叫んでいた。  野上は小林を座らせると、 「誰なんですか、上杉って人。そんな身内の話なんかされてもわかりませんよ」 といった。 「ウチの大馬鹿野郎な署長ですよ。聞いてくださいよ野上さん。あのクソ狸、私を捜査から外しやがったんですよ」 「あっ、なるほどね。じゃあ、僕も一言いわせてもらいます」  野上はそういって立ち上がると、右の拳を振り上げ、 「岡山弁護士会の馬鹿ヤロー! 山田なんか死んじまえー! 俺の金バッチを返せー!」と叫んだ。  今度は小林が、 「誰ですか、山田っていうのは?」 と聞いてきた。 「綱紀委員長ですよ。僕の金バッチを奪った張本人です」 「へぇー」 と小林が感心していると、二人の柄の悪そうな男がやってきた。 「おい、そこの二人。やかましいぞ」  二人の男は各々にそんなことを言うと、野上と小林の襟元を掴んで立たせた。  本来なら謝るだろうし、それがマナーなのだが二人は完全に酔いが回っていたために、「放せよ」 といって、二人とも全く同じように襟元を握っ ている男の手を握り返した。  すると二人の男はこれまた同じように痛みに耐え切れなくなって、掴んだ襟を放した。 野上は調子に乗って小林のブレザーの内ポケットから警察手帳を取り出すと、 「ひかえ、ひかえー、ここにおられる方を誰と心得る。ここにおられるお方こそ、矢掛署刑事課刑事、小林武雄公なるぞ。この桜の大門が目に入らぬかぁ! えーい、頭が高い、ひかえおろー」 と叫んだ。野上はこれでいつもけんかをする。  しかもそれに続いて小林が、 「それにここにいるのは弁護士先生だ。怪我をしているがけんかは強いぞ。お前ら、刑事と弁護士相手にけんかをする勇気があるか?」 と聞いた。  それを聞いた男の一人は、 「ゲッ! やべぇ、いこうぜ」 ともう一人にいって、そそくさと自分の席に戻っていった。  二人はそれを見届け、椅子に座ると小林が、 「ところで野上さん、一つ聞きたい事があるんですが」 といった。 「なんですか?」 「なんで二年間の営業停止になったんです? ちょっと厳しいんじゃありませんか? 私には野上さんは正しいことをしたように見えますがねぇ。やくざとのけんかを除いては」「ハハ、痛いところを突きますね。まあ、学生気分が抜けないといったところですか。酒のからみでやくざとけんかをするわ、探偵まがいな事をするわで司法修習 が終わって正式に弁護士になってから三年間、四度だったかな。弁護士会から警告を受けていたんですよ。まあ、三村兄弟先生の力添えもあってなんとか警告止りだったんですけど。ただ去年の暮れにまたやくざとけんかをして、挙句の果てにマスコミなんかに裁判の判決で暴言はいて、とどめに変死体を発見して警察に殺人犯として逮捕されたんですよ。それはなんとか無罪が証明されましたけど。弁護士会でも、好き勝手やっている僕に我慢がならなかったのでしょう」 「なるほどねぇ。確かにさっきのからみを見てればわかりますよ。けんかっぱやそうですよから」 「私はけんかで金バッチを没収されました。なぁんて、ちょっと古かったかな」 「しかし、すごいですよね。この若さで弁護士でしょ。なりたい人だっていっぱいいるだろうに、頭いいんでしょうね、野上さんは」 「えっ? 僕ですか。馬鹿ですよ、バーカ。自分でもなんで弁護士になれたのかわかりませんよ」 「よくいいますよ、ホントに。怒りますよ。私だって本当は弁護士になりたかったんだから」 「そうなんですか?」 「ええ。でも、大学にすら行けませんでした。 残念ですけど。それなのに一方じゃ、なんで弁護士になったかわからないっていう人もいるんだから、世の中、不平等ですよ」 「すいません」  野上があやまると、小林はあわてて、 「あっ、いや、悪気があっていったんじゃないですから」 と言い返した。 「いや、なんで弁護士になれたのかわからないというのは確かに嘘ですよ。ただ、回りの人がいうほど勉強はしませんでした」 「じゃあ、やっぱり頭がいいんですね」 「それこそ、本当の馬鹿ですよ。ただ、環境ですか」 「環境?」 「そうです。本当に十代の前半は無茶苦茶やっ ていましたから。それが突然、弁護士先生に引き取られたでしょ。普通なら戸惑うだろうし、悟、いや松山も戸惑っていました。でも、僕は好奇心旺盛だから、三村先生の仕事に興味しんしんだったんですよ。だから、休みの時は四六時中先生の書斎にはりついていました。六法も隅々まで目を通していたし、裁判も何回傍聴にいったかわかりません。そんなバックグラウンドがあったから大学での専門もやたら強かったですよ」 「へぇー」 「あと、三村先生に対して憧れみたいなものがあるですよ。先生の口癖が、被告人がどんな罪を犯したのかではなく、なぜその罪を犯したのかを考えろっていうんです。たしかに被告人は罪を犯して他人に迷惑をかけていますが、でもある意味では被告人だって被害者という考え方もできると思うんですよ。家庭環境や回りを取り巻く社会情勢なんかで変わってくるはずです。ただ犯罪者とそうでない人との違いは、そういった環境に対しての免疫があるかどうか、要するに教育なんです。学校だけじゃない、家族も、そして回りの人たちすべてが教育者だと言い切ってもいい。そういう意味では自分自身だって教育者だと思いませんか? 教え教えられ、人は成長していくんです。そういった教育の度合によって人の人格は形成されていくんです。犯罪者は悪人じゃない、病人だ。正しい治療、すなわち正しい教育をしてやれば必ず人は矯正されるはずです。まあ、これをいったためにマスコミの餌食になったんですけどね」  小林は野上の話を聞き終えると感動の眼差しで野上を見つめていた。  野上がこの話をすると、だいたい共感してくれる人と変人扱いをする人と両極端に別れる。小林は前者のタイプのようだ。 「いやぁー、カッコいいですよ。やっぱり違いますねぇ。田舎のさえない刑事とは」 「そんなことはないですよ。世間の目は、ヒーローである刑事と悪役の弁護士で相場は決まっていますから。弁護士といえば、卑怯な手で被害者の弱みにつけ込んで金をガッポリ搾り取ると思われているんですから。女の子にもモテやしない」 「同じ刑事でも、松山さんのように機動捜査隊でバリバリやっていればカッコいいですがね。私等なんか…」 「ずいぶんと意固地になってますね。そんなことじゃ刑事は勤まりませんよ。プライドと責任感の商売なんだから」 「そのことなんですけど…」  小林が急に思い詰めた表情になった。 「実は岡山に戻りたいんですよ。外勤でもなんでもいいから」 「そうなんですか? でもどうして」 「娘が来年受験なんですよ。それで岡山市内の高校を希望してまして。矢掛からだと通学も大変ですし、なによりもこう殺人なんかが続くと、自分の身の危険を感じてしまうんです。私が独り者ならともかく、妻も娘 もいますし、もし私が殉職でもしたら娘はどうなるかと考えたら不安でしてね。もう、課長にも話しましたから。とりあえず来年の四月一日付けで県警本部か岡山署のどこかの課に転属してもらえるよう警務と話を進めてます」「そうなんですか…」  野上は小林の顔を見た。目に涙が浮かんでいる。家族と仕事を天秤にかけ、生きがいを感じている職場を離れなければならない仕事人間のプライドを見たような気分だった。  口では、上司や職場の悪口をいいながらも、実際には刑事という職業に誇りを持っているはずだ。  しかし、小林は警察官なら誰しも憧れをもつ刑事という職を、もっとも大切な家族のために捨てようとしている。 (親はなくとも子は育つ。ホントに親馬鹿だよな…)  野上は小林の顔を見ながら、自分まで切ない気分になってきた。           4  野上が旅館に戻ったのは十時過ぎだ。  ここまではタクシーで戻ってきたのだ。  本当はタクシー代を自分が払うつもりだったが、小林がタクシーを降りるときに一万円を野上のポケットにねじ込んだのだ。  もちろん、野上はいいといったのだが、小林は無理やりに金を置いていった。  しかも飲み屋の金まで払ってもらったのだから、野上は立つ瀬はなかった。  明日は小林にいろいろとおごり返さなければならないと、野上は固い決意で旅館に戻った。  おかみさんに前と同じ部屋へ案内されると、浴衣に着替え、タバコをふかした。  野上はそれほど酔っていない。というより、酔いが覚めてきたといったほうがいいだろうか。彼がタバコを吸い終えるころ、うれしいことにおかみさんがお茶漬を持ってきてくれた。  そしてそれを胃袋に詰めると、露天風呂に入った。風呂から出た後は、ビールを一瓶飲みそのまま寝てしまった。  それからどれくらいたっただろうか。  野上は突然目が覚めた。まだ回りは真っ黒だ。鬼ヶ嶽の川のせせらぎしか聞こえてこない。何だか喉が乾くので起き上がってお茶を飲もうとした。  その時、窓の向こうで動くものを感じた。  野上は起き上がらずに、そのまま右手を布団から出した。そしてさっき飲んだビールの空き瓶を握りしめ、窓の外を見詰めた。やはり動くものがある。どうやら人間のようだ。 その影はしばらくすると動きを止めた。  そして十秒くらいおいてカチッという金属音が聞こえた。拳銃のハンマーを引く音だった。  野上は起き上がると、懇親の力を込めビール瓶を影に向かって投げた。ガラスの割れる音とともに耳をつんざくような銃声が鳴り響く。そして、男の叫び声。野上は立ち上がると、窓のところに駆け寄り外を見た。誰もいない。左腕に激痛が走ってきた。右手で押さえると生暖かい濡れたものを感じた。しかし、そんなことはそれほど気にせずに、左足を引きずりながら急いで部屋を出た。  おかみさんもあわてて野上のところにきた。  そして野上の左腕を見るなり、 「どうしたんです! その右腕」 と叫んだ。 「急いで一一0番してください。拳銃で襲われたんです」 「えっー!」 「急いで!」  野上はそういうと玄関に出て裏手に回った。  そして野上が泊まっていた部屋の前まできた。  そこは後ろがすぐ崖で、人が一人立てるかどうかのスペースしかない。どうやら野上を襲った男は崖から落ちていったようだ。  野上は露天風呂へ行く階段を使い、崖の下まで降りていった。  そこで野上は、浅瀬にうつ伏せになり、頭から血を流している男を見つけた。  近くによって男の首筋に手をあててみたが既に脈はなかった。  野上は満点の星空を見上げ、ため息をつくと、 「正当防衛か、はたまた過剰防衛か。どっちにしてもついてないな」 と呟いた。  それから十分後、旅館の前には十何台のパトカーでごった返していた。  最初に来たのは矢掛署員で、その後一時間遅れで倉敷署の機動捜査隊が駆けつけた。  時間は既に二時を廻っていた。現場検証はそんな時間から行われたのだ。  おかみさんも眠たそうにしている。  野上はほかの部屋で事情聴取を受けていた。  おかみさんや刑事課長には病院に行くよう進められたが、野上は現場検証に立ち会うと言い張り、怪我のほうもかすり傷だったので結局は止血だけを行った。  一通り、刑事に襲われた状況を説明すると、今度は野上の泊まっていた部屋に行き、現場と照らせ合わせながら検証を行っていた。  その間にも、刻々と鑑識の結果が入ってくる。野上は耳を澄ませてその様子を聞いていた。  彼を襲った男は栗田益男二十四歳。岡山市内在住だ。職は地方公務員で市役所の出張所に務めていた。真佐美を襲った有森との接点は全くなさそうだ。野上も会ったことがないし、襲われる覚えもない。ただ、日記に載っていた鈴木の仲間に同じ名字があったが、警察にそのことはいわなかった。  警察は明日から、本格的な捜査に入るとのことだった。  そして凶器の銃は発見されてない。弾は残っていたのだが、口径は二十二でどうやら有森を撃った拳銃と同じだろう。  今、ライフルマークの照合のために有森の時の弾が保管されている、岡山県警別館の鑑識課科学捜査研究所に輸送中だ。  多分、朝方までには鑑識の結果が出るだろう。  それと野上の処分についてはとりあえず無しということになった。  なぜかというと、警察では栗田の死を事故として扱ったからだ。  野上を襲った場所は非常に足場が悪く、後ろは崖で危険な場所だ。  栗田は拳銃を撃った後、逃げようとして足を踏み外したと考えるのが自然だ。  野上が投げた、ビールの瓶もどうやら栗田にはあたってなかったらしい。  あと、栗田の腕から硝煙 反応が検出された。  これで栗田がクロということは決定的となった。  野上は一通りの検証を終えると、署員の中に小林の姿がないのに気がついた。  気になって刑事課長に聞いてみたのだが、 「確か連絡した時、こちらに向かうといっていたが。野上さんが襲われたというので、小林もそうとう驚いていたから来ないはずはないんだけれど」 と同じように心配していた。  野上は嫌な予感がしていた。事件を捜査していた野上自信が襲われているのだ。  刑事である小林が襲われる可能性だってある。  だが、野上の嫌な予感は的中した。  刑事課長のところに制服警官がやってきて耳打ちをしていた。  野上はその警官のいっている事を聞いてしまった。  小林はタクシーに乗ってこちらに向かう途中、そのタクシーが事故を起こしたのだ。  対向車との正面衝突らしい。  運転手は一命を取り留めたらしいが小林は即死だったそうだ。 「わかった、すぐ行く」  刑事課長は急いで部屋を出ようとしたが、野上は課長の腕を掴んで、 「僕も行きます」 といった。しかし課長は、 「なにをいっているんだ。君にこれ以上、つき合ってもらうわけには行かない。君は襲われて怪我を負っているんだぞ」 ときっぱりといった。 「しかし…。僕も行かなければ…」 「しつこいぞ! おい、野上さんを逮捕しろ」 「ちょ…、ちょっと待ってくださいよ。なんで…」  野上は制服警官に手錠をかけられてしまった。 「過剰防衛の容疑と、公務出向妨害の罪だ。これ以上、君を甘やかすわけにはいかない。朝までは身柄を拘束させてもらう。吉田、野上さんを病院へ連れていって、手当てをさせろ。その後、小林君が収容されている病院に連れていってやれ」  刑事課長はそういい残すと、部屋を出ていった。        第七章 暗闇の天使           1  朝を迎え、野上は矢掛の私立病院にいた。  地下にある霊案室のなかで折りたたみ式の椅子を広げて座っている。  左手には三角巾が巻いてあった。  彼の表情には精細がない。  今、目の前に横たわっている人間は、ほんの数時間前まで自分と一緒に酒を飲み、語り合っていたのだ。  それが今では、単なる物体でしかない。  今の野上には何も考えることができない。もう事件のこともどうでもよくなっていた。 そんな時、小林の妻子が現れた。  なんでも、小林の悲報を聞いて妻の和子が倒れたらしい。  確かに野上の前に現れた和子は病人のような顔をしていた。  野上は和子にお悔みをいおうとしたが、言葉に詰まり何も言えなかった。  和子と娘の理香は野上に軽く会釈をした。そして、小林の遺体の前にいき、彼の亡骸を見るとワッと泣き出した。  和子は小林に抱きついて、 「どうして、死んじゃったのよー!」 と叫んでいる。野上はその二人の様子を見て、一度は納まっていた悲しみがぶり返し、涙が溢れてきた。  家族のために職場を替わろうとしていたのに、よりによって交通事故で死んでしまったのだ。  こんな馬鹿なことがあっていいはずがない。  昨日、野上に話してくれた言葉はいったい何だったのだろう。  野上はぶつけようのない怒りにかられた。 (弔合戦だ!)  野上は涙を拭き立ち上がると、二人にあいさつをして部屋を出た。  必ず事件を解決する。たとえ自分が犯罪者になっても、弁護士の資格を剥奪されてもかまわない。  野上はそこまで思い詰めた。  自分を監視していた警官は、 「家まで送りましょうか」 といってくれたが、野上はやりたいことがあったので断わった。  そしてタクシーを拾い、旅館に戻った。  チェックアウトを済ませ、おかみさんにあいさつすると、桐箱をもってタクシーで倉敷市にある小坂医科大学付属病院へ向かった。  もう警察には頼まない。このナイフも警察に渡す気はさらさらなかった。  小坂病院の精神科には親友の医者がいる。  藤井という男だが、その男に頼んでナイフの検査をしてもらうのだ。  検査の結果は警察ではなく、岡山地検に直接差し出すことにした。  小坂病院は規模の大きな病院だ。岡山では岡大付属病院と共に、唯一特定機能病院に指定されている。  野上の持ち込んだ検査は、指紋の検査などは簡単ものだ。ルミノール反応だって単なる化学変化なのだから、過酸化水素さえあれば小学生だってできる。それに過酸化水素じたい、どこででも手に入る。  だから、病院での検査には全く問題はない。  野上は病院につくと、別棟にある精神科病棟の主任室にいった。  ドアをノックして部屋に入るなり、藤井はにやりと笑って、 「なかなか洒落ているじゃないか。似合ってるよ、その格好」 といって野上の傷だらけの体を見て茶化した。  ふだんの野上なら、ここでなにか言い返すのだが今はとてもそんな気になれなかった。 藤井はいつものように、ぼさぼさの頭、こけた頬、眠そうな眼、無精髭に少しズレ落ちた丸めがね、そして食べカスなどでシミの付いたシワくちゃの白衣、まるでどこかの大学の研究室から出てきたような格好をしている。 「申しわけありませんが、ちょっとやってもらいたいことがあるんですよ」  藤井は野上の表情を見て、今、野上の置かれている立場を感じ取った。 「なんだ?」 「これを」  野上は桐箱を藤井に渡した。 「これの検査をやってもらいたいんです」  三村は桐箱をあけ、中を覗いた。 「ナイフ…。指紋か?」 「ええ。あとルミノール反応もやって欲しいんです」 「それで?」 「証拠として地検に提出したいので正式な書類を作ってもらいたいんですよ。書類製作は僕が指示を出しますから、ちゃんとした証明ができればそれでいいです」 「ふーん」  藤井はしばらく考えて、 「わかった。大学にまわそう」 といってくれた。 「ありがとうございます」 「いいよ。その代わり今度おごれよ」 「もちろん」 「ところで、その怪我はどうしたんだ? やばいヤマでも追っているのか?」 「ええ。やばいかもしれません。昨日の晩も、 拳銃を持った男に襲われましたから」 「それって、やばいな。拳銃だろ。警察に任した方がいいと思うがね」 「そうかもしれません。でも、これだけは譲れませんよ」 「そうか」 「じゃあ、僕は帰ります」 「わかった。気をつけろよ」 「ええ」  野上は藤井にあいさつをすると、部屋を出た。  そして、岡署の松山と竹本に連絡を取り、頼み事をすると明日、会う約束をした。  それがすむと今度は瀬戸内新聞の美希と連絡を取り、例の喫茶点で会う約束をして、岡山に戻った。  野上いったん家に戻り、包帯などの付け替えた。そして、再び家を出ようとしたとき、三村がやってきて、 「感情的になるんじゃないぞ。何をしたかではなく、何でしたかだ、忘れるな」 といってくれた。野上は微笑すると、 「ああ、わかってるよ。ありがとう、おやじ」 といって家を出た。なにか吹っ切れたようだった。           2  野上が喫茶店に着いたときには、美希はすでに来ていた。マスターに挨拶をして、テラスに出るなり、 「どうしたの、いきなり呼び出して。なんかあったの?」 と美希が不思議な顔で聞いてきた。 「ちょっと、頼みがあるんだ」  野上はそういうと小林と共に調べた鈴木たちの住所を美希に渡した。 「なに、これ?」  美希は不思議そうな顔で聞いた。 「一連の事件の容疑者。鬼ヶ嶽の」 「えっ?!」  美希の動きが一瞬止まった。そして、 「どうして? もうそこまでわかっているの」 と驚いた顔で聞いてきた。 「一様ね。後は裏を取るだけという段階かな」 「へぇ。それで私に何を?」 野上は美希に渡した紙をテーブルの上に置いてもらうと、 「ここに載っている、二人の外国人。ロバート・パーマーという人間とカミーユ・J・ワトキンス。二人の略歴が知りたいんだ」 「岡山に在住か…」 「こっちに来てからのことは、僕が調べるよ。だから、住所から母国の事とか、日本に来るまでの事を調べてほしいんだ」 「それはかまわないわよ。しかしあれねぇ。話には聞いてたけど、派手に怪我、したわねぇ。そんな体で、捜査できるの?」 と美希はニタニタ笑いながらいった。 「いや、まあ大丈夫だとは思うけど…」 「なんなら、手伝ってあげようか。どうせウチの記者に任せておけば、調べてくれるし、母国の事は現地の記者に任せなきゃぁ、調べることはできないわよ。どう?」 「暇なのか?」 と野上は不思議そうに聞いた。  その言葉に、美希はカチンときたようで、 「なによ、その言い方。もういい、帰る!」  といって立ち上がった。それを見た野上はあわてて、 「ごめん、ごめん。悪かったよ。手伝ってください」 といいながら、頭を下げた。  美希の女らしい一面を見た気分だった。  その後、美希は新聞社に外国人二人の略歴を調べてもらうよう頼んだ。そして彼女の車でロバート・パーマーの住むアパートに向かった。  彼が住んでいるのは、岡山市津島中四丁目だ。  津島中は岡山駅のほぼ北に位置し、岡山理科大学のふもとにある町だ。理大は大学、付属高校、専門学校などがある総合学園で半田山の頂上に建っている。  その、山のふもとの岡大と挟まれるように住宅地があることから、学生街として発展している。  そういった理由から、この辺り一帯は非常に学生アパートが多い。ロバート・パーマーが住んでいるのも、そういった学生アパートだった。  二人は岡大キャンパスに車を止めると、ロバートのアパートへ向かった。彼の住んでいるのは木造二階建てのアパートで、お世辞にもきれいなものとはいえなかった。管理人もそこには住んでいないようなので、他の住人に話を聞くことにした。  美希がドアをノックすると、眠そうな顔をした二十歳くらいの青年が、のっそりと現れた。寝ていたようで、服装もTシャツにトランクスのパンツというだらしない格好だ。  しかも、訪れたのが女性というのに別段、驚いた様子はなかった。普通なら、こんな格好をしている時に、女性が現れたら、少しはあせると思うのだが…。 「なんかよぅスッか? 新聞は取ってますよ」 と男は眠そうにいった。なにやら勘違いをしているようで、 「僕は三村法律事務所の野上というものです。こちらは井沢。これ名刺です。なにかあったらなんなりと」 と宣伝をしながら名刺を渡した。美希はひきつった顔で無理矢理営業スマイルをつくって立っている。 「弁護士さんですか…。なんのようですか?」 「ちょっとお伺いしたいんですが、となりの部屋に住んでいるロバート・パーマーさん。彼、学生さんなんですか?」 「えっ、ええ。岡大の工学部だったと思いますけど。留学のようですよ」  男は少し、驚いている様子だった。彼になにかあったのではと思ったのだろう。 「そうなんですか。彼がこのアパートに来たのはいつ頃ですか?」 「さぁ、俺が去年の秋に引っ越したときにはすでにいましたよ。けっこう、長いんじゃないですか?」 「なるほど。だったら彼の友達とかは知りませんか?」 「さあ、何しろ学部が違いますし、立ち話くらいしかしませんから」 「日本語はできるんですかね? 彼」 「ええ、普通の会話くらいなら、できるみたいですよ。時々、聞き取れないことがあるみたいですけど」 「どんな人ですか? ロバートって人は」 「そうですねぇ、普通の愛想のいい外人さんってとこですか」 「その、普通ってところがわからないんですけど」 「ああ、本当に近所付き合いのいい人ですよ。挨拶もちゃんとできるし」 「なるほど。ところで、ここの管理人はどこにいるんですか?」 「たしか、不動産屋だったと思いますよ。管理人みたいな人は雇ってないようだから」 「どこですか?」 「吉田不動産です。すぐ近くですよ。住所は確か…」  男はそういって、部屋の奥に引っ込んだ。そして、しばらくたって戻って来ると、 「学南町二丁目の〇☆◇です」 といった。 「どうもすいません」 野上はメモに書き取ると、お礼をいって帰ろうとした。しかし、男も気になるようで、 「弁護士さん、なんかあったんですか?」 と聞いてきた。 「いえ、たいしたことではないです」 「ちょっと位、教えてくださいよ」 「すいません。この商売、秘密厳守なんですよ。失礼します」  野上はこれ以上、いろいろ聞かれるのが嫌なので、美希を連れて一目散に退散した。 アパートを出ると、いきなり美希は、野上に食って掛かった。 「なんなのよ、今のは! いつから、私は三村事務所の人間になったのよ」 「あっ、ごめん。つい勢いでいっちゃったんだよ。それに、弁護士とブンヤが一緒に聞き込みをしてたら変だろ?」 「なにいってるのよ。だいたい弁護士事務所の人間が訪ねて来るなんて不自然でしょ。新聞記者が二人、外国からの留学生の取材ってことにしとけば相手も怪しまなかったのに」「だったら、そういってくれればよかったのに」 「なによ。私が言おうとしたら、あなたが先にいっちゃったんでしょ。どうするよ、本人の耳に入ったら。弁護士がかぎまわってるなんて知ったら、大変よ」 「それは大丈夫だよ。もう、鈴木たちも僕のことは知ってるし」 「バカ! それで、人一人が死んでるのよ。あなたの軽率な行動のために」  野上を襲った栗田のことだ。 「人のこと、いえるのかよ。いつも、やばい仕事ばっかりもってきて、自分は高みの見物のくせに」 「だから、こうやって手伝ってるんでしょ」 「一番おいしいところだ持っていくくせに」 「ふざけないでよ!」 「ふざけるな!」  いつものように、二人の喧嘩が始まった。しかしこの二人、どんなにすごい喧嘩になっても、その仲が終わることはない。  不思議なもので不動産屋につくと二人の喧嘩はピタリと止まった。  本来は仲が悪いのだが、互いにプロ意識が強く、仕事になると手を結ぶことができるのだろうか。それとも、いつもは喧嘩をしているが、互いに心の奥底で尊敬し合っているのだろうか。そのあたりは謎である。  二人は不動産屋で、話を聞くのに少し手間取ったが、二人の巧みな話術と絶妙のコンビネーションでなんとか話を聞かせてもらうことができた。  この二人、喧嘩をした後、不思議と息が合う。さて、不動産屋から聞き出した情報だがロバート・パーマーはイギリス出身で三十一歳、イギリスではロンドンに住んでいたらしい。来日は二年前の春で正式な留学だそうだ。  確かに、小夜香が心中事件に巻き込まれた頃とほぼ一致している。ロバート・パーマーはこのくらいにしてカミーユ・J・ワトキンスを調べようとしたが、時間的に無理だと判断し今日は解散して、翌日の朝、落ち合うことにした。           3  翌朝、八時に野上と美希の二人は例の喫茶店で落ち合った。  今日は午前中にカミーユ・J・ワトキンスの所に行くつもりだ。  午後には松山たちと、ここで落ち合うことになっているのでゆっくりしている暇はないのだが、二人はテラスでくつろいでいた。  モーニングをつつきながら、二人の外人について話をしていたのだ。 「カミーユ・J・ワトキンスの事なんだけど、行く必要はないみたいね。ウチの記者が調べてくれたのよ。彼女、歳は二十八歳。ロバートと同じイギリス国籍になっているわ。倉敷で英会話教室を開いていて結構人気みたいよ。来日も同じく二年前ね。イギリスに別件で取材に行っている特派員から第一方がきたんだけど、二人ともどうやら黒魔術を本格的にやっていたようね。向こうじゃ、その手の話は御法度のようで詳しいことはわからないわ。でも、二人は泉小夜香の代役として来日したと考えて間違いないわ」  美希はその事が書かれている資料を野上に渡した。  野上はそれを眺めていた。 それを見た美希は野上の顔をのぞき込んで、 「で? どおするの?」 と聞いてきた。 野上はしばらく考えて、 「とりあえず、行ってみるか」 といった。  そして十分後、二人はモーニングを食べ終え喫茶店を出た。  二人が倉敷についたのは十時前だ。朝の通勤ラッシュと重なって、一時間以上かかってしまったのだ。普段、野上の住む門田本町から倉敷までは、新国道二号線を使って一時間弱だから、時間的には三十分近く余分にかかってしまった。  さすがに、十時を過ぎると倉敷駅前も比較的空いていた。二人はカミーユ・J・ワトキンスの英会話教室が入っている、駅前の貸しビルに行った。  ビルはそれ程大きくなく、五階建てのものだ。どうやら建てたのは十年以上前のようでお世辞にもきれいなものとはいえなかった。  教室が入っているのは二階のようで、二人はその教室をのぞいてみた。  やはり閉まっていた。考えてみたら英会話なんて社会人相手が主なのだから、午前中 に開いているはずがない。 「どうするの? わざわざ倉敷まで来たのに」 と美希が不服そうにいった。 「まあ、真っ昼間からこんなところが開いてるはずはないってわかってたけどな」 と野上は強がりをいっている。 「よく言うわよ」  美希の冷たい視線が野上に浴びせられた。  二人はしばらく考えるとビルの外に出た。ビルの名前はタカヤマビルとなっている。よく調べてみると社名と電話番号が書いてあった。社名はビルと同じようにタカヤマ・コーポレーションとなっている。  それを確認すると、早速電話ボックスに入り、タウンページで住所を割り出した。  事務所はこのすぐ近くになっている。本社は岡山市にあるようで倉敷にあるのは本当にただの事務所のようだ。  二人は事務所に顔を出すのは後にして、とりあえずビルを借りているほかの会社で聞き込みをすることにした。  ビルの中に入っている会社は英会話教室をのぞいて三つ。  一階に喫茶店と弁当屋が入っていて、三、四、五階は一つの会社が入っている。  その会社は土建屋の事務所のようで松田建設と看板が掲げてあった。  事務所が独立しビルの三フロアーも独占しているのだから、さぞ大きな土建屋なんだろう。二人が三階の事務所の中に入ると、中で働いていた人の目が一斉にこちらに向けられた。野上はあわてて、 「あっ、三村法…」 と言いかけた瞬間、美希のハイヒールのかかとが野上の足を踏みしめた。 そして、 「すいません、お忙しいところ。私たちは瀬戸内新聞の記者ですけれど、二階の英会話教室のカミーユさんについてお伺いしたいんです」 と美希が営業スマイルをつくりながらいった。野上は隣でひきつった笑顔で立っている。ところで美希は名刺は出してない。なぜなら、社会部の事件記者が取材に来たとなれば、相手が何事かと思うからだ。  事務員らしき女性が立ち上がって、 「あのぉ、彼女になにかあっんですか?」 と聞いてきた。 「いや、違うんです。じつは今、瀬戸内新聞でやっている『地域の明日を考える』というコーナーで今度、一ヶ月くらい『国際都市に向かって』というのをやるつもりなんです。それで、国際都市として、岡山県民が外国人をどのように扱っているかを聴こうと思いまして」 「あっ、そうなんですか」  事務員の表情から緊張が解け、美希も、 「そうなんです」 と再び営業スマイルをつくり答えた。  しかし、そんなものは真っ赤な嘘である。今、岡山県が真っ先に取り組まなければならないのは、県北の過疎化対策と岡山駅周辺の都市再開発計画だ。 「そんなわけで、カミーユさんの事についてなんですけど、面識はありますよねぇ」 「ええ、多少は」 「どうですか? 倉敷の町に順応しているようですか?」 「さぁ、どうでしょう。実際にはわかりませんけど、私たちから見れば、なじんでいるように見えますよ。下のお弁当屋さんで時々話をしますけど、愚痴なんかも言わないし、生徒さんと接しているのが楽しいなんていってましたから。この町のこと、結構気に入っているみたいだし」 「そうなんですか。じゃあ、倉敷にも友人はいるんでしょうねぇ」 「ええ、多分」 「だったら、付き合ってる男性とかもいそうですね」 「えっ?」  事務員の表情が変わった。 「どうしてそんなことを?」 「いや、ほら、もし地元の人と付き合ってて、結婚って話になったらすてきだなぁと思いまして。国際結婚なんかしていたら今回のテーマにぴったりでしょう」 「そうですよね。すてきですよね」  事務員の顔が再び笑顔に戻った。単純な娘らしい。 「そういったところ、見たことありません?」 「いや、見たことはありませんけど」 「普段、彼女は何時頃に教室に入るんですか?」 「いつもは、お昼の二時頃です」 「そうなんですか? それと土日に教室は開いていますか?」 「さぁ、うちの会社が週休二日なんで、私にはわかりません」  美希はしばらく考えた。  彼女に、カミーユのことを細々と聴くのは酷だろう。  その時、野上が、 「ほかにこの会社で、彼女と付き合いのある方はいませんか?」 と聴いてきた。 「いないと思いますけど」 「そうなんですか…」 野上はあきらめたように、 「行こうか…」 と美希にいった。 「そうね…」 とぽつんと言うと美希は事務員に、 「お邪魔しました」 といって外に出た。 「どう思う?」  野上が階段を下りながら美希に聞いた。 「全く、学習って言葉がないわよね、あなたには。何度いったらわかるのよ。あそこで、弁護士なんていったら怪しまれるだけでしょ」 「癖なんだよなぁ」 と野上がポツリとつぶやいた。 「なおした方がいいわね。今、あなたは弁護士でも何でもないんだから。捜査の障害になるわよ」 「それも時と場所によりけりだと思うけどね」 「それもそうだけど、今の聞き込みの対象は在日している外国人よ。近所の人が聞いたらなんて思うの?」 「なれない土地に来て、いろいろ苦労してるんだろうなぁって思うだろうな」 「それもそうだけど、なにか、事件に巻き込まれたりとか、事件を起こしたって思われたらどうするの?」 「それは、偏見だよ。それに言いようによっては相手の同情を買うこともできる」 「それは私が思っている事じゃないわ。世論が外人に対して思っている事よ。弁護士やってるなら日本人の差別意識ぐらいわかるでしょ」 「今、そんなことを論じあってる場合じゃないんだけどなぁ」 「あなたがいい始めたことでしょ」 「僕が? まさかぁ」 「じゃあ、私がいい始めたって言うの?」 「違うのか?」 「違うわよ!」 と喧嘩をしている、仲睦まじい二人であった。             4 岡山警察署、機動捜査隊の松山と刑事一課捜査一係の竹本は約半年ぶりのコンビ復活を経て、鈴木の住んでいるマンションの前にいた。これの経緯には、裏に複雑な政治的事情が絡んでいる。つけくわえるなら、松山の義理の叔父は代議士である。  近所の住人に話を聞いたところ、鈴木はここ二、三日、会社を休んでいるそうだ。会社の方にも、電話で友達の振りをして聞いてみたのだが、無断欠勤だと言う。  二人はとりあえず、鈴木の部屋に行ってみた。  竹本がインターホンを押したが反応がない。しかし、鈴木が部屋にいることははっきりしているので、竹本も意地になってインターホンを連打した。  鈴木は嫌気がさしたらしく、不機嫌そうな表情で玄関に現われた。  ドアのチェーンは掛けっぱなしだ。竹本はとっさに開いたドアの隙間に足を入れ、ドアが閉まらないようにするとニタッと笑って、 「岡山署の竹本です。こちら、松山刑事」 といって、警察手帳を鈴木に見せた。 「刑事さんがなんのようですか?」 「ちょっと、お伺いしたいことがありまして。中に入れてもらえませんか」 と竹本が言うと渋々と中に入れてくれた。  竹本はリビングのソファーに座ると早速、 「じつは先日、美星町の鬼ヶ嶽温泉で事件が起きました。その件で、ちょっとお伺いしたいことがありまして」 と切り出した。 「そんなことを言われても、私には何のことだかわかりません」  鈴木は不満そうだ。 「野上さんという方が襲われた事件のことです。これはマスコミには公開していませんがその野上さんを襲った男は逃走中、凶器として使っていた拳銃を何者かに奪われ、射殺されました。そのときに使用された拳銃が三日前に起きた殺人事件に使用されたものと一致しましてね。我々としては同一犯としてこの事件を追っているわけです」 「しかし、その事件と私とどういう関係があるのですか?」 「そのことなんですが、この二つの事件にはあまりにも共通点が多すぎるんですよ。一つは、三村法律事務所の野上経義。そしてもう一つは、倉敷のデパートに勤務している泉真佐美。野上さんは、泉さんの依頼である捜査をしていました。この事件はその捜査の妨害以外の何物でもないと言うこと。そして、あなたのところに来た理由はどちらの事件でもあなたが目撃されているという点です」  もちろんハッタリだ。 「ちょ、ちょっと待って下さい。何で私がそんなところにいなければならないのですか?だいたい、倉敷と美星の事件になんで岡山署のあなた方が出て来るんですか?」 「へぇ、あなた、以外と警察に詳しいですね。しかし、管轄がどうの県境がどうのといっていたのは一昔前の話です。今では警察庁、管区警察局を中心に、各地方の公安委員会、都道府県警が互いに協力しあい連携を強めています。現在の凶悪犯罪は広域化の一途をたどってますからね」  竹本の嘘八百が炸裂した。竹本の得意技だ。  それを後ろから眺めていた松山は少々あきれた表情で、 「確かに不満はあると思います。美星や倉敷であなたの顔を知っている人は誰もいませんから。しかし、我々もプロですから、裏付けは取っています。あなたは、事件のあった当夜、自宅にはいませんでしたね」 といった。 「何でそんなことを。私は、十七日の夜には自宅で寝てましたし、二十日には中央町の飲み屋で飲んでいました。そんなはずはない」 「そうですか。しかし、付近の人があなたをちゃんと目撃していますし、なによりも、事件のことを知らないはずのあなたが、なぜ事件の起きた日にちを知っているのですか」  鈴木の表情がみるみると青ざめていった。 「それに、倉敷と美星であなたを目撃したのは、ほかの誰でもない、野上経義ですよ」  鈴木は完全に動揺している。まともに口もきけそうにないし、全身がカタカタと震えている。 「野上はあなたは面識があるはずです。その彼が、はっきりとあなたの顔を見ています」 今度は野上までだしに使われた。 「そ…、そんなばかな」 「かれは、弁護士の資格を持った法律事務所の職員です。警察がどちらの言葉を信じるかはおわかりのはずです。今回は、裁判所に逮捕状を請求するつもりも、任意同行を求める気もありません。ただし、証拠隠滅のために野上を殺そうとしても無駄だと言うことだけは伝えておきます。警察の目が光っていますから」  松山は、そう言うと竹本に、 「帰るぞ」 といって立ち上がった。  竹本も立ち上がり挨拶もせずにすたすたと玄関の方へ歩いていった。  そのころ野上と美希は、倉敷市街地をぐるぐると回っていた。  いろいろなところを聞き込みしているのだが、なかなか実になる情報というのは入ってこない。  どこにいっても、感じのいい人だ、礼儀正しい、清潔感がある、日本の文化になじんでいる、おもしろい、愛想がいい、結婚したい、愛しているなど、いいイメージの話しか聞こえてこない。  結論としては、ロバートにしろ、カミーユにしろ、表と裏の顔を持っているようだ。  二人は、時間を考えそろそろ岡山に引き上げることにした。  そして、そのついでに真佐美の入院している病院へ行くことにした。真佐美の入院している病院は倉敷のはずれにある。旧国道二号線沿いで岡山の帰り道だ。  五階建ての小さな外科病院で病室もそれほど多くない。  野上は美希とともにお菓子を買い真佐美の入院している病室へ向かった。そして護衛の警官に挨拶をして中に入った。  真佐美はベットに座ってボーとしていたが、野上の顔を見るなり急に笑顔になった。 「野上さん、わざわざ来てくれたんですか?」 「ええ、ちょっと通り道だったんで」 と野上は言っておみやげのお菓子を真佐美に手渡した。 「ホントにどうもすいません」 と真佐美が言うと、美希に気がついたようで、 「そちらの女性は?」 と聞いてきた。 「あっ、私は瀬戸内新聞社会部の井沢というものです」 と美希はいって、真佐美に名刺を手渡した。 「瀬戸内新聞ですか…」  どうやら真佐美は、美希を警戒しているようなので、野上は、 「彼女、僕のタレコミ屋なんですよ。よく、捜査なんかで情報をリークしてくれたり、僕の代わりに動いてもらったりしていましてね」 とフォローをいれておいた。 「ところで、体の調子はどうですか?」 「ええ、ほとんど問題はありません。明日には退院するんですよ」 「へぇ、それはよかった」 「抜糸は二週間後らしいんですけど、傷跡も全く残らないみたいで少し安心しました」 「でも、退院したらどうするんですか? 自宅にまで、警察官を護衛に当たらせるわけには行かないでしょう。近所の目もありますし」 「ええ、おばあちゃんの家にでも行こうと思っているんです。一人でいるよりは安全だろうし、お婆ちゃんと一緒だと安心できますから」 と真佐美は笑いながら言ったがやはり少しは心配しているようだ。しかし、あのおばあちゃんのキャラクターを考えれば、確かに一人でいるよりは安全かもしれない。  しかし、真佐美の不安は別のところにあったようだ。 「ただ、おばあちゃんと連絡が取れていないんですよ」 「というと?」 「私が入院したとき電話があって、看病のためにすぐ行くからっておばあちゃんが言ってたんですけど、それ以来連絡が付かないんです」 「自宅にいないって事ですか?」 「はい。何度電話をしても通じなくて…。もしかしたら途中で事故にでも遭っているのかと思って警察の人にも調べてもらったんですけど」 「結局のところはわからずじまいですか」 「ええ」 「そうですね。じゃあ、今日の午後にでも行ってみますよ。おばあちゃんの家」 「本当に申し訳ありません」  真佐美は深々と頭を下げた。  野上たちはしばらく真佐美と雑談した後、松山たちとの約束の時間が迫ってきたので引き上げることにした。  美希はロビーで新聞社の方に連絡を入れると、二人は岡山へ戻った。        第八章 祈り           1  野上はいつもの喫茶店のテラス席にいた。  そこでいつものようにタバコを吸っていた。  周りはだいぶん暖かくなってきた。昼間は額に汗が滲むくらいだ。  桜も散ってしまい、ゴールデンウィークも目の前に迫ってきた。  ずいぶん、この事件に関わってきたような気がする。  ほんの半月ほどだが、いろいろなことがあった。  小夜香と初めてあったのもこの場所だ。  彼女はいったいどこにいるんだろう。このまま姿を現さないかもしれない。  最初に会ったとき、確かに不思議な感じがした。神秘的とでもいうのだろうか。  妹を捜してほしい…。  すべてはこの一言から始まった。  それも、もうすぐ終わる。  野上は街を見下ろしながら紅茶を口に運んだ。  目の前にはいつものメンバーが見える。  松山悟と竹本龍宏、そして隣には井沢美希がいる。  野上にとって、かけがえのない友人であり、もっとも信頼のおける仲間だ。  困ったときには助け合い、本来なら保持しなければならない秘密もここにいるメンバーには打ち明けてきた。  しかし、考えてみると四人が一度に集まったのは初めてかもしれない。  そんな機会はないし、なかなか互いの都合が合わず現実には不可能だった。  そんな四人が集まった。  一つの事件を解決するために。 三人とも野上のこと理解解している。利害のために事件を解決しようとしているのではないということを。  だからこそ、彼に協力しているのだ。損得感情を後回しにして。 「真佐美ちゃんのおばあさん、ウチの記者を行かせたんだけど、やっぱり留守みたいなのよ」  野上の体がピクリと動いた。  まさかとは思うが、否定はできない。 「悟、なんとか家宅捜査できないか? 嫌な予感がするんだ」 「無理だろうな。それはそれで考えよう。それよりも、お前にいわれた通り、今日タツと二人で鈴木に会ってきたぞ」  タツとは竹本龍宏のことだ。 「どうだった」  野上が聞くと竹本が、 「あれはクロだよ、クロ、真っ黒。完全に動揺していた。二、三日中に動くんじゃないかな」 といった。 「それで盗聴機のほうは?」 「バッチリだよ」  竹本は親指を立てている。彼はこの系統を含め、電子関係や通信関係にも強い。 「じゃあ悪いけど二、三日の間、はっといてくれるかな。鈴木を」 「任しときぃな」  竹本は昔、大阪にいたために時々関西弁が出る。 「それから、昨日ツネを襲った犯人の鑑識結果が出たぞ」  今度は松山がしゃべり始めた。 「ツネを撃った銃の弾と真佐美を襲った有森が殺されたときの弾丸のライフルマークが一致した。それと、栗田の検死の結果、体内から弾丸が検出された。弾は左のあばらを砕いて心臓のド真ん中で停止していたらしい。直接の死因はそれらしいんだが、その弾丸も、二十二口径で、ライフルマークも一致した」 「本当か?」 「ああ。それともう一つ、お前が襲われた時間の鈴木のアリバイは立証できそうにない。その時間は一人自宅で寝ていたというが、当然、それを実証できる人間は誰もいない。ちなみに真佐美が襲われた日もしかりだ。その日は仕事が終わった後、一人で飲み屋街をうろついていたらしい。いった店もすべて聞いてきたから今晩にでも裏は取るつもりだが、鈴木のアリバイは実証できないだろう」  野上の表情が少しだけ明るくなった。 「そこから食い込めそうだな」 「そうだな」 「裏取りのほうは悟に任せるよ。美希にはもう少し付き合ってもらいたいんだけど。これから暇?」  野上は美希に聞いてみた。 「暇じゃないけど、つき合えといわれればつき合うわよ。なに?」 「これからドライブに行かないか?」 「どこに?」 「美星町まで。真佐美の祖母が気になるんだ。つき合ってよ」  美希はしばらく考えて、 「仕方がないわね」 といってくれた。  それから四人はその場で解散した。  そして野上は美希の車で祖母の家に向かったのだ。  美星に行く途中、矢掛署の前を通ってみたがやはり捜査本部の看板が掲げられていた。 県警の覆面車も止めてある。  看板は二つで、一つは鬼ヶ嶽ダム連続殺人死体遺棄事件とあり、もう一つは鬼ヶ嶽殺人事件となっていた。  警察は二つの事件に対してどう動くつもりなのか。  そして二人が祖母の家に到着したときは既に五時を廻っていた。  玄関の前で野上は、 「ごめんくださーい」 と何度も叫んだが返事はない。  玄関も鍵がかかっているし、家の周りをグルリと廻ってみたが、すべてしまっていた。「どうするのよ」  美希が不安げな顔をした。 「とりあえず、中に入ろう」 「どうやって!」  野上は怒っている美希に手袋を渡し、 「これ、手にはめててよ」 というと自分も手袋をつけ、ポケットから針金を取り出した。  鍵開けは野上の数少ない取り柄だ。今更いうこともないが、中学生の頃はよくやっていた。  まもなく鍵は開き、二人は恐る恐る中に入った。  玄関には祖母の突っ掛けが残っている。これで基本的には外出していないことになる。「おじゃまします」 と二人は小声でいうと、家の中に上がっていった。  台所に行くと、料理の支度がしてあり、そのままになっていた。まな板や包丁、切られた野菜などが置いてある。  風呂場にも水が張っていた。  次に居間に行くと二人は息を飲んだ。 「どうするのよ。警察に届けなきゃ…」 「僕たちは不法侵入だぞ。そんなことしたらまたワッパをかけられる」 「あんたが入ろうっていいだしたのよ」 「あっ、自分だけいい子になって」 と二人は小声で言い争った。  居間が荒らされていたのだ。  こたつ机はひっくり返り、湯飲みや菓子が転がっている。ガラスも何枚か割れていた。 祖母は拉致されたに違いない。  野上と美希は居間で、いつまでも言い争っていた。           2  翌日、野上は喫茶店のテラス席にいた。  やはりここが一番落ち着く。  昨日はあのまま、鍵を掛け直し、二人で逃げた。美希には祖母の足取りを追ってもらっている。  そして、松山と竹本からも連絡が入ってきた。  松山のほうだが、やはり鈴木のアリバイは立証できなかった。  その日は、会社も休んでいたのだ。  そして、盗聴の成果もあった。  基本的に証拠としては扱えないが、ひとつ、うれしい情報が入ったのだ。何処とはいわなかったが、祖母は生きているらしい。  何処かの家に拉致されているようだ。  そして、鈴木の電話の内容から、野上、松山、竹本、美希の四人の名前も出たという。 そして、大物代議士の名前も出た。  三村弁護士と、県警、そして瀬戸内新聞に圧力をかけるために鈴木が秘書に頼んでいたのだ。  しかし、代議士がこの事件に絡んでいるとは考えにくい。そうかといって、鈴木に政界とのパイプがあるようにも思えない。  ほかのメンバーにもそういった人間はいなかった。  考えられるとすれば、黒魔術のほうで代議士が、鈴木に何かを依頼していたということだ。  誰かを失脚させるよう呪ってくれと…。  現実ばなれした話だが、権力者には有りがちな話だという。  そのもっとも有名な話は、アドルフ・ヒットラーであり、彼は占いによって政治を進めていたという。  後一つ、鈴木の口からおぞましい話が出た。  小林を呪い殺したというのだ。野上には偶然としか思えないが、それでも鈴木が小林に殺意があったことを証明できた。  野上は一通り報告が入ると喫茶店を出た。  そして、怪我をした野上でも運転できるようにオートマ車をレンタカーで借り、真佐美が入院している病院に向かったのだ。  真佐美が今日退院するからだ。  野上はいっぱいの薔薇を持って真佐美を迎えにいった。  警備にあたっていた警官にあいさつをして、病室に入ると真佐美は既に服を着替え終えて荷物をまとめていた。 「退院おめでとう」  野上はそういうと真佐美に薔薇を渡した。  真佐美ははちきれんばかりの笑顔で野上を迎えると、 「わぁ! 奇麗!」 と子供のようにはしゃいだ。 「ありがとうございます。嬉しい。でも今日、野上さんが来てくれるとは思いませんでしたよ」 「ちょっとね、真佐美さんにつき合ってもらいたいところがありまして」 「えっ? なんです?」 「真佐美さんが前、住んでいたところに行きたいんです。無理にとはいいませんよ」  真佐美の表情が一瞬曇った。しかし、また前の明るい顔に戻って、 「いいですよ。もう、今日は何でもしちゃいます」 といってくれたが、 「でもその前に一つ聞きたいことがあります」 と再びまじめな顔をして聞いてきた。  野上は恐る恐る、 「なんですか」 と聞いた。祖母のことを聞かれると思ったのだ。しかし真佐美は、 「昨日の人、野上さんの彼女ですか?」 とくだらない質問をしてきた。  昨日、野上と一緒に見舞いにきた美希のことだ。  野上はそれを聞くと大笑いして、全然そんなことはないと疑いを晴らした。  そして、祖母のことを一通り説明して、二人は住吉町の更地に向かった。真佐美の家があったところだ。  野上は最初に小夜香と入った家が気になっていたのだ。あの家は二年前に火事で焼け落ちたはずだ。しかし、野上は家の中に入った。二人はそこについたのだがやはり更地だった。小夜香が残した住所も間違いなかった。では野上が入った家は何だったのだろうか。二人は車を降りるとその更地の中に入った。何も変わっていない。  焼け焦げた建築廃材が土に埋もれた状態で散乱していた。 「やっぱり、何もありませんでしたね」  野上はぽつりと呟くとタバコに火をつけた。 「なんだったんですか」  真佐美は不思議そうな目で野上を見た。 「小夜香さんと初めてあった日、僕は家の中を彼女に案内されたんです」 「ホントですか?」 「ええ。でも、あらためて来るとこんな状態で、その時に入った家は何だったのかなぁーと思いまして」  野上と真佐美はそこで並んで考え込んだ。  そして、野上が一言、 「帰りましょうか…」 といい振り返るととぼとぼ歩き始めた。  そして車に乗りこもうとしたとき、後ろについてきた真佐美が、 「の…野上さん…」 と呟いた。 「どうしたんですか?」 と野上が聞いて振り向いた瞬間、さっきまで更地だった場所にこつ然と家が現れたのだ。 それは確かに野上が訪れた家であり、真佐美が住んでいたものだった。 「これはいったい…」  野上は完全に言葉を失ってしまった。  それは真佐美も同じだ。  二人は恐る恐る家に近づいた。  本物の家だ。幻でもなんでも無い。  そして野上が針金で鍵を開け、扉を開いた瞬間、 「うっそー」 という真佐美の第一声が野上の耳に飛び込んできた。  野上も玄関の中を覗いてみた。真佐美の言葉がなるほど、納得できた。  とはいっても、野上は驚きようがない。なにしろ、初めて来たときと何等変わっていないからだ。  要するに、あたかも人が暮らしているような奇麗さ、気持ち程度の散らかりよう、そしてなによりも、人が住んでいる匂いがする。  もちろん、感覚的なものだ。 「なんで…、なんで燃えた家が…?」  真佐美が、驚きのまなざしで聞いてきた。  それに対して野上は難しそうな顔で、 「さあ…」 と答えた。それしかいいようがない。  真佐美が家に入ろうとするのを野上が制止した。 「指紋、足跡、ホコリの付着状態。専門家に調べてもらった方がいいかもしれない」 「警察ですか?」  野上は、答えようとしなかった。  迷っているのだ。本当のことをいえば、これから先は警察のテリトリーだ。現に真佐美は命を狙われ、小夜香も姿を現してない。そして、祖母も一刻を争う状態だ。  しかも、祖母の家に不法侵入したばかりである。  なんにしても野上には何が何だかわからなくなっていた。当然である。  さっきまでなかった家が突然現れたのだ。  夢か幻か、そうでなければこれはいったい何なのだ。  野上は、大きくため息をつくと、 「行きましょうか」 といって中に入っていった。  玄関から応接間、リビング、ダイニング、各部屋とも、当時のままのようだ。それは、真佐美の表情でわかる。  最後に小夜香の部屋に入った。ここも当時のままであり、野上が小夜香に真佐美の部屋だと案内されてはいった部屋だ。  そして、机の上に一枚の紙が置かれていた。  置き手紙のようだ。野上はそれを手にとって読み始めた。 「ごめんなさい、野上さん。本当にごめんなさい。あなたには大変ご迷惑をおかけしました。そして、真佐美や祖母のこと、本当にありがとうございます。でも、もうすぐ終わりです。すべては私が原因で起きたことです。だから私自身けじめをつけます。最後に鈴木のことをお願いします。真佐美のためにも」  野上はいったん読むのをやめた。そして深呼吸して再び読み始めた。 「それから真佐美、あなたにも謝らなければなりません。ごめんね、苦労ばかりかけて。私のこと恨んでいるでしょうね。あなただけ残して、父さんや母さんと姿を消してしまったんだから。本当に悪いと思ってる。でも、あなたまで巻き込みたくなかった。生きてほしかった。だから幸せになってください。私や父さん、母さんの分まで。本当にごめんなさい。さよなら、真佐美」  野上は手紙を読み終えるとフゥーと大きなため息をついて目をつぶった。  そして再び目を開けると、野上は車の中にいた。  手にはタバコを持っている。今にも灰が落ちそうだった。  助手席では真佐美が不満げに野上の顔を見て、 「どうしたんです。いつまでここにいるんですか? 早く行きましょ」 といった。  家のあった場所は更地になっている。 「真佐美さん、さっきまでここに家がありませんでしたか?」 と野上は真佐美に尋ねてみた。 「なに寝ぼけてんですか? 野上さん。さっき、何もないから帰ろうっていったじゃないですか。どうしたんです?」 と真佐美はいっている。  夢を見ていたのだろうか。  野上は内ポケットに手を入れてみた。  さっきの手紙があった。           3  昨日のあれは何だったのだろう。  野上はいつものように喫茶店のテラスでタバコを吹かしていた。  そして小夜香の手紙を眺めている。  小夜香の手紙はここにある。  しかし、それを見つけた家は何処にもない。  しかも、真佐美と二人で家に入ったはずなのに真佐美は何も覚えていないのだ。 (わからん…)  野上はタバコを灰皿に捨てると、新しいタバコに火をつけた。  いろいろ考えても始まらない。真佐美や警察、そして三村などと相談した結果、真佐美は三村家で匿うことにした。いくら鈴木といえども、弁護士宅に押し入る勇気はないだろうからだ。そして、新たな情報が入ってきた。  昨日の夜、藤井から連絡がありナイフの検査の結果が出たそうだ。  その結果、ルミノール反応が検出された。そして、一人分の指紋も発見されたのだ。凶器として断定できたのだ。  念には念を入れて、その血液の検査もしてもらったが、間違いなく人の血液だそうだ。 血液型のほうはわからなかった。なぜなら複数の人間であろう血液が混ざっていたからだ。  そのあとすぐに松山と連絡を取り、鈴木の指紋の採取を頼んだ。  松山は再び鈴木家に訪れて、少々卑怯な手で指紋を取ってきた。  卑怯な手とは、指紋のつきやすいものを持っていき、これを見たことはと聞いて、それを手に持たせたのだ。  指紋はうまく採取できたようで、再び藤井のところに持っていった。  結果は同一人物と出た。  それと、竹本の盗聴だが、どうやら祖母は鈴木の家にいるらしい。  松山も竹本も鈴木の家にいったときは全くわからなかったらしい。二人とも不思議がってはいたが、縛り上げて口をふさいでいればわからないかもしれない。  しかし、やはり肝心なことは小夜香のことだ。  手紙には自分でけじめをつける。さようならと書かれていた。  普通に考えれば、遺書と取れるだろう。 やはり、彼女は死ぬつもりだろう。  野上は再び、日記をペラペラとめくった。今まで日記に出来た名前で、唯一事件に全く出てきていないのが一人だけ。吉村という名前だ。しかし、一日、一ページしか書かれていない。  それが書かれているのは最後に書かれた日の前日だけなのだ。 もう、あの人とはお別れ。いつまでもあの人のことを想っていてもしかたが無いし。私 がこうなってしまった以上ね。あの人も早く私のことを忘れたほうがいい。最後まで、私の思いは告げられなかったけど、これでよかったんだよね。ねっ、吉村君。 となっている。さて、どういうことだろう。 野上が感じた率直な感想は、事件とは直接は関係ないということだ。それよりも、小夜香の個人的な気持ちがこもっているように感じる。 私は死ぬかもしれない。 日記の最後のページに書かれたこの言葉、遺書だと断定してしまえば前日のこの文章の意味がはっきりしてくる。死のうとしている彼女がゆいつ心に残しているもの。それにけじめをつけようとしている文章にみえる。 小夜香の物心ついた頃からのこと。  それがどんなに異常なものか気付いていたとしても、どんなに罪の意識があったとしても、小夜香はそれに関わっていた。彼女の良心は自分のそういった定めのために、人を愛することも許さなかった。命を懸けた逃避行、そして、死を選んだ今。  なぜ、彼女は今まで生きていたのだろう? そしてなぜ今になって死のうとしているのか?  確かに妹のことがあるかもしれない。小夜香と美知子がいなくなれば、黒魔術のことを知っている可能性があるのは真佐美と祖母だけになる。祖母は以前、仲間だったので小夜香もそれほど気にしていなかっただろう。そうなれば矢面にさらされるのは真佐美という事になる。小夜香も、自分が死ぬことによって妹に災いが降り懸かるようなことはしたくなかったはずだ。  小夜香は真佐美のために死ねなかった。しかし、それが逆の結果になり、奴等に小夜香の存在を知られてしまった。鈴木たちは小夜香のことを恐れ、彼女を消そうとしている。小夜香にはもう逃げ場はない。そこで、真佐美は野上に任せ、小夜香は自分の命を絶つことにした。  そして、その前に小夜香は好きだった男性に自分の思いをこの日記に書き記した。  これは、吉村という男性に野上が小夜香の気持ちを伝えるように頼んでいるのか。それとも、小夜香は現に吉村に会いに行っているのだろうか。  この事件の捜査は最終段階にきている。後は起訴に持ち込むために必要な決定的な証拠と、小夜香の捜索だけだ。証拠に関してはほぼそろっている。しかし、逮捕状を請求できたとしても、それから起訴手続きまでは四十八時間しかない。その間に自供させることが出来なければ釈放となる。  そこでどうしても必要となってくるのが証人だ。そういった意味でも小夜香はどうしても必要なのだ。  野上は席を立つとマスターに挨拶をして店を出た。  とりあえず小夜香の親友だった山口由美の所に向かった。理由は簡単だ。吉村という男の所在を調べるのだ。  案の定、知っていたようで由美の話によると小夜香の初恋の男性だったようだ。  由美は小夜香に、それに関する悩みを耳にタコができるくらい聞かされたらしい。野上は女心に関しては苦手だ。しかし、男として小夜香の立場に立ったら、死ぬ前にもう一度会いたいと思うだろう。野上の場合は思ったとしても会いにはいけないだろうが…。女性ならどうだろうか。野上にはわからない。  ただ一つ、言えることは、吉村に会ってみればわかるということだ。  野上は由美に吉村の住所を聞きだし会いに行くことにした。彼は今、岡大の経済学部の学生だそうで、現住所は岡山市西大寺だ。  野上は大学やバイト先などたらい回しにされたあげく、結局は翌日の昼近く、自宅で会うことができた。大学生は行き先がはっきりしないから嫌いだと、野上は思っても口には出さない。  吉村に会うと、例の名刺を取り出し、 「三村法律事務所の野上という者です。ちょっと、お話をお伺いできませんか?」 ときいた。野上は吉村を見るとなるほど、小夜香が惚れた理由もわかるような気がした。身長は百八十センチはゆうにありそうだし、かなりの二枚目で全身からさわやかなスポーツマンをイメージさせる。野上が彼と並んだら、怪しい人間にしか見えない。  吉村は名刺を見ながら不思議そうな表情で、 「弁護士の方がなんのようですか?」 と聞き返してきた。 「泉小夜香さんのことはご存じですよねぇ」 と野上がいうと、吉村の表情はすぐに変わった。当然といえば当然だ。 「実は今、彼女の妹さんの依頼で動いてまして…」 「というと?」 「一週間ほど前になるのですが、泉さんの妹さん、真佐美さんが通り魔に襲われる事件がありました。幸い、たまたま通りがかった人に助けられて、軽傷ですんだのですが、捜査の結果、無差別な犯行ではなく、真佐美さんを狙ったらしいんです」 「本当ですか?!」 「ええ」 と野上がいった後、しばらく考えて、 「これ以上のことはここではちょっと。第三者の耳に入ったら大変ですので。どこか、ほかの場所でお話しできませんか」 と聞いた。 「あっ、今、家には僕以外誰もいませんのでお上がり下さい」 と吉村はいい、応接間に案内してくれた。二人はソファーに座ると、 「タバコ、いいですか?」 と野上が聞いた。 「ええ、かまいませんよ」 と吉村はいい、野上に合わせ、自分もタバコに火をつけた。  そして、タバコを一息吸うと、 「しかし、それと泉とどう関係があるのですか?」 と吉村が聞いてきた。 「実は泉さんの死は自殺ではなく、他殺の可能性があるのです」  吉村の顔から、スーッと血の気が引いていっているのがわかった。信じられないといった表情だ。  しかし、しばらくすると落ちつきを取り戻したようだ。 「それで、なぜ僕の所に?」  野上はその質問に待ってましたといわんばかりに小夜香の日記帳を取り出し、 「これは泉さんの日記です。このページを読んでみて下さい」 といってその日記を吉村に渡した。  吉村はそのページを読み終えると、後悔や悔しさ、怒りなどといった感情が入り交じった表情をした。 「彼女がこんな事を…」 「ええ」  吉村は小さくため息をつくとポツリ、ポツリと話し始めた。 「僕は彼女のことが好きでした。一目惚れってやつですよ。高二の時で今でもはっきり覚えています。四月にクラス替えがあって僕と彼女はその時に同じクラスになっりました。彼女は僕のちょうど斜め前の席でしてね。いつも、窓の外を眺めていました。すごい寂しそうな表情をしているんですが、そんな彼女がときどき見せてくれる、はにかむような笑顔が本当にかわいいんです。彼女に見つめられたら、頭が真っ白になってましたよ。すごくきれいな瞳をしていました」  吉村は寂しそうな表情で微笑した。  野上はその吉村の表情を見て、まだ小夜香のことを想っているんだろうなと思った。気持ちは痛いほどわかった。 「卒業の一週間前に彼女に告白したんですよ。付き合ってほしいって。振られちゃいましたけどね。彼女は僕のことなんか眼中に無いと思っていたんですけど」  野上はなにも言わずに、タバコの火を消すと、新たにもう一本火をつけた。 「すいません。こんな話、しちゃって」 と吉村は我に返ったように言った。  野上はあわてて、 「いえ。とんでもありませんよ」 と否定して、再び黙ってしまった。野上は迷っているのだ。小夜香のことに関して、本当のことを言うべきかどうかを。そして、 「最近、泉さんに似た人を見かけませんでしたか?」 と質問した。 「は?」  吉村は当然のように、ビックリしている。 「実は僕の前に、泉さん、そっくりな女性が現れて、真佐美さんを捜してほしいと言ってきたんですよ」 「ほ…、本当ですか?!」 と吉村は突然立ち上がると野上に食って掛かるように聞いてきた。 「ええ………」  野上は吉村の勢いに驚きながら、 「しかし、どうして?」 と吉村に聞いた。  すると吉村は再びソファーに座りなおし、 「なんだか、彼女は生きているような気がするんですよ。また、いつかあえるような、すぐそばにいるような気がして。多分、いつまでも彼女への思いが断ち切れないからだと思うんですけど。それだけじゃないような気がして…」  野上の額から、タラーッと汗が流れてきた。 「ちょっと待っててください。すぐに戻りますから」  吉村はなにか思いだしたらしく、立ち上がって部屋から出ていった。そして、三十秒ほどで再び戻ってきた。 「ちょっとこれを見て下さい」 と吉村は言うとハードカバーの分厚い辞書のような本を野上に渡した。  野上はそれを手に取ると一言、 「新約聖書、カトリックですか」 といった。小夜香の部屋で、最初に見つけたのと同じやつだ。 「ええ、実は二週間ほど前に家のポストに入っていたんですよ。気味が悪かったんですが聖書なんて捨てるわけにも行かないし、とりあえず取っておいたんですよ。最後に、変なことが書いてあったし、また勧誘かなにかだと思ったんですけど、今ふと思いだしたんです」  野上は急いでそれを開くと一番最後のページを見た。万年筆かなにかで書かれた英語の文章があった。  我、汝の肩から重荷をのぞき、汝の手をかごから免れさせた。 と書かれている。これは聖書の詩編の一つだ。小夜香の字と見て間違いない。 小夜香は知っていた。吉村がまだ、小夜香のことを思っているという事を。そして、小夜香にとっても吉村は忘れられない存在だ。  それは、お互いにとって負担のはずだ。少なくとも小夜香は、死んだことになっているのだから。吉村にしたって、まだ小夜香の遺体が発見されてないことで、もしや生きているのではという考えがどこかにあるはずだ。  やはり小夜香は、自分の死をもってお互いの思いをたちきろうとしたに違いない。  それが日記やこの聖書から読みとれる。  自分の犯した罪を妹を守ることによって償おうとした。  そして今、神は小夜香を呼び戻そうとしている。  野上は吉村に挨拶すると、急いで外に出た。  彼女が普通かどうかはともかく、もし、自殺をするなら何処を選ぶだろうか。  鈴木への恨みを込めて、ミサを行っていた場所、あるいは無理心中を行った場所。  もし、自分がその立場だったら心中をした場所を選ぶだろう。  小夜香は?  多分、同じではないだろうか…。  野上はいてもたってもいられなくなり、車に乗り込むとすぐに美星町へ向かった。  そして、三時過ぎに鬼ヶ嶽についた。  野上が転落した無理心中の現場に到着して、車を隅に止めると、車を降りガードレール沿いに立ち、下を覗いた。  何もない。誰もいない。  飛び降りているのか、それともそうでないのか、野上にはわからない。  とりあえず、いつもの小さな休憩所にいった。  そこにアバルトを止め、車を降りると再び、下を見下ろした。  単なる崖だ。  タバコを取り出し火をつけると、渓谷を眺めながらタバコを吸った。  どうすればいいのだろう。  野上はしばらく考え込んだ。  小夜香はいったい何処へいったんだろう。  小夜香のことを考えると野上はいたたまれない気持ちになった。  どうすることもできずにあきらめて帰ることにした。そして、振り返ってとぼとぼと車に向かって歩き出した。  しかし、もう一度その場所を見たくなり、何気なく振り返った。  女性が立っている。  泉小夜香だった。  野上は最初、戸惑ったが笑顔を作り、 「捜しましたよ」 とゆっくりとやさしくいった。  小夜香がどこから現れたのかわからない。  なぜここにいるのかもわからない。  小夜香がいるのではという予感は漠然とはあった。  しかし、こうまで突然に目の前に現れると何といっていいのかわからない。  そんな野上の表情を見て小夜香は微笑んだ。陰りのない笑顔で、まるで彼を待っていたようだった。 「帰りましょう」 と野上がゆっくりと近づいていった。しかし小夜香は静かに首を横に振った。 「帰れません。もう、私には帰るところはありませんから」 「そんなことはありませんよ。あなたには…」  野上は吉村のことを言おうとした。しかし、言えなかった。 「私は多くの罪のない人を殺してしまいました。私のいる場所はありません。それに真佐美が命を狙われたのも私のせいです。代々泉家の女性は魔女としての宿命がありました。父と母が死んだのは、父がその呪われた血を断ち切ろうとしたからです。そして、真佐美が命を狙われたのは鈴木たちが私に魔女をやらせようとしたからです」  野上は黙っていた。 「私がいなくなってから代役の人が外国からきました。しかし、彼らには力が足りなかった。彼らは考えました。そして、真佐美のことに気がついたんです」 「しかし、真佐美さんには経験がたりないとあなたのおばあちゃんが…」 「確かにそうです。真佐美には魔女の能力はありません。しかし、彼女には魔女としての血が脈々と流れています。真佐美は無理としても、彼女の子供ならば十分間に合います」「まさか!」  小夜香はうなずいた。 「やつらは真佐美を捜し出そうとしました。彼女を拉致してしまえば…。血は濃ければ濃いほうがいい。そういう意味では、ちょうど術師の能力を持った人が、私の助っ人としてきていました。そういった男と交われば、その子はより魔女としての力を持つはずです。だから私はそうならないために鈴木に自分の存在をしらせました。あいつにとっては素人の真佐美よりは、経験者の私の方が必要でしょうし」 「ちょっと待って下さい。でも、犯人たちは真佐美さんを殺すと…」 「ええ、鈴木たちは私があなたと一緒にいると思いこんでいました。だから、脅しとして真佐美を殺すといえば、私がまた黒ミサに戻ると思ったんでしょうね。私が生きていると思いこんで」 「思いこんで?」 「ええ。そして、あなたに真佐美を捜し出して守ってくれるよう頼んだのです」 「思いこんでってどういうことですか? 小夜香さん」  野上は小夜香に近づこうとした。しかし小夜香は野上に向かって手を伸ばしした。その瞬間、野上の体は動かなくなった。  突然、風の音が大きくなった。 「野上さんには、大変お世話になりました。私は…、行かなければなりません。だから、ここでさよならです」 「どうして…。だって、あなたは聖書に自分で書いていたでしょ、神に残りの人生をすべて捧げるって。神のために祈るって」  息子よ、あなたの犯した罪を神に告げなさい。  そして祈りなさい。  息子よ、自分を偽ることは神を偽ることです。  神はすべてを見ておられます。  息子よ、あなたの残りの人生のすべてを神に捧げなさい。  神はたとえ罪人であろうと、わけ隔てなくあなたを愛してくれるでしょう。  だから息子よ。  あなたも神を愛しなさい。  そして、祈るのです。  あなたの犯した罪を償うために。 「真佐美の気持ちを考えると私は死ななければならないと思った。でも、私が死んだ後、残された人たちをそのままにしておくわけにはいかない。だから私はここにいるんです。私は生きていては、いけない人間。だから、自ら命を絶つ道を選んだ。そして、真佐美とおばあちゃんを守るために、ここに戻ってきた。罪を償い、祈ることによって…。だから私は、行きます、神の下に」  小夜香のはにかんだ笑顔の瞳から涙があふれてきた。 「そして、父と母のところへ。私は泉孝幸と美知子の娘ですから」  そういうとゆっくりと手を下ろした。  それと一緒に野上も目を閉じてしまった。  再び目を開けたときには、そこに誰もいない。  野上は、走って崖プチまで行き下を見た。  下は林になっている。  もし飛び降りをしたのなら、まだ見えているはずだ。しかし、そこには何もなかった。 野上は、崖プチでしばらく渓谷を眺めた。  初めてここに来た時は、まだ淡い緑のなかで、桜が咲いていた。  それからずいぶんたった。  深い緑の色と、蒼い空の色、白い雲…。  風の音と共に鳥のさえずりも微かに聞こえた。  やさしい風が心地好く前髪を揺らしている。 「さようなら」  そう呟くと野上は振り返り車に戻った。           4  鈴木は、あせっていた。  泉小夜香が現れないからだ。  それどころか、あれほどうまく行っていた呪文が野上という弁護士や松山という刑事には全く効かないのだ。  真佐美に効かないのはわかる。それに対する免疫があるからだ。  しかし、あの二人に全く効かないというのは納得いかない。  しかも、直接手を下そうとしても、失敗ばかりしている。  仲間が二人も死んでしまったのだ。  まさか、小夜香が二人に結界を張っているのだろうか。 (どうすればいい)  鈴木は、心のなかで呟いた。  手加減したのが間違いだった。真佐美にあの程度の傷を負わせてやれば、必ず小夜香が現れると思ったのだが、彼女もそれほど生易しくないということだ。  しかも野上によって邪魔をされてしまった。  もし、彼が現れなかったら有森を殺す必要もなかった。そして、栗田も。  どうにか野上と松山を殺す方法はないのだろうか。  そして、この老人の始末の仕方も考えなければならない。  野上が尋ねてきたのは、鈴木の気持ちが揺れ動いているときだった。  玄関前で野上は、 「三村法律事務所の野上です。三村先生の命により来ました」 といった。右手には風呂敷を持っていた。 「またあなたか。弁護士が私に何のようですか?」 「有森憲次さんと栗田益男さんが殺された件でお話をお伺いしようと思いまして」 「何をいっているのか分かりませんね」 「それならついでに松田一朗さんと内田康子さんの殺人事件のこともあるんですが」 「きさま…、なにを!」 「まだまだありますが、例えば泉夫婦に対する自殺教唆とかもあります」 「いいかげんにしろ!」  鈴木の手がプルプル震えている。 「真佐美さんを襲っても、小夜香さんは来ませんよ」 と野上が鈴木を睨つけていうと、鈴木の視線も鋭くなった。 「何をいっているんだ、あんたは? 帰ってもらおうか」 「僕は小夜香さんから話を聞いています。証拠もあります。ここで僕を追い返すのなら、そのあしで岡山地方検察庁へ証拠を提出します」  鈴木の表情に焦りが見えた。 「中に入ってもらおうか?」  鈴木は、野上をリビングに案内した。  そして、コーヒーを入れテーブルの上に置き、自分もソファーに座った。 「証拠とは何だ」  野上は、コーヒーに砂糖とフレッシュを山のように入れ、一口飲んだ後、 「やはりコーヒーは嫌いだ…。申しわけありませんが、紅茶に変えてくれません?」 というと鈴木はものすごい形相で立ち上がった。 「失礼。証拠というのはこれです」  野上は風呂敷の中から桐箱を取り出した。  鈴木の表情が変わった。 「この中にはナイフが入っています。もちろん検査も済みました。ルミノール反応とあなたの指紋が検出されています」 「まさか、警察に?」 「それは大丈夫です。私立の大学病院で検査をやってもらいましたから」 「要求は?」 「要求は、泉真佐美さんの身の保証です。もちろん、小夜香さんにも近づかないように」「小夜香は、俺が生贄として人を殺していたのを知っているんだぞ。それについてはどうするんだ」 「小夜香さんは、それに関しては共犯です。あなたのことを話せば自分の首を絞めることになりますから。もちろん、少しでもあなたが不審な行動に出れば、小夜香さんはだまっていません」 「よかろう」 「では」  野上は、立ち上がりリビングを出ようとすると、カチッという音が聞こえた。  振り返ると、鈴木が拳銃を構えていた。 「殺す気ですか?」  鈴木はニヤリと笑い、 「将来の戦争の種を密かに保留して締結された平和条約は、けして平和条約とはみなされてはならない。あんたは知っているか、この言葉を」 といった。 「カントの言葉ですね」 「そうだ。こんな契約などは何の意味も持たない。お前を殺した後、小夜香と真佐美も殺してやる」 「残念ですが、それはもうできません」 「なに?」 「その桐箱の中は空です。今はあなたの所に何度もやってきていた刑事の元にあります。それに泉小夜香さんは死にました。いや、正確にいえば二年前に、すでに亡くなっています」 鈴木は、信じられないような表情で野上を見ていた。 「確かに小夜香さんはあの事故から生還しました。しかし、彼女は自分の罪に耐え切れなくなり、自ら命をたったのです。僕は、小夜香さんのあなたに対する怨念に導かれてここにやってきたのです」 「じゃ…、じゃあ証拠というのは」  野上は内ポケットからマイクロカセットを取り出した。RECのボタンが押してある。「だましたのか?」 「ナイフについては本当です。小夜香さんは事故の数日前に祖母のところに行き、ナイフを預けていたのです。僕はそれを渡され検査をやった後、刑事に保管してもらいました。証人は確かに嘘です。だからこれを使いました。ドラマでは使い古された手ですが、実際にこういったトリックをされても凡人は対応できませんから…」 「死んでもらうしかないようだな」 そういい鈴木が引き金に手を掛けた瞬間、 「お前はその銃で何人の人間を殺したんだ」 と玄関のほうから声が聞こえた。 「誰だ!」  鈴木が叫んだ。 「しかし、お前に拳銃はもったいない。タロットカードで十分だ」 といい終わると二人の男が拳銃を構えて入ってきた。青い帽子をかぶり、同じ色の腕章を左手に巻いてある。 「岡山署の松山だ。鈴木! 銃刀法違反、殺人未遂の現行犯で緊急逮捕する。銃を捨てて手を挙げろ」 と怒鳴った。もう一人は竹本だ。 「うるさい!」 と鈴木は一向に聞こうとしない。 「俺たちは、お前の起こした事件のために同僚を死なせてしまったんだ。下手な真似をしてみろ。頭をぶち抜くぞ!」  二人が拳銃のハンマーを下ろした瞬間、鈴木は自分の頭に銃口を当て引き金を引いた。 それと、ほぼ同時に松山が鈴木の銃めがけて引き金を引いた。  二発の銃声が鳴り響き、鈴木が頭を押さえて倒れた。 「タツ! 救急車!」 と松山が叫んだ。鈴木が頭を押さえて倒れたのが軽傷である何よりの証拠だからだ。  そうでなければ、救急車など呼ばない。  野上は、松山にテープを渡すと無言のまま部屋を出た。         エピローグ  そろそろ春も終わる。  事件のほうも解決に向かい、捜査の舞台は岡署から矢掛署へと移った。  鈴木は野上に対する殺人未遂と銃刀法で逮捕、起訴され、その後、倉敷での殺人で再逮捕された。そして先日、倉敷署から矢掛署に護送され、現在では鬼ヶ嶽ダム殺人事件の取り調べを受けている。  事件に関わっていたとされる人間は、死んだ有森、栗田を除いて、鈴木以下十人が逮捕された。  しかし、驚くことに鈴木の自供には政財界の大物の名前が次々と出てきたのだ。  どうやら、彼らはいろいろと鈴木たちに依頼をしていたらしい。  例えば、誰かを失脚させてほしいだとか、殺してほしいなどだ。  なんだか滑稽な話だが、しかし何かのトップにつく人間は、目に見えない力に頼りたくなるのだろうか。  なんとなく、哀れに感じる。  それと真佐美の祖母だが、鈴木の家に拉致されていたのを無事保護された。  衰弱はしていたものの、命には別状なく先日、退院して前よりもいっそう凄みを増していた。  不幸な事故で死んでしまった小林刑事は事件現場に向かう途中ということもあり、殉職扱いになった。これで小林の妻子は一生暮らしに困ることはないのだが、それでも二人の心に開いた穴はそう簡単に埋まるものではない。ただ、そのことに関して一つだけ吉報があった。この鬼ヶ嶽連続殺人事件の解決には小林の多大なる努力があり、その勇気と努力を讃え生涯二度目の県警本部長賞が授与された。それと同時に二階級特進され警部に昇進した。  野上はその授与式に参加していた。最初は笑顔を見せていた野上も、最後には大粒の涙を流していた。  そして最後に小夜香のことだが、彼女の遺体が発見された。  場所は野上がこの事件でよく立っていた鬼ヶ嶽ダムの休憩所だった。  見つかったのは全くの偶然で、夏を前に草刈りをやっていた消防団員が発見したのだ。 死体は死後一年以上経過していて、おそらく祖母の家を出た後に飛び降りたのだろう。 検死の結果も、飛び降り自殺と断定した。  そして服装もその時のままだった。  しかし、今までなぜ発見できなかったのか、関係者は不思議がった。  だが野上は小夜香の事件に対する怨念が今日まで発見を遅らせたと信じている。そして今、すべてが終わり、自分の好きだった男性の肩から重荷を下ろすために小夜香はこういう道を選んだのだろう。  そして世間ではゴールデンウィークだと騒ぐ季節になってきた。  しかし、サービス業の二人には関係ない。  二人とは野上と真佐美のことだ。野上は真佐美の休みに合わせ、日帰りで美星町へ行ったのだ。二人は小林の事故現場に行ったあと、小夜香の死体が発見された休憩所につくと花を供えた。そして鬼ヶ嶽を見下ろした。 「やっと終わりましたね」  真佐美が、ぽつりといった。  野上は、苦笑いをしながら、 「真佐美さんは、終わったかもしれませんが僕のほうは終わってませんよ」 といった。 「アハハ、すいません」 「やっぱり、やり方に問題がありましてね。それに現職の刑事の発砲というのもすんなり行かないわけです」 「でも、あの時の怪我は自分の撃った弾が原因でしょ」 「まあね。あそこで松山刑事が撃っていなければ鈴木は死んでいましたから。問題は、刑事が弁護士の命令で動いたということです。検事と違って、弁護士には捜査権もなければ警察に対する命令権もないですから」 「ふーん。でもお姉ちゃんかわいそう。やりたいこともできず好きな人ができても打ち明けることすらできない。子供の頃から人殺しの現場を見せられて辛かったでしょうね…」 野上は何もいわずに小夜香の手紙を差し出した。  それを読んだ真佐美の瞳に涙が浮かんできた。 「確かに小夜香さんは辛かったと思います。だからこそ、あなたはお姉さんのぶんも、そしてご両親のぶんも生きていかなければならないのですよ。それに小夜香さんはまだ生きていますから」 「えっ?」 「あなたを守るために二度も僕の前に姿を表したんですよ。大丈夫です。いま、あなたは小夜香さんとわかりあえたでしょ。これからはずっと一緒です。嬉しいときも悲しいときもさみしいときも、これからは一人じゃなく、お姉さんとずっと一緒、二人で生きていくんですよ。だって、たった二人っきりの姉妹でしょ」  真佐美は野上に涙を見せないように後ろを向いてしまった。そして涙を拭き取ると、屈託のない笑顔に戻って、 「だったら野上さんとつき合おうかなぁ。日記を見る限り、お姉ちゃん、結構野上さんのことを気にしてたみたいだから。どうです、お姉ちゃんと私、二股かけてみる気はありませんか?」 ととんでもないことを言い出した。  野上は微笑すると、 「考えときますよ」 と切り返した。 「あーっ、逃げた」  真佐美が恨めしそうな顔で野上を見るので彼はそっぽを向いた。その野上の態度を見てため息をついたが、再び笑顔に戻り、 「でも…、幻じゃあなかったんですよね」 と渓谷のほうを見て言った。 「ええ、そう思います。たまにはいいと思いますよ」  野上は真佐美のほうを見て二コッと笑うと、 「奇跡を信じてみるのも」 といってはるか眼下に見える鬼ヶ嶽ダムを見下ろした。  二人の間を心地好い風が吹いてきた。                               1994 6/24